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夜の帝都と、百鬼夜行

その日の深夜。


帝都陰陽学校の宿舎で、僕が深い眠りについていると、不意に肩を強く揺さぶられた。


「あかり様、起きるなの!外が大変なの!」


目を開けると、紺がすぐそばで僕を見つめていた。


いつもは元気いっぱいの紺が、今は狐耳をぴんと立たせ、二本のふさふさした尻尾を警戒するように膨らませている。


その表情を見た瞬間、僕の眠気は一気に吹き飛んだ。


「火事……!?いや、違う……なんだ、この濃い気配は……!」


僕は跳び起きると、紺が仕立ててくれた羽織着物を素早く身に纏った。


連日の特訓による疲れもあった。けれど、それ以上に異変への気づきが遅れた理由がある。


宿舎の僕の部屋には、『防音・遮断結界』が施されていたのだ。


扉が閉まっている間は、外の音も気配もほとんど遮断される。


紺が廊下へ続く扉を、そっと開いた。


その瞬間——。


けたたましい警報の鐘の音が、耳をつんざいた。


人々の悲鳴。慌ただしく駆け回る足音。そして、肌を刺すような禍々しいあやかしの気配。


それらが、開いた扉のわずかな隙間から、一気に雪崩れ込んできた。


「くっ……!」


対応が遅れた…。


その焦りを胸に押し込め、僕は窓際へと駆け寄った。


『あかり、外がとんでもねえことになってるぞ。本気で仕掛けてきやがった』


振り返ると、黒が窓辺に立っていた。


枕元で眠っていた黒は、結界が妙な音を立てて軋み始めた違和感を察知し、いち早く黒猫の姿で外の様子を探ってくれていたらしい。


今はすでに人間の姿へ戻り、妖刀を握りしめながら、窓の外を鋭い眼光で睨みつけている。


「チッ……ご丁寧に、この宿舎全体だけじゃねえ。俺たちの部屋にまで何重にも術を施してやがった。余計なことしやがって……」


黒は苛立たしげに舌打ちした。


「街の方は、もう手遅れになりかけてるぞ」


その言葉に、僕は息を呑んだ。


以前、僕が学校の結界の要でもあった水晶を壊してしまったせいで、学校側は侵入や破壊を二度と許さないよう、結界を過剰なまでに強化していた。


その対策が、まさか裏目に出るなんて。


外からの危険を防ぐための結界が、外で起きている異変の音や気配までも遮断してしまっていたのだ。


黒の長い髪が、窓から吹き込む夜風に揺れる。


その姿からは、普段の気ままな猫のような雰囲気は消え失せ、凄まじい威圧感が立ち上っていた。


「あかり様……」


紺が不安そうに僕を見上げる。


僕が静かに頷くと、紺は、落ち着いてとでも言うように、ふさふさの尻尾で僕の背中を優しく撫でてくれた。


その温もりに、ほんのわずかに心が落ち着く。


僕は窓の外へと目を向けた。


そして——絶句した。


帝都の中心に位置するこの学校を取り囲むように、街のあちこちから真っ赤な炎が上がっていた。


黒煙が夜空を覆い、遠くから悲鳴と警鐘の音が幾重にも重なって響いてくる。


街だけではない。


学校の広大な敷地までもが、見たこともない禍々しい漆黒の霧に包まれていた。


空は不気味な紫黒色に染まり、地面の奥底からは地鳴りのような咆哮が響き渡る。


完全に破られた結界の隙間から、邪悪な気配が怒涛のように流れ込んでいた。


「——来る……!」


僕が呟いた直後だった。


深い霧の向こうから、異形の影が次々と姿を現した。


まるで、百鬼夜行そのものだった。


地響きを立てて歩く三つ目の巨人。


校舎の壁を、メリメリと音を立てながら這い上がる巨大な百足。


黒い怨念を撒き散らす、巨躯の車輪。


空を埋め尽くす怪鳥の群れ。


そして、巨大な刀を携えた、身の丈ほどもある黒い影の武者たち。


無数のあやかしたちが霧を割り、整然と広場へなだれ込んでくる。


その背後には、彼らを率いる常闇の会の陰陽師たちの姿もあった。


帝都を壊滅させるために送り込まれた、悪しきあやかしと陰陽師の軍勢。


広場は、瞬く間に地獄絵図と化していった。


その時だった。


学校の象徴でもある頑丈な赤門が、外側から激しく打ち破られた。


轟音とともに門が崩れ、飛び込んできたのは、血と煤にまみれた数十人の男たちだった。


帝都を守護するはずの、国家陰陽師と結界師たちだ。


「た、助け……助けを……!」


男たちは息も絶え絶えに、校内へと駆け込んできた。


「街はもうダメだ!先生方、どうか……ッ!」


外の街でも、命懸けで戦っていたのだろう。


彼らは助けを求めて校内へ足を踏み入れた。


だが、そこで待ち受けていた光景を目の当たりにした瞬間、誰もが言葉を失った。


頼りにしていた学校の教師たち。


この国の最高峰と謳われる、選りすぐりの陰陽師たち。


その重鎮たちですら、襲いかかる無数のあやかしを前に手も足も出ず、逃げ惑う生徒を守ることさえできずに潰走していたのだ。


国家陰陽師を壊滅させるほどの軍勢。


命からがら辿り着いた先もまた、救いのない地獄だった。


その現実を悟った男の手から、血に濡れた呪符と刀が、力なく滑り落ちた。


(こんなの……学校のみんなだけで抑えられるわけがない……!)


あれほど高飛車に振る舞っていたエリート生徒や指導教官たちも、今や完全に理性を失い、我先にと逃げ惑っている。


しかし、あやかしたちの包囲網は容赦なく彼らの退路を断っていった。


「ひ、ヒィィッ!ふ…札が……札がもう一枚もない!」


「そんな……っ!結界符も、攻撃用の呪符も……全部底を突いただと!?」


「こ、こんな時に帝都四大陰陽家は何をしているんだ!!」


その叫びに、僕は奥歯を噛みしめた。


来てくれるはずがない。


帝都四大陰陽家は今、全国各地で同時多発しているあやかしの討伐のため、帝都を離れている。


……でも、タイミングが良すぎる。


各地で起きた異変も、今回の帝都急襲も。


最初から帝都四大陰陽家を帝都から遠ざけるために仕組まれた、常闇の会の計画だったんだ……!


悲鳴と叫びが、夜風に混じって響き渡る。


陰陽師にとって、霊力を込めた札は命を繋ぐ武器であり、身を守るための盾でもある。


だが、次々と押し寄せるあやかしの波を前に、パニックに陥った彼らは、呪符を手当たり次第に投げつけていた。


そして、短時間のうちに、懐にあった札をすべて使い果たしてしまったのだ。


剣術も柔術も知らず、身を守る術をすべて呪符に頼っていた彼らにとって、札を失うことは、戦う手段そのものを失うことに等しかった。


道具に頼らず、自らの腕で刀を振るえる陰陽師など、この広場には僕や明神くんくらいしかいない。


「呪文を……結界術を唱えろ!早くしろ!」


「だ、ダメです……!呪符もない!」


本来、呪文の詠唱は体内の霊力を正しく術へと変えるための重要な手段だ。


呪符を失っても、刀に霊力を込めて攻撃すれば、威力を高めることはできるはずだった。


けれど。それができる陰陽師がはたしてここに何人いるのだろう。


目の前に迫るあやかしの巨体。


獲物を噛み砕こうと開かれる巨大な顎。


血に飢えた咆哮。


そのあまりの恐怖に、彼らの精神は完全に打ち砕かれていた。


喉は引きつり、声は震え、短い呪文ひとつ満足に唱えられない。


陰陽師としての「手」——札。


そして、「口」——詠唱。


その両方を奪われた者たちに、あやかしたちは容赦なく襲いかかった。


「愚かな人間どもめ。術を失えば、ただの肉塊に過ぎん」


漆黒の霧から、あやかしが急降下した。


鋼のような爪が、無防備な生徒の肩を深く引き裂く。


血飛沫が舞い、悲痛な絶叫が広場にこだました。


高い霊力も、洗練された作法も、死の恐怖を前にすれば何の意味もなさなかった。


そんな絶望的な混乱の渦中に、明神蓮の姿があった。


「くそ……ッ!帝都の陰陽師が……こんなところで全滅してたまるか……!呪符がないなら刀を抜け!」


蓮は荒い息を吐きながら、必死に声を張り上げた。


だが、その叫びに応じる者は誰一人としていなかった。


「む、無理だろ……っ!呪符でしか戦ったことがない俺たちが、刀一本でこんな化け物と戦えるわけないだろ……!」


「剣術なんて……身を守る真似事くらいしか習ってないのに……!」


足元には、使い果たされた霊符の残骸が散らばっている。


生徒たちはガタガタと膝を震わせ、尻餅をついたまま、少しでもあやかしたちから離れようと後ずさるばかりだった。


蓮自身も、状況が壊滅的であることを痛いほど理解していた。


他の生徒をかばい続けたせいで、全身は血と傷にまみれ、着物のあちこちが赤く染まっている。


自分の足元にも、使い果たした霊符が虚しく散らばっていた。


血に濡れた手で懐を探る。


けれど、指先が掴んだのは、何も残っていない空虚だけだった。


それでも蓮は、震える手で刀を構えた。


顔からは血の気が引き、肩は荒い呼吸に合わせて大きく上下している。


「——出(い)でよ……我が贖(あがな)いの……血脈よ……ッ!」


蓮は血で染まった指で自らの傷口をなぞり、その血を刀身と地面へと塗りつけた。


呪符をすべて失い、満身創痍となった彼に残された、最後の切り札。


それは、自らの生血を媒介として発動する、禁忌の緊急防御術だった。


蓮の周囲に、かすかな血色の光が広がっていく。


それは、彼自身だけでなく、背後で怯える生徒たちをも包み込もうとしていた。


だが、血にまみれた身体と、限界まで削られた霊力では、本来の力を発揮できるはずもない。


結界は薄く、頼りない。


それを見たあやかしたちは、嘲笑うように爪を研ぎながら、じりじりと間合いを詰めていった。


「クハハハッ!我が主の贄となれ、帝都の雛ども!」


次の瞬間。


蓮が命を削って張った最後の血の結界が、あやかしの一撃を受けた。


ガラスが砕け散るような音が響き、血色の光が無数の破片となって消えていく。


「ぐっ……!」


蓮は刀を握る手を震わせながら、血の海に膝をついた。


その頭上では、巨大な三つ目のあやかしが太い腕を振り上げていた。


握られているのは、極太の棍棒。


狙いは、地面に膝をついた蓮だった。


逃げる力も、立ち上がる力も、もう残されていない。


棍棒が、容赦なく振り下ろされる。


——まさに、その瞬間。


「蓮!!!、伏せて!」


僕は喉が張り裂けんばかりの声で叫びながら、屋根を蹴った。


夜の闇を切り裂き、絶望の渦巻く広場へと飛び降りる。


蓮を救うために。


そして、この地獄を終わらせるために。

お読みいただきありがとうございました!


もし、次回の展開も楽しみにしてくださる方いらっしゃいましたら、評価やブックマークで応援していただけるとめちゃくちゃ嬉しいです!

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