帝都観光と、新しい火種
実技試験と模擬戦で、帝都陰陽学校の度肝を抜いたあの日から、三ヶ月が過ぎていた。
入学当初、僕に向けられていたのは、冷ややかな視線と嘲笑ばかりだった。
けれど、座学の講義に真面目に取り組み、少しずつ学校生活にも慣れていくうちに、周囲の態度にもわずかな変化が見え始めていた。
もちろん、誰もが僕を認めてくれたわけじゃない。
それでも、最初の頃に比べれば、ずいぶん過ごしやすくなったと思う。
そして次の授業からは、いよいよ本格的な実技訓練が始まる。
その前の息抜きと、必要な身支度を整えるため、僕たちは帝都へ出かけることになった。
「この三ヶ月、よく頑張ったな。今日はご褒美だ。身支度の補給も兼ねて、帝都で一番美味いって噂の甘味処に連れてってやるよ」
黒がそう言って、ニッと笑った。
「わあ、やったぁ!黒、大好き!」
思わず声が弾む。
そんな僕の隣で、黒の肩にちょこんと乗った紺は、すでに目を輝かせていた。
帝都の大通りには、色とりどりの露店が並んでいる。
可愛らしい着物用のリボンに、きらびやかなかんざし。細工の美しい小物や、見たこともない珍しい品々が、道行く人々の目を楽しませていた。
けれど――。
「あかり様、あっちのお店、おいしそうなお魚がいっぱい並んでるの!あっちは三色のおだんご!おいしそうなの!」
紺の視線は、華やかな装飾品にはまったく向いていなかった。
魚、団子、焼き菓子。
食べ物を見つけるたびに、リボンの下に隠した狐耳がぴこぴこと動いている。
「ははっ、紺、そんなに身を乗り出したら落っこちちゃうよ」
「平気なの!黒のお肩は、とっても乗り心地がいいの!」
「おいおい、俺の肩を特等席扱いすんじゃねえよ。……まあ、落ちねえようにしっかり掴まってな」
黒は呆れたように笑いながらも、紺が落ちないよう、そっと手を添えていた。
その姿は、通りを行き交う人々の目を引いていた。
背が高く、整った顔立ちの黒。漆黒の髪に、隙のない着こなし。どこか近寄りがたい雰囲気があるのに、肩の上には愛らしい少女が乗っている。
その組み合わせが、どうにも目立つらしい。
「あの黒髪の人、すごく格好いい……」
「肩の白銀の髪の少女はどこぞの姫君だろうか?」
「まぁ!?ではお忍びで?」
すれ違った人たちが、頬を赤らめながら振り返る。
けれど、当の本人はまるで気にしていなかった。
それよりも、黒は肩の上でそわそわしている紺のほうが気になるらしい。
「ほら、そんなに騒ぐな。まずはこれでも食っとけ」
黒は露店の前で足を止め、名物の三色団子を買ってやった。
「わあっ!お団子なの!」
紺は両手で団子を受け取ると、さっそく大きな口を開けて頬張った。
もちっ。
甘い香りが広がる。
紺の狐耳が、ぴんっと立った。
「うにゃぁぁ……!お団子、モチモチで甘くて最高なの……!帝都…最高なの……!」
あまりの幸せそうな顔に、僕まで頬が緩んでしまう。
「あっ……紺、お団子のタレが……。そんなに急いで食べると、せっかくのかわいいお着物が汚れちゃうよ?黒にもタレが…」
「かわいいのは着物だけじゃないの!紺もかわいいの!」
ぷくーっと頬を膨らませる紺。
その勢いに、僕と黒は思わず顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に吹き出してしまった。
「はいはい。紺は帝都一かわいいよ」
僕が笑いながらそう言うと、黒が大きな手で僕の頭をぐっと引き寄せ、わしゃわしゃと髪を撫で回した。
「いいじゃねえか。山の中の飯ばかりだったからな。これからは、美味いもんをこの帝都でいくらでも食わせてやるよ」
黒は、少しだけ誇らしげに笑った。
「俺の弟分と妹分には、めいっぱい贅沢をさせてやるって決めてんだ」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
「うん。ありがとう!僕、黒と紺と一緒にいられて、本当に幸せだよ」
心からそう思った。
黒と出会う前の僕には、こんな日が来るなんて想像もできなかった。
誰かと一緒に笑って、美味しいものを食べて、明日のことを楽しみにできる。
そんな当たり前のような幸せが、今の僕には何よりも大切だった。
僕が笑いかけると、黒の黒髪の下の猫耳がぴくぴくと動いた。
どうやら、少し照れているらしい。
すると、団子を頬張っていた紺が、勢いよく割り込んできた。
「紺も!紺も、あかり様と黒と一緒にいられて日本国一幸せなの!」
口いっぱいに団子を詰め込んだまま、胸を張る。
「おい…紺。喋ると口から団子が飛ぶぞ」
「飛ばないの!感謝と愛をお伝えしてるの!愛なの!」
「いや、だから団子を飲み込んでからにしろって……」
黒は呆れたようにため息をつきながらも、紺のひざをぽんぽんと優しく撫でた。
その耳が、ほんのり赤くなっている。
僕と紺は、しっかりとそれを見逃さなかった。
――ああ、幸せだな。
あたたかな陽光。
通りに漂う甘いお団子の香り。
楽しそうに行き交う人々の声。
黒と紺がそばにいて、僕も笑っていられる。
過酷だった過去が嘘のような、平和で温かくて、もふもふした幸せな時間。
このままずっと、こんな日々が続けばいい。
そう思った、その瞬間だった――
「……っ!?」
キィィィィィン……!
鼓膜の奥を、鋭い耳鳴りが突き刺した。
――音が、消えた。
つい先ほどまで響いていた人々の喧騒も、露店の店主たちの威勢のいい声も。
まるで世界そのものから音が奪われたかのように、一瞬で途絶えてしまった。
「……なに?」
視界の端が、ぐにゃりと歪む。
肌を刺すような冷気が、足元から這い上がってきた。
そして、路地裏の奥から、得体の知れない妖気がじわじわと溢れ出してくる。
さっきまでの温かな空気が、嘘のように冷え切っていた。
僕は反射的に黒を見た。
黒もまた、笑みを消していた。
次の瞬間。
路地裏の深い影から、一人の女性がすっと姿を現した。
音もなく。
まるで最初から、そこに立っていたかのように。
しなやかな佇まいに、艶やかな黒髪。
人間の、とても美しい女性に見える。
けれど、その瞳には、あやかし特有の澄んだ霊力が宿っていた。
静かで、張り詰めていて――どこか切迫した気配を帯びている。
僕と黒は、即座に身構えた。
その肩の上で、紺の狐耳がぴんっと立つ。
紺は女性の顔をじっと見つめ、それから、どこか懐かしそうに鼻をひくつかせた。
黒は女性を警戒するように見据えながら、低く呟いた。
『……チッ、驚かせんじゃねえよ。山のあやかしの『知人』か?』
女性の気配に敵意がないと判断したのか、黒は身構えていた手をゆっくりと緩めた。
それでも、金色の目から警戒の色は消えていない。
女性は僕たちの前で深く一礼した。
「お初にお目にかかります、あかり様、黒様。神隠しの山の皆様から、お噂はかねがね伺っております」
丁寧な口調だった。
けれど、その声の奥には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「僕に……何か用ですか?」
僕が尋ねると、女性の美しい表情が曇った。
彼女は周囲の気配を探るように一度視線を巡らせると、音もなくスッ…と、僕との距離を詰めた。
そして、耳元に顔を寄せる。
「陰ながら、あかり様をお守りするよう仰せつかっておりましたが……」
その声は、ぞくりとするほど冷たかった。
「取り急ぎ、お伝えせねばならぬことがございます」
僕は息を呑んだ。
神隠しの山のあやかしたちが、僕の知らないところで、そこまで気にかけてくれていたなんて。
胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
けれど――。
続く言葉が、その温もりを一瞬で凍りつかせた。
「今、この帝都の裏で、『常闇の会』と名乗る集団が不気味な動きを見せております」
「……常闇の会」
その名を聞いた途端、胸の奥がざわついた。
帝都に潜む、不穏な影。
僕たちが追うべきものが、すぐそこまで迫っているのかもしれない。
女性は、声を潜めて続けた。
「あやかしたちを呪符で無理やり従わせるだけでなく、その野望に賛同し、自ら力を貸す悪しきあやかしたちも現れております。急速に勢力を拡大しているご様子……」
彼女の瞳に、緊張が走る。
「危険な影は、すでにこの街にも潜んでおります。もしかすると……」
そこで、女性は一度言葉を切った。
そして、鋭い視線で僕の目を見つめる。
「あかり様の通われる学校の中にも、すでに奴らを手引きする『内通者』が紛れ込んでいるのかもしれません」
「……っ!」
思わず息が止まった。
学校の中に、内通者?
それが本当なら、僕たちのすぐそばに敵がいるということだ。
女性は、すがるような声で告げた。
「どうか……どうか、誰も信じぬよう。くれぐれも、お気をつけくださいませ」
言い終えると、女性は一歩、後ろへ下がった。
そして、路地裏の深い影へと身を滑らせる。
黒い影が、彼女の身体を静かに包み込んだ。
次の瞬間には――もう、姿がなかった。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。
残されたのは、頬を冷たく撫でる風と、重苦しい沈黙だけだった。
さっきまで、あんなに賑やかだった帝都。
甘い団子を頬張って、紺が笑っていて。
黒が照れくさそうに耳を動かしていて。
僕は、この幸せがずっと続けばいいと思っていた。
なのに今、その日常のすぐ裏側に、底知れない闇が潜んでいることを知らされた。
常闇の会。
そして、学校に潜むかもしれない内通者。
僕たちのすぐそばに、誰にも気づかれずに敵が近づいているのだとしたら――。
華やかな帝都の裏で、何かが動き始めている。
僕たちの日常を飲み込もうとする、不穏な足音が。
すぐそこまで、迫っていた――。
最後までお読みいただきありがとうございます。
束の間の幸せな休日を引き裂く、路地裏の不気味な気配。
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