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尾布山の誤解と、武闘派ちびっ子当主(第2.5章 尾布山 前編)

帝都を震撼させた、あのあやかし襲撃の余波が少しずつ収まりを見せていた頃――。


『神隠しの山』のすぐ隣に位置する深い霊山、『尾布山(おふせん)』。


その麓(ふもと)に、小さな人影がひとつ、威風堂々と立っていた。


「見なさい!あれが今回の討伐対象が出没したという尾布山ですわ!物部(もののべ)家の次期当主たるこのわたくし、物部葵(もののべあおい)が、チャチャッと片付けて見せますわよ!オーホッホッホッホッホ!」


高らかな笑い声を響かせ、胸を張る少女。


豪奢な金糸の刺繍が絢爛豪華に施された着物を身にまとい、幼いながらも堂々とした立ち姿を見せる美少女――物部葵。名門・物部家の次期当主である。


彼女には、双子の弟がいる。名前を物部翠(すい)という。


翠は、葵とは対照的な性質の持ち主だった。


花を愛(め)で、小動物を慈(いつく)しみ、静かに本を読むことを好む。強大な治癒の力を秘めた、心優しい陰陽師だ。表に立って人々を率いるよりも、影から誰かを支え、傷ついた者を癒やす救護の役目を担いたいと望むような、控えめな少年である。


生まれつき体質が弱く、太陽の光を浴びると体調を崩してしまうため、滅多に屋敷の外へは出られない。


だからこそ、こうして遠出の討伐任務に彼の姿はなかった。


その代わりに、元気があり余っている武闘派の葵が、先陣を切って乗り込んでいるのだった。


歳は今年でまだ九歳。


幼さの残る丸顔に、くりっくりとした大きな瞳。小柄で華奢な身体は、どこからどう見ても愛らしい少女そのものだ。


だが、その小さな背中に背負うのは、古くから帝都四大陰陽家の一角として、『武闘派』の名で恐れと尊敬を集める名門『物部家』の家名である。


そして、本人もその名に恥じぬ実力を持っていた。


――本人いわく、物部家の歴史上でも屈指の天才なのだから。


今回、物部本家に届いた依頼は、「尾布山の結界にわずかな異変が見られるため、念のため現地を確認してほしい」という、あくまでも様子見のものだった。


(しかし、本家から「ちょっと様子を見ておいで」と言われた葵は、勝手に大捕り物のつもりで乗り込んでいるのだった)


物部家の現当主は、北のあやかし討伐のため、すでに現地へ出向いている。


ゆえに、九歳になる愛娘・葵を単身で現地へと派遣したのだ。


もちろん、影から見守る物部家の手練れの陰陽師五人と、監視の伝書式神を数羽飛ばしてはいる。


しかし、基本的には葵一人の実力で解決させることが目的のようだった。


「ふふん!わたくしは物部家の歴史上でも屈指の天才!あやかしの一匹や二匹、物部流の真骨頂で見ちぎって差し上げますわ!」


自信満々に言い放つと、葵は小さな鼻から荒い息を吐きながら、濡れた落ち葉を踏み締めて山道を進んでいった。


ザクッ、ザクッ。


湿った落ち葉が、小さな足元で頼りなく潰れていく。


しかし、険しい山道を登り始めて、わずか十分後のことだった。


「きゃんっ!?」


ズルッ!


足元の落ち葉が滑った。


「ひゃっ――!?」


次の瞬間、葵の身体は見事なまでに傾き、ドスンッ!と勢いよく尻餅をついた。


「うぅ……っ!痛い……痛いよぉ……っ!」


誰もいない、静まり返った山道。


先ほどまで威風堂々と胸を張っていた少女は、そこにはもういなかった。


小さな手で尻を押さえ、目を潤ませた葵の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。


その瞬間――。


「ッ!!」


周囲の木々の影から、五つの気配が同時に息を呑んだ。


「あっ……!あ、葵様が転ばれたぞ!今すぐお手当てを――!」


「バ、バカ者!顔を出すなッ!葵様お一人で解決させよとの当主命令でおわすぞ!」


「しかし、あの涙を……!ぐぬぬ、今すぐあの落ち葉どもをこの拳で粉砕を……!」


「待て待て、わしがこの最高級の絆創膏をそっと置いてくる!そ(・)っ(・)と(・)ならいける!」


「静かにしろ!気づかれたら我々が当主様に雷を落とされるわ!」


木々の陰に潜む、五人の護衛陰陽師。


普段は数々の修羅場をくぐり抜けてきたであろう手練れたちも、こと葵のこととなると、途端に調子が狂ってしまうらしい。


「絆創膏を置くだけなら……いや、しかし、当主様の命令が……!」


「ならば、あの落ち葉をすべて排除すればよいのでは!?」


「おぬし、山道そのものを破壊する気かッ!」


小声でオタオタと揉めに揉める五人。


だが、そんな彼らの騒動など、葵は知る由もなかった。


葵はすぐさま着物の袖で乱暴に目元を拭うと、勢いよく立ち上がった。


そして、誰もいない空に向かってキーキーと叫ぶ。


「な、泣いてないもん!痛くないもん!なによ!物部家の次期当主が、こんな湿った落ち葉で転んだくらいで泣くわけないもん!翠のバーーカ!泣いてないもんったら泣いてないもん!」


言えば言うほど、涙の痕が目立ってしまっている。


それでも、本人にとっては大問題なのだ。


名門・物部家の次期当主が、たかが落ち葉で転んで泣いたなどという事実は、断じて認められないのである。


(そのころの翠――)


「ヘクシュッ……風邪かな。用心しないとねーさんの『バカ』がうつってしまう……」


遠く離れた屋敷で、何も知らない翠が小さなくしゃみをひとつ。


姉の不機嫌な叫び声が、なぜか届いたかのような絶妙なタイミングだった。


葵の不器用で意地っ張りな性格は、周りに誰もいなくとも一切変わらない。


小さな手で着物の汚れを払い、腰を叩く。


そして、何事もなかったかのように、再び山奥へと足を進めていった。


奥へ進むにつれ、周囲の樹木は鬱蒼と生い茂り、枝葉が幾重にも重なって空を覆い隠していく。


昼間だというのに、太陽の光はほとんど差し込まない。


ひんやりとした風が頬を撫で、湿った土の匂いに、何か得体の知れないものの気配が混じり始めた。


肌を刺すような冷たい妖気。


それは、山の奥へ進むほどに濃くなっていく。


葵が足を踏み入れていたのは、すでに危険区域と呼ぶべき場所だった。


ガサガサッ――!


「っ!?出ましたわね、あやかしですわーッ!」


前方の鬱蒼(うっそう)とした草むらが、激しく揺れた。


その瞬間、葵はビクッと肩を跳ねさせたものの、すぐさま気を取り直して叫んだ。


慌ただしく着物の袖口から取り出したのは、朱色の特殊な墨でびっしりと呪文が書かれた紙の束――物部家秘伝の『強化符』である。


葵はそれを幼い両拳へグルグルと幾重にも巻き付けると、霊力を一気に流し込んだ。


シュウゥゥ……!


朱色の文字が、まるで命を宿したかのように光り始める。


小さな両拳が、鮮やかな朱色の光に包まれた。


その様子を見守っていた護衛たちは、思わず顔を見合わせる。


「な……なにか感じたか?」


「いや?わしは何も……」


「わたしも何も」


「ボクもサッパリ……」


「誰も何も感知できぬとはな……」


五人は困惑した。


草むらの向こうにいるのは、いったい何者なのか。


この濃密な妖気の中、何も察知できないなど、普通ならばあり得ない。


だが、そんな疑問も、次の瞬間には別の感情へと塗り替えられた。


「は……さすが葵様、我ら手練れ五人の察知を遥かに超える霊力の冴え……!」


――さすが葵様!


護衛たちは、なぜか勝手に納得していた。


「物部流の恐怖をその身に刻みなさい!破邪の拳――ッ!」


葵が気合い十分で飛び出した。


小さな身体が、朱色の光をまとって一直線に草むらへと突っ込んでいく。


だが、その先に待ち構えていたのは――。


草むらを押し分け、ぬうっと姿を現した二人の美少女だった。


「騒がしいねー、まったく!なんだい、なんだい!急に人がぞろぞろ入ってくるなんてさ!結界張ってたと思うんだけど?」


元気いっぱいに八重歯を覗かせた少女が、眉を吊り上げて声を上げる。


その隣では、もう一人の少女が呆れたように溜め息をついていた。


「晄、少し落ち着きなさい。や(・)わ(・)な結界が破れただけでしょう……おや、人間……一人は子供ですか?こんな危険な深山に子供と入ってくるなんて、いい度胸ですね」


現れたのは、三毛猫の猫又――晄(あきら)。


そして、美しく長い白銀の髪をなびかせ、優雅に白い扇子を手に持った白猫の猫又――涼(すず)。


二人はこの尾布山で気ままに暮らしている、人型に完全変化できるほどの絶大な妖力を持った猫又のあやかしたちである。


その姿は、どう見ても普通の少女にしか見えない。


しかし、二人の周囲には、熟練の陰陽師でさえ思わず息を呑むほどの妖気が満ちていた。


もっとも、今の葵に、そんなことを気にする余裕はない。


「何言ってるの?わたくしは一(・)人(・)で参りましたのよ?問答無用!尾布山のもののけ!わたくしを騙そうとしても無駄ですわ!討伐して差し上げますわーッ!」


「はあ!?ちょっと待ちなよ、お嬢ちゃん!わたしらなにもしちゃいないよ?そりゃ結界は張ったけど、それはわたしらを守るためであって……だから!討伐対象のあやかしじゃないよ!濡れ衣だってば!」


「 あやかしの言うことなんて信じませんわ!物部の拳のサビにして差し上げますわーッ!」


晄の必死の弁明も、葵にはまるで届いていなかった。


葵は巻き付けた符に全霊力を注ぎ込む。


両拳を包む朱色の光が、さらに強く、激しく輝き始めた。


「喰らいなさい!物部流呪術拳――『破邪の一撃』ですわぁぁぁーッ!」


「うわっ、マジで殴りかかってきた!?こいつ、拳にゴリゴリの爆破呪術ノっけてやがる!」


ドガァァァンッ!!


葵の小さな拳が空を切り、そのまま背後にそびえる大木へと叩き込まれた。


直径二メートルはあろうかという巨木。


その幹に拳が触れた、次の瞬間――。


ドォォォォンッ!!


凄まじい爆炎が炸裂した。


轟音とともに大木が内側から弾け飛び、木片と砕けた樹皮が四方八方へと吹き飛ぶ。衝撃波が地面を駆け抜け、周囲の草木を激しく揺らした。


爆風が収まったとき、そこにあったはずの大木は、跡形もなく粉々に砕け散っていた。


九歳とは思えぬ異常な破壊力。


武闘派・物部家の血統は伊達ではない。


「話を聞けーッ!わたしらに向かって突っ込んでくんじゃないよ!」


晄は叫びながら、飛びかかってくる葵を必死に避け続けた。


一撃でもまともに受ければ、猫又といえど無傷では済まない。


しかも、葵は自分の攻撃が当たらないことに腹を立てたのか、ますます勢いを増して拳を振るってくる。


「このっ!このっ!ちょこまかと逃げ回るんじゃありませんわーッ!」


「いや、逃げるだろ普通!その拳、当たったらシャレにならないんだけど!?」


「あの子供、完全にテンパっていらっしゃいますわ。あの拳を直撃されたら、いくら私どもでもタダでは済みませんわよ。フフフ……森の方々!この子供をお止めにならないと、どうなっても知りませんよ?」


「笑い事じゃないって、涼!避け損ねたら大怪我する!」


晄が怒涛の連撃をすんでのところで回避する一方、涼はどこか余裕のある表情で、その様子を眺めていた。


やがて、涼は呆れ顔で扇子をパチンと閉じる。


そして、優雅にひと振りした。


「少し……冷やしなさい――『氷結の鎖』」


ヒュゥゥゥ……!


一瞬、周囲の空気が凍りついた。


次の瞬間、葵の足元から冷気が一気に広がり、地面が白く染まっていく。


「きゃああっ!?足が……足が凍って動かないもん!ズルい!強くてかわいいなんて!あやかしのくせにいいぃい!」


足元を一瞬で凍らされ、葵はその場に拘束されてしまった。


逃れようとバタバタと腕を振り回すものの、氷はびくともしない。


「ですからお嬢さん、お伝えしたではありませんか。私共は人を襲うような低級なあやかしではありませんと……」


涼が深々と溜め息をつき、ようやく説明を始めようとした――まさに、その時だった。


――グオオオオオオオオオオオオンッ!!


山全体を激しく揺らすような、不気味で重苦しい咆哮が響き渡った。


ビリビリと空気が震え、木々の葉が一斉にざわめく。


それまで山を包んでいた静寂が、たった一声で無残にも打ち砕かれた。


空がにわかに暗雲に覆われ、ドロドロとした不快な黒い邪気が、頭上の木々の間から濁流のように溢れ出してくる。


「きゃああ!なになになに!?」


「……ッ!?な、何ですの……!?」


「チッ……!お嬢ちゃんが騒ぐから出てきちまっただろうが!」


晄の表情から、先ほどまでの軽口が消えた。


涼も扇子を持つ手を止め、鋭い眼差しを山の奥へと向ける。


次の瞬間だった。


バキバキバキィッ!!


大木が、まるで玩具のようにへし折られた。


その向こうから、巨大な影がゆっくりと姿を現す。


全身に無数の目が不気味に蠢く、巨大な百足(むかで)の形をした異形の凶悪あやかしだった。


体長は十メートルを優に超える。


幾重にも連なる節くれだった胴体。その両側から生えた無数の脚が、地面を不規則に這い回るたび、湿った土が抉られていく。


そして、口元に並ぶ鋭い毒牙。


そこから滴り落ちる酸の唾液が、地面に落ちた瞬間――ジュッ!


落ち葉が音を立てて溶け、黒く焼け焦げた跡を残した。


その巨体が放つ邪気は、先ほどまでの冷たい妖気とは比べものにならないほど濃密だった。


『ギシシシシ……人間のガキ……美味そうだ……喰ってやるぇぇぇッ!女狐ども、どけえぇぇ!』


「誰が狐だって?こちとら猫なんだけどね」


晄は即座に言い返したものの、視線は巨大百足から一瞬たりとも逸らさない。


次の瞬間――。


本(・)物(・)のあやかしは、足元の凍りついた葵を目掛け、弾丸のような速度で頭上から急降下してきた!


「――させんぞッ!当主様よりお言付かりした護衛部隊、推参ッ!」


「参る!!破邪符拳!急々如リ……つ……あがっ!?」


その瞬間、周囲の影から五つの人影が躍り出た。


葵に悟られぬよう、ずっと影から追従していた物部家の熟練陰陽師たちである。


彼らは葵を護るべく、素早く手印を結び、防衛結界の術を組み上げようとした――だが。


ガシュッ!パキパキパキッ!


「「「「「ひぐぁッ……!?」」」」」


術が完成するよりも早く、巨大百足の無数の脚と巨大な毒牙が、突風のごとき速度で五人の陰陽師たちを一網打尽に薙ぎ払った。


あまりにも一瞬の出来事だった。


断末魔すらあげる暇もなく、五人は巨大百足の毒牙に噛み砕かれ、ボキボキと不気味な音を立てながら、次々とその口の中へと呑み込まれていく。


『グシャグシャ……ハハハッ!歯ごたえのない雑魚どもめ!腹の足しにもならんわッ!』


一瞬だった。


物部家が誇る、大人の熟練陰陽師五人。


その五人が、何の抵抗もできずに一瞬で『餌』へと変わったのだ。


先ほどまで、影から葵を見守り、転んだだけで大騒ぎしていた者たち。


その姿は、もうどこにもなかった。


「あ……あ……うっ……!?こ……こんなあやかしのこと聞いてないもん!村里に降りてきて、動物をちょっと食べるくらいって……聞いてたもん!!!」


葵の声が震えた。


先ほどまでの威勢は、見る影もない。


目の前で起きた出来事が、あまりにも現実離れしていた。


自分を護ってくれるはずだった大人たちが、一瞬で食い殺された。


あの五人は、物部家が選び抜いた手練れの陰陽師たちなのだ。


その彼らが、まるで何の抵抗もできなかった。


あまりの恐怖と圧倒的な圧迫感に、葵の幼い身体が完全にすくむ。


大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。


「うあぁぁ……お父様……たすけて……っ!」


もう、強がる余裕などなかった。


葵はただ、目の前に迫る死の恐怖に震えていた。


巨大百足が、無数の目をぎょろりと動かす。


その視線が、逃げることもできない葵を捉えた。


『ギシシ……次はお前だ、小娘……!』


葵は死を覚悟し、固く目を瞑った。


――その瞬間。


ガンッ――!!


耳を突く凄まじい金属音が弾けた。


「……え?」


葵は恐る恐る目を開けた。


そして、目の前に広がる光景に、息を呑んだ。


「さわがしいねー、まったく!大丈夫かい、お嬢ちゃん!」


なんと、先ほどまで敵だと思い込んで襲いかかっていた晄が、葵の前に割り込んでいたのだ。


晄は両腕を交差させ、巨大百足の鋭い毒牙をガッチリと受け止めていた。


ギギギギギ……ッ!!


牙と腕がぶつかり合い、耳障りな音が森に響き渡る。


巨大百足の突進によって地面が抉れ、周囲の木々が激しく揺れた。


それでも、晄は一歩たりとも退かなかった。


その背中から、二本の猫尾が勢いよく飛び出す。


肉球から溢れ出る圧倒的な妖力が、赤々とした光を帯び、巨体の突進を完全に押し止めていた。


「!?た、助けて……くれたのですの……?」


葵は震える声で尋ねた。


先ほどまで、自分が一方的に敵と決めつけ、問答無用で殴りかかっていた相手。


その相手が、今、自分の命を護ってくれている。


「当たり前でしょ!勘違いで襲ってきたとはいえ、こんなちびっ子が目の前で食われんのを黙って見てられるかい!わたしらに任せな!」


晄は八重歯を見せて豪快に笑った。


その笑顔には、恐怖も迷いもなかった。


次の瞬間、晄は足裏に妖力を集中させた。


バチバチッ!!


地面が弾けるほどの勢いで妖力が爆発する。


「どっせぇぇぇいッ!」


晄は巨大百足の巨体を、真上へと力任せに蹴り上げた!


ドゴォォォンッ!!


十メートルを優に超える巨体が、空中へと打ち上げられる。


まるで巨大な岩を蹴り飛ばしたかのような、とんでもない光景だった。


「涼!お膳立ては頼んだよ!」


「ええ。人を襲う低級なあやかしなど、扇のサビにして差し上げますわ」


涼は優雅に微笑み、白扇をすっと構えた。


「て……低級!?」


葵は、目を見開いたまま固まっていた。


(物部家の手練れ陰陽師が瞬殺されましたのに……)


自分があれほど恐怖した相手を、二人はまるで大したこともないように扱っている。


しかも、晄は素手で突進を受け止め、蹴り飛ばした。


そして涼は、これから何をするつもりなのか。


葵はその場から動くこともできず、小さく震えていた。


一方、涼は空中へ打ち上げられた巨大百足を見上げると、すっと一歩踏み出した。


長い白銀の髪が、冷たい風にふわりと揺れる。


白扇を持つ指先は、どこまでも優雅だった。


「舞い散りなさい――『極氷・一閃』」


その声が静かに響いた、次の瞬間。


シュヴァヴァヴァヴァッ!


白扇が、一閃した。


そこから解き放たれたのは、視認できるほど鋭く研ぎ澄まされた極寒の風刃。


無数の刃が空中を駆け抜け、打ち上げられた百足の無数の脚を正確無比に切り刻んでいく!


『ギシャアアアアアッ!?』


巨大百足の悲鳴が山中に響き渡った。


しかし、それだけでは終わらない。


風刃が通り過ぎた場所から、凍てつく冷気が瞬時に広がっていく。


その冷気は、巨大な胴体を覆い尽くし、無数の目を白く凍りつかせ、硬い外殻までも容赦なく氷で包み込んでいった。


ほんの一瞬。


十メートルを優に超える巨大な怪物は、身動きひとつ取れない巨大な氷塊へと変わっていた。


「――おしまいですわ」


涼が扇子を閉じる。


次の瞬間、巨大な氷塊が重力に引かれ、地上へと叩き落とされた。


ドォォォンッ!!


地面が激しく揺れ、凄まじい轟音が森に響き渡った。


舞い上がった土煙と、白く輝く氷の破片。


その中心で、巨大百足は完全に凍りついていた。


「凄……い……」


葵は、口をぽかんと開けていた。


目の前で繰り広げられた、二匹の猫又による圧倒的で完璧な連携。


晄が敵を打ち上げ、涼が一瞬で仕留める。


その動きには、無駄がひとつもなかった。


何より驚くべきなのは、二人とも、あれほど恐ろしい怪物を相手にしていながら、まるでいつもの日常の一幕であるかのように振る舞っていることだった。


葵が呆然としていると、涼がサッと戻ってきた。


そして、葵の足元に残っていた氷を軽く蹴り砕くと、その小さな頭を優しく撫で回した。


「もう大丈夫ですわよ、お嬢さん」


白銀の髪を揺らしながら、涼は穏やかに微笑んだ。


その手つきは、先ほどまでの冷徹な戦闘ぶりが嘘のように優しい。


晄も、座り込んだままの葵へと歩み寄ると、その手を取って素早く立たせた。


「さあ、お嬢ちゃん!誤解は解けたろ?トドメはアンタに譲ってやるから、あのあやかしに思いっきりぶち込んでやりな!さっきの人間たちの敵討ちだよ!」


晄は凍りついた巨大百足を顎で示した。


葵は、まだ震える足に力を込める。


先ほどまでの恐怖が、完全に消え去ったわけではない。


けれど、目の前に立つ二匹の猫又は、自分を護ってくれた。


そして、あの恐ろしい怪物を、ここまで追い詰めてくれた。


ならば――。


今度は、自分がやる番だ。


「……っ!はいですわ!」


葵は着物の袖で涙をガシガシと拭った。


小さな拳を、ぎゅっと握り締める。


そこに巻き付けられた強化符へ、身体中の全霊力を練り上げ、注ぎ込んでいく。


朱色の光が、再び両拳を包み込んだ。


先ほどまでのような、ただ勢い任せに振り回すための力ではない。


恐怖に震えながらも、自分を護ってくれた者たちのために立ち上がろうとする、小さな少女の決意がそこにはあった。


葵は一歩、前へと踏み出した。


目の前には、氷漬けになって苦しむ巨大百足。


その全身に、憎悪に満ちた無数の目が蠢いている。


けれど、葵はもう目を逸らさなかった。


小さな身体いっぱいに霊力をみなぎらせ、両拳を構える。


そして――。


「悪いことするやつは……ぜええええったいに許さないんだからぁぁぁーっ!」

お読みいただきありがとうございます。

本日1時間後 後編へ続きます!


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