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世界の断頭(仮)  作者: でいおん
第五章 巫女
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第五章4 『出発』

空はまだ蒼に届かず、白み始めたばかりだった。

夜と朝の境目。冷えた空気が肺の奥まで入り込み、わずかに痛む。


森をかき分けて、一人の男が現れる。


枝に引っかかり、布が裂ける音。

乾きかけた血が、こびりついたまま固まっている。


「あぁ……三日ぶりか」


かすれた声。


最後の茂みを押し分け、影を抜ける。


その先に広がるのは、視界を遮るもののない平原。

朝靄が低く漂い、遠くの地平をぼかしていた。


一歩、踏み出す。


柔らかい土の感触。

森の湿った地面とは違う、開けた場所の静けさ。


ここを抜ければ、あの村だ。


――戻る。

一度、すべてを整えるために。


そう決めていた。


歩きながら、体の奥に溜まった疲労がじわりと滲み出る。


三日間。


休みらしい休みはなかった。


鬼仁化の制御。

そして、“黒鬼鋼”の武器。


扱うたびに、体の芯を削られるような感覚。

力を引き出しているのか、削り取られているのか、境界が曖昧になる。


正直なところ――限界は近い。


「……一日、寝るか」


ぽつりとこぼす。


あの家の、簡素なベッド。

軋む音すら、今は恋しい。


それでも足は止めない。


街へ戻るには、ここからさらに二日、三日。

休みを削らなければ、それ以上かかる。


視線を落とし、歩を進めながら思考を巡らせる。


鱗の盗賊。

あの異形。


そして、聖騎士の女。


……悪い人間には見えなかった。


少なくとも、あの場で殺す理由はいくらでもあったはずだ。

証拠も、目撃も、すべて消せた。


だが――しなかった。


助けた。


「……泳がせてるか?」


小さく呟く。


それとも、別の思惑か。


考え始めれば、際限がない。


だが一つだけ、確かなことがある。


ギルドで聞いた話。

そしてこれまでの流れ。


――教会は、黒だ。


ほぼ間違いない。


ならば、あの女も――


そこまで思考が及び、ふと首筋に意識を向ける。


何かを仕掛けられている可能性。


完全に否定はできない。


指先で軽く触れる。

異物の感触はない。


だが、それで安心できるほど甘くはない。


「……まぁいい」


低く吐き出す。


今、優先すべきはそこじゃない。


生き延びること。

整えること。


そして――


次に備えることだ。


足を止めることなく、男は平原を進む。


白みかけた空が、ゆっくりと色を変えていく。


村の入り口が見えた、その時だった。


薄くかかる朝靄の向こうに、ひとつの影。


立っている――いや、違う。

揺れている。


「……おい」


思わず足が速くなる。


影はふらつき、頼りなく前へと傾いた。


倒れる。


寸前で腕を伸ばし、受け止める。


軽い。


思っていた以上に、力が抜けている。


抱き留めたその顔を見て、わずかに目を細めた。


――学者の少女。


勢いのまま、少女の額が胸元にぶつかる。

柔らかな感触と同時に、微かな体温が伝わる。


「……遅かったじゃない」


かすれた声。


半分眠ったままの、掠れるような抗議。


「心配、したのよ……」


言い終える前に、力が抜ける。


瞼が落ち、そのまま呼吸が静かに整っていく。


眠った。


「……悪い」


届くはずもない言葉を、ひとつ落とす。


抱き上げる。


驚くほど軽い身体が、腕に収まる。


そのまま、足を止めることなく宿へ向かった。


扉を開けると、暖かな匂いが流れ込んでくる。


焼けたパンと、煮込みの匂い。


農家の女性は、すでに起きていた。


こちらを見るなり、ほっとしたように表情を緩める。


「おかえりなさい。それと……ありがとう」


視線が、腕の中へと向けられる。


「その子、昨日からずっと落ち着かなくて。夜通し、あなたの帰りを待ってたの」


小さく息をつく。


「連れて帰ってきてくれて、本当にありがとう」


「……問題ない」


短く返す。


それ以上は、言わない。


階段へと足を向けた、その時。


「朝食、食べられますか?」


振り返る。


「いつも少し多めに作ってるので……遠慮しなくていいですよ?」


一瞬、考える。


腹の奥が、わずかに空いているのを自覚する。


「……いただく」


そう返すと、女性は嬉しそうに笑った。


「すぐ用意しますね」


その声を背に、二階へ上がる。


きしむ階段。

見慣れた廊下。


少女の部屋の前で足を止め、扉を開ける。


中は――整っているようで、どこか雑だ。


開きっぱなしの魔導書。

椅子にかけられたローブ。

床に落ちたままの布。


生活の跡が、そのまま残っている。


ベッドに少女を下ろす。


わずかに身じろぎするが、起きる気配はない。


規則正しい呼吸。


それを確認してから、静かに背を向ける。


部屋を出て、扉を閉める。


廊下に出ると、背中に背負っていた斧の重みを感じた。


自室の前で一度足を止め、それを壁に立てかける。


――少しの間、手を離す。


それから、階段へと向かった。


下からは、食器の触れ合う音と、火のはぜる音が聞こえてくる。


階段を降りると、すでに農家の女性は朝食の準備を終えていた。

テーブルの上には湯気を立てる料理が並び、部屋の中にはやわらかな香りが満ちている。


「本当に、数日間お疲れ様でした。いっぱい食べて、とにかく寝てくださいね!」


明るい声とともに、軽く背中を押される。

促されるまま席に着くと、目の前には温かな野菜のスープと素朴なパン、そして冷えた牛乳が置かれていた。


湯気がゆらゆらと立ちのぼる。

それだけで、張り詰めていた何かが少しほどけた気がした。


スープを一口、口に運ぶ。


――優しい。


塩気も、野菜の甘みも、どれもが過剰ではない。

ただ静かに、疲れた身体へと染み込んでいく。


パンをちぎり、スープに浸す。

噛むたびに、じんわりと力が戻ってくるようだった。


気づけば、手は止まらなかった。


数日ぶりの、まともな食事。

戦いの中で忘れていた“満たされる感覚”が、ゆっくりと身体の内側を巡っていく。


――あっという間だった。


皿の中は空になり、気づけば最後の一口まで平らげていた。


「ふふ……よく食べましたね」


視線を上げると、農家の女性がどこか嬉しそうにこちらを見ていた。

まるで、それだけで十分だと言うように。


「食事が終わったら、シャワーも使えますからね」


「あぁ……借りる」


短く答えると、彼女は満足げに頷いた。


案内された先で、湯を浴びる。


温かい水が、汚れとともに疲労を洗い流していく。

こびりついた血の感触も、戦いの残滓も、少しずつ遠ざかっていくようだった。


服を着替え、部屋へ戻る。


ベッドが視界に入った瞬間、限界が来た。


身体が沈む。

抗う間もなく、意識が落ちていく。


――深く。


まるで、底の見えない水の中へ沈むように。


そのまま、意識は途切れた。


目を覚ますと、部屋は薄暗く沈んでいた。

窓から差し込む光はなく、小さな蝋燭の火だけが、頼りなく揺れている。


揺らめく影が壁を這う。

静まり返った空気の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく感じられた。


「……」


こんな目覚めは、ここ最近で何度かあった気がする。

だが――深く考えるほどのことでもない。


ゆっくりと身体を起こす。

傷はまだ残っているが、動くには問題ない。


ベッドから降り、扉へ向かう。

軋む音とともに開き、廊下へ出る。


そのまま階段を降りると、一階はひどく静かだった。

人の気配が、ほとんどない。


時間が遅いのか、それとも――


「……まぁいい」


小さく呟き、扉へと手をかける。


開けると同時に、ひんやりとした夜気が頬を撫でた。


ウッドデッキへ出る。

夜は深く、空には月が浮かび、淡い光が地面を照らしている。


――その中に、一つの影。


ベンチに腰掛け、本を開いたまま、ゆっくりとページをめくる女の姿があった。

手にはカップ。湯気が、夜の空気に溶けていく。


見覚えのある気配。


視線がこちらへ向く。


「ああ、君か。ようやく起きたようだね」


落ち着いた声。

以前と変わらない調子だった。


「ああ」


短く返す。


彼女は本を閉じ、軽く肩を回す。


「ちょうど今日――いや、昨日の夜になるか。私もここに着いたところでね」


そう言いながら、カップを軽く掲げる。


「腹を空かせていたら、ここに辿り着いてしまったんだ」


一拍置き――


「……一つ言っておくが、私はタダ飯食いではないぞ!」


急に声を強め、こちらを見据える。


「ちゃんとお金を出して、ここに泊まっているんだ!」


どこか必死な、妙に慌てた様子。


その反応に、ほんの一瞬だけ間が空く。


夜風が静かに通り抜ける中で、彼女の言葉だけがやけに浮いていた。


「……そうか」


短く返す。


それ以上でも、それ以下でもない。


だがその言葉に、彼女は少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「うむ……そうだとも」


小さく咳払いをし、何事もなかったかのようにカップへ口をつける。


その横顔を見ながら、静かな夜がまた流れ始めた。


聖騎士はカップを手にしたまま、夜空へと視線を向けた。

月明かりが、その横顔を静かに照らしている。


「……そいえば、先日のロザリオの件だが」


ふと、思い出したように口を開く。


「およそほとんどの聖騎士が、レザレクションによって蘇ったよ」


ゆっくりと言葉を選びながら続ける。


「いくつかは破損が酷くて……蘇ることができなかった者もいたが」


一瞬だけ、視線が落ちる。


「それでも、全く誰も助からないよりは……よっぽど良い」


その言葉は、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


「……それなら、よかった」


短く返す。


それで十分だった。


聖騎士は小さく頷き、こちらへ向き直る。


「改めて、礼を言わせてくれ」


「それは前に貰ったからいい」


間を置かず返すと、彼女はわずかに目を丸くしたあと――


ふっと力を抜いたように笑った。


「……そうか。ありがとう」


夜風が、二人の間を通り抜ける。


しばしの静寂。


やがて、彼女はカップを置き、少しだけ真面目な表情に戻る。


「それで……君は、これからどうするつもりなんだ?」


「明日にでも準備をして、村を出る」


淡々と答える。


「そのあとは、いつも通りだ」


それ以上の説明はない。


だが、彼女はそれで理解したようだった。


「……そうか」


小さく呟き、ほんの僅かに目を細める。


「君は、強いんだな」


ぽつりと零れる言葉。


「普通なら、あれだけ異常な相手と戦えば……トラウマになってもおかしくない」


すぐに首を振る。


「ああ、いや……詮索するつもりはないんだ。これはただの日常会話のようなものだよ」


軽く言い直しながらも、その視線はどこか探るようだった。


「それより……」


一拍。


ほんのわずかに、空気が変わる。


「君は――聖騎士……いや、教会に恨みがあったりするのか?」


踏み込んだ問い。


その言葉に、一瞬だけ思考が止まる。


視線が、わずかに揺れる。


だが、何も言わない。


沈黙が落ちる中、聖騎士はそのまま続けた。


「いやな、この前初めて会った時に……私が聖騎士だと話しただろう?」


指先でカップの縁をなぞる。


「あの時、君……ほんの少しだけ雰囲気を変えた気がしてな」


視線が、まっすぐこちらを射抜く。


「それが、ずっと気がかりだったんだ」


静かな声だった。


責めるわけでもなく、ただ確かめるような響き。


「……もし、その質問に対して不都合な回答だったら」


こちらが先に口を開く。


「お前は、どうする?」


問い返す。


一瞬、間が空いた。


夜の音だけが流れる。


だが、彼女は目を逸らさなかった。


やがて、小さく息を吐く。


「……もし否定的であったら」


ゆっくりと、言葉を紡ぐ。


「悲しいとは思う」


正直な声音だった。


「だが……仕方ないとも思う」


視線が、わずかに揺れる。


「正直なところ、ここからは……私の愚痴になってしまうんだが」


苦笑に近い表情を浮かべる。


「それでも、少しだけ……聞いてくれないか」


夜は静かに、更けていく。


夜気は静かで、どこか張りつめたような冷たさを帯びていた。

蝋燭の揺れる火が、聖騎士の横顔に淡い影を落とす。


彼女は手にしていた本をゆっくり閉じると、言葉を選ぶように一拍置いてから口を開いた。


「……大きく“教会”と言ってもな、実際は一枚岩ではない」


低く、しかしはっきりとした声だった。


「今の教会は、大きく二つの派閥に分かれている。ひとつは――人間をより豊かな世界へと導こうとする“新世紀派”」


夜の静寂に、その言葉だけが落ちていく。


「もうひとつは、神に寄り添い、迷える人々を救済することを第一とする“精神派”だ」


彼女はそう言いながら、手にしたカップを傾ける。

わずかに立ち上る湯気が、揺れる火と混ざり合い、輪郭を曖昧にした。


「ちなみに前者――新世紀派は医療教会が主導している。対して後者、精神派は……我ら聖騎士団が担っている」


そこで一度、こちらへ視線を向ける。

まるで試すように、しかしどこか自嘲めいた色を含んで。


「……とはいえ、聖騎士団とて完全に精神派で統一されているわけではない。内部にも新世紀派の人間はいる」


小さく肩をすくめる仕草。


「つまり、聖騎士団ですら一枚岩ではない、ということだ」


蝋燭の火が揺れ、彼女の瞳に一瞬だけ影が差した。


「一応、我らを統括する聖騎士団長は精神派だがな……それでも全てを縛れるわけではない」


そして、ほんの僅かに声のトーンが落ちる。


「――教皇様のお側にいるのは、新世紀派の人間たちだ」


静寂が落ちた。


夜の空気が、さきほどよりも少しだけ重くなった気がする。


「つまり今の教会は……表向きは一つでも、内側では常に均衡の上に立っている」


彼女はそう言って、カップをテーブルに置いた。


小さな音が、やけに大きく響いた。


「……だからこそだ」


再びこちらを見るその瞳には、先ほどまでの軽さはなかった。


「君のような“外の人間”が、どう教会を見るのか――それが、私は少し気になったんだよ」


彼女はわずかに視線を落とし、指先でカップの縁をなぞった。

揺れる蝋燭の火が、その横顔に過去の影を浮かび上がらせる。


「……それに、だ」


ぽつりと、独り言のように言葉を零す。


「私はこう見えて、田舎の生まれでな」


少しだけ苦笑を浮かべるその表情は、先ほどまでの聖騎士としての顔ではなく、一人の人間のものだった。


「生まれつき神聖力が人より高かったらしくてな。両親からは、いずれシスターになるようにと言われて育った」


静かな夜に、遠い記憶が溶けていく。


「……だが――」


そこで彼女は顔を上げる。

瞳の奥に、わずかな光が宿った。


「当時の聖騎士団長に才能を見込まれてな。半ば強引に、聖騎士にさせられたんだ」


肩をすくめる仕草には、諦めと、ほんの少しの誇りが混じっていた。


「聖騎士というのは、基本的に貴族の出か、有力者の子弟ばかりでな……」


一拍。


「正直、最初は居場所がなかった。どこへ行っても浮いているような感覚で――肩身が狭い、というのはああいうことを言うんだろう」


夜風が、静かに吹き抜ける。

彼女の髪がわずかに揺れた。


「……だが、それでも」


その声音が、ほんの少しだけ強くなる。


「私は私にできることをやるしかなかった」


指先が、ぎゅっとカップを握る。


「来る日も来る日も鍛錬してな。誰よりも水性魔法を覚え、誰よりも使いこなせるように……ただ、それだけを考えていた」


やがて、ふっと力を抜く。


「その結果――今では“泉”の称号をもらえるまでになった」


静かに告げられたその言葉には、誇示するような響きはない。

ただ積み重ねてきたものの重みだけが、そこにあった。


蝋燭の火が、再び揺れる。


「……皮肉なものだろう?」


彼女はわずかに笑った。


「神に仕えるはずだった人間が、今では剣を取り、前線に立っている」


その笑みはどこか寂しげで――


それでも確かに、自分の歩んできた道を否定してはいなかった。


彼女は一瞬だけ言葉を失ったように目を瞬かせ、やがて小さく息を吐いた。


「……すまないな。自分のことばかり話してしまった」


視線を逸らしながら、どこか照れくさそうに続ける。


「ただ……その、なんだ。君には……嫌われたくなかったんだ」


ぽつりと落ちた言葉は、夜の静けさに溶けていく。


「気づけば、少し意地になっていたのかもしれないな」


その声音は、どこか弱さを隠しきれていなかった。


だが――


「……いや、話が聞けてよかった」


俺がそう返すと、彼女はきょとんとした顔でこちらを見る。


一拍遅れて、その表情が崩れた。


「はは……」


思わずといったように、柔らかな笑みが零れる。


「君も、そんな社交的なことを言えるんだな」


からかうような口調。けれどその奥にある緊張は、もう消えていた。


俺は肩をすくめる。


「……本心だった」


短く、それだけを告げる。


風が、二人の間を静かに通り抜けた。


蝋燭の火が揺れ、彼女の瞳に淡い光が宿る。


「……そうか」


今度のその言葉は、どこか安心したように、やけに優しかった。


......

....

..


朝の光は、やわらかく、どこか優しかった。


何度か迎えたはずのこの朝。

見慣れているはずなのに――なぜか毎回、胸の奥に淡い懐かしさが滲む。


この場所には、何かがある。

荒んだ心や、張り詰めた意志さえも、静かに溶かしてしまうような――そんな“魔法”が。


小さな木のテーブルを囲むのは四人。

学者の少女、農家の女性、そして“泉”の聖騎士。


湯気の立つスープと、焼きたてのパン。

他愛もない会話が、穏やかな時間を紡いでいく。


(……こんな時間が、あっていいのか)


ふと、そんな考えがよぎる。


復讐に囚われていたはずの自分。

あの頃の自分からすれば、この空気はあまりにも――ぬるい。


だが同時に、抗えない心地よさがあった。


まるで毒だ。

甘く、優しく、そして確実に――人を鈍らせる毒。


「……今日、ここを出ていく」


気づけば、口にしていた。


場の空気が、ほんの僅かに揺らぐ。


最初に反応したのは、農家の女性だった。


「そうですか……」


一瞬の間。


「……ですが、止めません。人それぞれ、役目がありますから」


そう言って見せた笑顔は、いつものようで――どこか少しだけ歪んでいた。


彼女はそのまま背を向け、台所へと消えていく。


残された空気は、静かに重くなる。


学者の少女と聖騎士は、じとりとした視線をこちらに向けていた。


「俺は冒険者だ。それに……ここにいては鈍っていく」


そう言い切ると、学者の少女がむっと頬を膨らませる。


「せっかく美味しいご飯の時間なのに、そんな暗い話……食後にすればよかったのに」


拗ねたような声音。


だがその横で、聖騎士は肩をすくめた。


「いや、仕方ないさ。彼も冒険者であり、戦士だ。ある程度回復すればここを発つ――それは自然なことだよ」


「だからって……」


言い返しかけたその瞬間だった。


裏口の扉が、小さく軋む音を立てる。


農家の女性が、外へ出ていった。


その背中を見た瞬間――


(――っ)


一瞬だけ、別の“誰か”の後ろ姿が重なる。


忘れたはずの記憶。

振り切ったはずの感情。


気づいた時には、もう身体が動いていた。


椅子が大きな音を立てる。


そのまま、外へと駆け出す。


残された室内で、聖騎士は小さく息を吐いた。


「……彼は、そういう男だよ」


淡く、しかしどこか理解したような声音。


「君が口出す話じゃない」


学者の少女はむっとした顔で睨み返す。


「私を子供扱いしてるみたいだけど、これでも二十は超えてるんだからね!」


その言葉に、聖騎士は一瞬きょとんとし――


次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。


「ははっ……それは、失礼した」


くすくすと笑いながらも、その瞳はどこか優しかった。


静かな朝は、少しだけ騒がしく、そして――確かに動き出していた。


裏口の扉を開けた瞬間、空気が変わった。


広がるのは、どこまでも穏やかな風景。

風に揺れる草木、遠くで鳴く鳥の声――それらすべてが、胸の奥に沈んでいた何かをそっと撫でる。


懐かしい。

理由もなく、ただそう感じてしまう。


ここにいるだけで、すべてを忘れてしまいそうになる。

痛みも、怒りも、背負ってきたものさえも。


……だからこそ、危うい。


視線を落とすと、裏口のすぐそばにある木製のベンチに、農家の女性が腰掛けていた。


扉の音に気づいたのか、ゆっくりとこちらを振り返る。


そして何も言わず、隣の空いたスペースへと視線を向けた。


――座れ、ということだろう。


俺は静かに歩み寄り、その隣に腰を下ろした。


木の感触が、やけに温かい。


彼女の横顔を見ると、どこか穏やかで――それでいて、ほんの少しだけ寂しそうだった。


「……別に、怒っているとかではないんです」


ぽつりと、優しい声が落ちる。


「斧使いさん。あなたは、この場所が……皆から何と呼ばれているか、ご存知ですか?」


問いかけに、俺は小さく首を横に振る。


初めて聞く話だった。


彼女は、少しだけ微笑んだ。


「そうですよね……」


そして、静かに続ける。


「ここは、“楽園”って呼ばれているんです」


風が、そっと吹き抜けた。


「この場所は、人が“ここを望み”、そして“この場所に受け入れられた時”にだけ辿り着ける――いわば、この世界とは少しだけ違う空間なんです」


現実離れした話。

だが、不思議と違和感はなかった。


むしろ、納得してしまう自分がいる。


「ここに来た人は、皆さん口を揃えて言うんです。“懐かしい場所だ”って」


彼女は空を見上げる。


その目は、どこか遠くを見ていた。


「……それは、とっても嬉しいことです」


一拍。


「ですが――」


その声が、わずかに揺れた。


「一度ここに来られた方が、もう一度顔を出してくれる確率は……とても低いんです」


静寂が落ちる。


「“泉”の聖騎士様は……むしろ例外と言ってもいいくらいで」


指先が、膝の上でそっと重なる。


「この場所には……迷いがある方や、何かに強く執着している方が多く訪れます」


そして、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。


「きっと……ここに来ることで、その覚悟が、少しだけ緩んでしまうんでしょうね」


その言葉は、優しく――そして残酷だった。


「だから私は、時々思うんです」


風が止む。


世界が、静かに息を潜める。


「この場所は……本当に、皆様にとって“救い”になっているのか」


彼女の瞳が、まっすぐこちらを捉える。


逃げ場のない、真っ直ぐな視線。


「……あなたを見ていて、とても心配になってしまったんです」


その言葉は、責めるものではなかった。


ただ純粋に――


誰かを想う、優しさだった。


彼女の声は、震えていた。


けれど、それでも言葉を止めることはなかった。


「……あなたが何を抱えていて、何を成そうとしているのか。私には分かりません」


指先が、ぎゅっと握られる。


「ただ……あなたは、誰よりも深い悲しみを抱えている――そんな気がするんです」


静かな風が、二人の間を通り過ぎる。


「だから……」


一瞬、言葉が詰まる。


それでも、絞り出すように続けた。


「あなたが出ていくと告げた時……涙が、こぼれそうになったんです」


その横顔は、今にも崩れてしまいそうで。


それでも必死に、笑顔を保とうとしているのがわかった。


「……私がやっていることは、偽善なんじゃないかって」


ぽつり、と。


「偽りの休息を与えているだけで……誰の助けにもなっていないんじゃないかって」


視線が、足元へと落ちる。


「この場所は優しすぎるから……だからこそ、人を弱くしてしまうんじゃないかって……」


小さく、息を吐く。


そして――


「……私のやっていることは、間違いなのでしょうか?」


その問いは、あまりにも真っ直ぐで。


あまりにも、答えを求めていた。


しばしの沈黙。


風が、草を揺らす音だけが響く。


――やがて。


「……間違いじゃない」


静かに、そう告げる。


彼女の肩が、ぴくりと揺れた。


「ここは確かに、優しすぎる場所だ」


視線を前へ向ける。


どこまでも穏やかな景色。

すべてを忘れさせてしまいそうな、この“楽園”。


「ここにいれば、きっと多くの奴が……立ち止まる」


復讐も、使命も、決意も。

全部、置いていけてしまう。


「……だが、それでもいい」


言葉を、噛みしめるように続ける。


「人はずっと戦い続けられるほど、強くない」


彼女の方へ、ゆっくりと視線を向ける。


「一度、立ち止まれる場所があること。何も背負わずに、息をできる場所があること――それは、救いだ」


断言する。


迷いなく。


「それを“偽り”だなんて言う奴は……多分、一度も限界まで追い詰められたことがない奴だ」


風が、少し強く吹いた。


「……ここは、逃げ場じゃない」


小さく首を振る。


「戻るための場所だ」


その言葉は、静かに、けれど確かに響いた。


「俺は出ていく」


はっきりと告げる。


「だが――」


一瞬だけ、間を置く。


「ここに来たことを、後悔はしない」


それは偽りではない。


「むしろ……ここがなければ、俺はとっくに壊れていたかもしれない」


ほんの少しだけ、息を吐く。


「だから、お前のやっていることは――」


彼女の瞳を、真っ直ぐ見て言う。


「ちゃんと、誰かを救ってる」


沈黙。


けれど今度のそれは、重くはなかった。


彼女の頬を、一筋の涙が伝う。


それは悲しみではなく――


どこか、救われたようなものだった。


日が高く昇り、柔らかな光が村を包み込む頃。


村の門の前には、四人の姿があった。


農家の女性。

“泉”の聖騎士。

学者の少女。

そして――斧を背負った一人の冒険者。


風が、ゆるやかに吹き抜ける。

どこか名残惜しさを含んだ、穏やかな風だった。


最初に口を開いたのは、学者の少女だった。


「今日までお世話になったわ。本当にいっぱいありがとう!また来させてもらうわ!」


いつもの調子で、明るく言い切る。


それに対して、農家の女性はふわりと微笑んだ。


「いえ、こちらこそ……たくさんお手伝いしていただいて助かりました。また来てくださるの、楽しみにしていますね」


その笑顔は、今度は繕いではなく――どこか穏やかで、温かいものだった。


ふと、学者の少女が聖騎士へと視線を向ける。


「そういえば、聖騎士様はいつまでいるんですか?」


その問いに、彼女は軽く肩をすくめた。


「私も、もう少ししたら発つよ。やらなければいけないことがあるからね」


どこか意味深な言い方。


だが、それを聞いた学者の少女はにやりと笑う。


「それって……夕飯を食べるってことじゃないんですか?」


「ち、違う!私だってこう見えて忙しいんだぞ!」


珍しく慌てた様子に、場の空気が一気に和らぐ。


くすくすと、三人の間に笑いが広がった。


その光景を、少し離れたところから眺める。


――眩しい、と思った。


だがそれは、嫌なものではなかった。


「……ほら」


不意に、聖騎士がこちらへと視線を向ける。


「君も、何か言うことがあるんじゃないか?」


その言葉に、三人の視線が集まる。


わずかに息を吸う。


言葉は、驚くほど簡単なものしか出てこなかった。


「ああ……」


一瞬の間。


「今まで、ありがとう」


それだけ。


それだけなのに――


胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。


農家の女性は、静かに頷く。


学者の少女は、少しだけ寂しそうに笑う。


そして聖騎士は――


「……ああ」


短く、それだけを返した。


風が、ゆるやかに吹き抜ける。


門の向こうには、これから進む道が続いている。

振り返れば、あの“楽園”がある。


「……ほら、行くわよ」


学者の少女が、少しだけ照れくさそうに言いながら歩き出す。


「ああ」


短く返し、並ぶように一歩を踏み出した。


二人分の足音が、静かに重なる。


背後から、声が届く。


「また、来てくださいね!」


農家の女性の声だった。


振り返ると、彼女はいつもの笑顔で手を振っている。

その隣で、聖騎士も腕を組みながら小さく頷いた。


「……今度は、もっとゆっくりできる時に来るといい」


「次は夕飯までちゃんと付き合えよ」


からかうような声音。


思わず、口元がわずかに緩む。


「善処する」


それだけを返して、前を向く。


もう振り返らない。


――振り返れば、きっと足が止まるから。


二人で歩く道は、決して軽くはない。

それでも――


先ほどまでとは違い、どこか確かなものが胸に残っていた。


背中には、あの場所の温もりがある。


だから進める。


二人分の影が、ゆっくりと村から離れていった。


二人の背中が、やがて小さくなり――

やがて、道の先へと消えていく。


その姿を見届けた後、残された二人の間に、静かな時間が流れた。


風が、やわらかく吹く。


「……それで」


不意に、“泉”の聖騎士が口を開いた。


「――あの斧使いの冒険者はいかがでしたか?」


どこか探るような声音。


農家の女性は、一瞬だけ目を細め――そして、穏やかに微笑んだ。


「とても素敵な方ですね」


迷いのない言葉。


「……貴女も、彼に期待しているんじゃないですか?」


その一言に、聖騎士の肩がびくりと揺れた。


「なっ、何をおっしゃいますか!」


慌てたように言い返す。


「私は聖騎士です!そんな不純な――」


言い切る前に、くすりと笑い声がこぼれる。


「ふふふ、冗談です。少しからかっただけですよ」


柔らかな声音。


だが、そのまま続けた言葉は、どこか真剣だった。


「……ですが、不思議と。彼といると、落ち着くんです」


聖騎士は、少しだけ目を伏せる。


「……そうですね」


ぽつりと、同意する。


「あれだけ復讐に燃えているように見えて――それでも彼は、きっと」


遠く、二人が消えた道の先を見つめる。


「……昔の“優しかった自分”を、どこかに残している」


風が、静かに揺れる。


「だからこそ、彼なら――自分の使命を、全うできるはずです」


その言葉に、農家の女性は少しだけ首を傾げた。


「それは……女神としての勘、ですか?」


その問いに――


一瞬だけ、空気が変わった。


「……何を言っているんですか」


彼女は、苦笑する。


「女神と言っても、私はもう天界を追われた身。この地で暮らすことしかできない、落ちぶれた“豊穣を司る存在”ですよ」


自嘲気味に肩をすくめる。


「今では……こうして、人と同じように心が揺れてしまう。ずいぶん曖昧な存在になってしまいました」


その言葉には、どこか寂しさが滲んでいた。


だが――


「……ですが」


聖騎士が、静かに口を開く。


「女神様に言うのも何ですが……私は、今の貴女の方が――とても素敵だと思いますよ」


まっすぐな言葉。


飾りのない、本心。


「……そ、そうですか……?」


農家の女性は、少しだけ頬を赤らめる。


「恥ずかしいですが……嬉しいです」


その笑顔は、先ほどまでとは違う――どこか年相応の、柔らかなものだった。


やがて、聖騎士は軽く息を吐く。


「……さて」


空を見上げる。


「私も、少し準備をしたら出るとします」


再び、あの道の先へ視線を向ける。


「私も彼も……またここに来られるよう、祈っていてくださいね」


農家の女性は、静かに頷いた。


「ええ、もちろんです」


その微笑みは、すべてを包み込むように優しくて。


「――貴女たちの帰りを、楽しみに待っています」


風が、やわらかく吹き抜ける。


“楽園”は、変わらずそこにあった。

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