第三話『結露』(後)
桐生は出されたほうじ茶を一口飲み、息を吐いた。香ばしい茶葉の香りと温かさが冷え切った身体に染み渡り、張り詰めていた神経を少しだけ解きほぐしていく。
「落ち着きましたか」
美波が尋ねると、桐生は意図的に咳払いをし、表情を引き締めた。
「ああ。さて、本題に入ろう」
彼は懐からタブレット端末を取り出し、カウンターの上に置いた。ここからは警察官としての本分だ。
「事件が起きたのは三日前の夜、午後八時頃だ。被害者は都内の高級マンションに住む資産家の老人。死因は毒物による中毒死で、被害者のコーヒーカップからシアン化合物が検出された」
桐生はタブレットの画面を操作し、事件の概要を説明していく。
「容疑者として浮上したのは、被害者の甥である山崎という男だ。山崎には多額の借金があり、老人の遺産を狙っていた形跡がある。さらに事件前日、山崎が現場周辺をうろついている姿が防犯カメラに映っていた。動機も状況証拠も、奴が犯人だと告げている」
「ですが、その山崎さんには不在証明があったのですよね」
「そうだ。山崎は事件当日の夕方から、都心から車で数時間はかかる長野県の雪山にある、被害者所有の別荘に一人で滞在していたと主張している。そして、そのアリバイを証明するのが、事件発生時刻と全く同じ午後八時に、山崎自身のSNSのアカウントから投稿されたこの動画だ」
桐生がタブレットの再生ボタンに触れた。
画面に映し出されたのは、ログハウス調の広々とした部屋の様子だった。画面の左端には、赤々と炎を上げる大きな暖炉。中央には重厚な木製のローテーブルがあり、その上には氷水が入ったワインクーラーと、半分ほど注がれた白ワインのグラスが置かれている。
そして画面の右側には、黒いタートルネックのセーターを着た山崎という男が、ワイングラスを片手にソファでくつろいでいる姿が映っていた。
動画は、山崎が自撮り棒か何かで固定したスマートフォンで撮影しているようで、彼自身の姿と部屋の様子が三十秒ほど映し出されている。
『雪山の別荘で、極上のワインと一人の夜。最高の贅沢だな』
山崎がカメラに向かってそう呟き、ワイングラスを傾ける。
その背後の壁には、立派なアンティークの掛け時計が掛かっており、その長針と短針ははっきりと『午後八時』を指していた。さらに部屋の奥に置かれたスマートスピーカーからは、ラジオのニュース音声が鮮明に聞こえてくる。
『時刻は午後八時をお知らせします。本日の主なニュースです。まず最初の』
動画はそこで、不自然に切れていた。
「なるほど。壁の時計の針と、ラジオのニュース番組の音声。これが、山崎さんが午後八時に長野県の別荘にいたという証拠なのですね」
「そうだ」
桐生は忌々しげに息を吐いた。
「時計の針だけなら、後からいくらでも偽装できる。だが、背景から流れているラジオのニュース音声は、間違いなく事件当日の午後八時に放送されていた全国ネットの生放送の音声だ。警察の科学捜査研究所で音声解析も行ったが、後から合成された痕跡は一切なかった」
「それに、この動画がアップロードされた時間も、事件当日の午後八時五分ですね」
美波が確認するように尋ねると、桐生は重々しく頷いた。
「ああ。これはネット上の表面的なデータじゃない。裁判所の令状を使い、通信会社のサーバーから直接押収したメタデータ付きのオリジナル動画ファイルだ。投稿時間の偽装は絶対に不可能だ。つまり、この男は間違いなく午後八時に別荘にいて、ラジオで生放送のニュースを聞きながらこの動画を撮り、直後にアップロードしたということになる」
「だから手こずっている。でも、桐生さんはそのアリバイを、ただの事実としては受け入れていない」
美波はマグカップのほうじ茶を一口飲み、凪いだ声で言った。
「山崎さんは事件前日に別荘へ行き、アリバイ工作の準備をした。そして事件当日の昼間にはすでに都内へ戻っており、午後八時に被害者を毒殺した。この動画は、午後八時に別荘で撮影されたものではない、と」
「その通りだ。奴は都内で被害者を殺害した後、アリバイ動画を捏造して警察の目を欺こうとしている。だが、俺の推理を裏付ける証拠が何一つないんだ」
桐生は苦渋の表情を浮かべた。
「もしこの動画が昼間に撮影されたものなら、ラジオから事件当日の午後八時のニュース音声が流れているのは絶対に不自然だ。生放送のニュースを、昼間のうちに録音することなど不可能だからな。時洲、あんたの眼から見て、この動画に何か物理的な嘘は見抜けないか」
桐生の切実な眼差しを受け、美波は小さく頷いた。
彼女はロッキングチェアから立ち上がり、タブレット端末を顔の高さまで持ち上げる。そして、大きな丸眼鏡のブリッジを指先で静かに押し上げた。
その瞬間、時洲堂の空気が、おでんの温かい匂いから一転して、探偵が真実を見据えるための透き通った静寂へと切り替わった。
画面に映し出された別荘の映像へと、極限まで視線を集中させる。山崎の表情、暖炉の炎の揺らめき、ワイングラスの傾き、壁の時計の針、窓のカーテン。彼女の眼は、それらの目立つ情報には騙されない。そこに存在するはずの自然な物理法則と、古物が歩んできた歴史が、この映像の中で正しく機能しているかどうか。ただそれだけを、冷徹な視線で探し求めているのだ。
「桐生さん。容疑者の背後にある、あのアンティークの掛け時計を見てください」
数分間の沈黙の後、美波がぽつりと呟き、画面を指し示した。
「時計がどうかしたのか。針は間違いなく八時を指しているが」
「針が八時を指しているからこそ、おかしいのです。物理的な痕跡は、決して嘘をつきませんよ」
美波は氷のように透き通った声で断言した。
「あの時計は、文字盤の下に二つのゼンマイ用の鍵穴がある『八日巻きのボンボン時計』です。右が時計の針を進めるゼンマイ、左が鐘を鳴らすゼンマイになっています。このタイプの時計は、長針が『十二』を指した正時の瞬間に、必ず時刻の数だけ鐘を打ち鳴らす時打ち機構を備えているんです」
美波の指摘に、桐生が眉をひそめた。
「動画の中の時計は、八時きっかりを指しています。でも、動画の音声の中には、ラジオのニュースの声と山崎さんの声だけで、時計の鐘の音はただの一度も鳴っていません」
「鐘のゼンマイを巻いていなかっただけだろう。あるいは、ラジオの音声を目立たせるために、わざと鐘を止めていたのかもしれない」
「いいえ、桐生さん」
美波は首を横に振った。古物商としての、絶対に譲れない知識の刃が閃く。
「アンティーク時計の時打ち機構は、非常にデリケートです。長針を回して時間を合わせる際、正時と半を通過するごとに、きちんと鐘が鳴り終わるのを待たないと、内部の『数取り車』などの連動機構が完全にロックされて鳴らなくなってしまうんです。山崎さんはそれを知らず、ただ急いで針を力任せに回し、無理やり八時に合わせて撮影を始めた。だから、八時を刻んでいるのに鐘の機構がロックされて沈黙したままだったんです。この時計は午後八時の時を刻んで生きているわけではありません。ただ針がその位置に置かれただけの、死んだ時計なのです」
桐生はハッと息を呑んだ。
時計の針を後から無理やり合わせたという、決定的な物的証拠。
「だが、時計の針を偽装しただけでは、奴のアリバイは崩せない。背景から流れている午後八時のニュース音声はどうやって説明するんだ。警察の科捜研は音声データの切り貼りはないと証明しているんだぞ」
「ええ、合成ではありません。でも、このアナウンサーの言葉をよく聞いてください。『時刻は午後八時をお知らせします。本日の主なニュースです。まず最初の』。具体的な事件名や日付が読み上げられる直前で、動画は意図的にカットされていますよね」
美波は、容赦なく嘘のベールを剥がしていく。
「このラジオから流れているのは、生放送のアナウンサーの肉声ではありません。『毎日全く同じ音声ファイルが使われる、番組オープニングの録音済みのタイトルコール』を、昼間にスマートスピーカーから再生し、それを背景にして自撮り動画を撮影しただけです。波形が完全に一致する固定のシステム音声だからこそ、科捜研も別日の録音だと見抜けなかったんです」
桐生の目が、驚愕に見開かれた。テレビの画面という視覚的弱点を消すために、あえてラジオの固定音声を使ったトリック。
「馬鹿な。では、動画ファイルのメタデータはどう説明するんだ。SNSの投稿時間はともかく、ファイル自体の『作成日時』が午後八時になっていなければ、科捜研はすぐに昼間の撮影だと見抜くはずだぞ」
「だからこそ、物理的な遠隔操作と偽装を仕掛けたんです」
美波はタブレットをカウンターに置き、真っ直ぐに桐生を見つめた。
「山崎さんは、事件当日の昼間、午後二時頃に別荘でこの動画を撮影しました。その際、スマートフォンの本体設定の時計を『午後八時』にずらして撮影したため、動画ファイルの作成日時も午後八時として記録されたんです。そして、前日のニュースの録音を流し、時計の針を動かし、遮光カーテンを引いて夜を偽装して撮影を終えた後、別荘のWi-Fiに繋いだ予備のパソコンを室内の見えない場所に隠しておきました。そのパソコンにOSの自動操作マクロを組んで『午後八時五分になったら、自動でブラウザの送信ボタンを物理的にクリックさせる』設定をしてから、都内へと向かったのです。これならAPIの痕跡は残らず、サーバー側からは別荘のIPアドレスから正規の手段で人間がアップロードしたようにしか見えません。今すぐ別荘を捜索すれば、自動送信のマクロが組まれたままのパソコンが、誰にも触られずに放置されているはずですよ」
すべてが、一本の線に繋がった。
午後八時。容疑者の山崎は長野県の雪山などにはいなかった。彼は都内の高級マンションに潜み、叔父である被害者のコーヒーカップに毒物を混入させていたのだ。その犯行の真最中、彼が昼間に別荘に仕掛けておいたアリバイ動画が、物理的な遠隔操作のパソコンによってSNSへと放たれた。優雅にワインを傾ける自分の姿が。
「見事な、嘘の塊じゃないか」
桐生は、怒りとも呆れともつかない溜め息を吐き出した。
捜査一課の総力を挙げても崩せなかった鉄壁のアリバイが、古物商の知識とデジタルの盲点を見抜く視座によって、今、完全に瓦解した。
「桐生さん、もし私の推理を裏付ける視覚的な証拠が欲しいなら、ここを見てください」
美波は再びタブレットの画面を拡大し、山崎の背後にある窓ガラスの一番端を指し示した。
分厚い遮光カーテンが引かれているが、そのカーテンと窓枠のわずかな隙間から、一筋の鋭い光が室内の床に向かって差し込んでいるのが見えた。
「床に落ちた光の中に、細かな埃が舞っているのがわかりますか。その光の『色温度』に注目してください」
「色温度」
「はい。夜の外灯や車のライトの光は通常、白や黄色がかった暖かい光になります。しかし、この光は異常なほどに青白い。これはカメラのホワイトバランスが、暖炉の赤い炎という低色温度に合わせて自動補正された結果、隙間から差し込む真昼の太陽光という高色温度が、相対的に不自然なほど青白い『閃光』となって際立ってしまっているんです」
美波の瞳が、絶対的な力強さで輝いた。
「この動画が撮影された時、遮光カーテンのすぐ外では、真昼の太陽の光が、真っ白な雪山を照らし出していたんですよ。これが、カメラの光学法則が記録していた、最大の嘘の痕跡です」
完全なる、論理の断罪だった。
桐生はタブレットの画面を食い入るように見つめ、やがて、憑き物が落ちたように深く息を吐き出した。そして両手で顔を覆い、肩を震わせた。悔しさからではない。あまりにも鮮やかで、息を呑むほどに美しい推理を見せつけられたことへの、純粋な感嘆の震えだった。
「またしても、完敗だ」
桐生はタブレットの電源を落とし、チェスターコートの内ポケットへと慎重にしまい込んだ。その顔からは、店に入ってきた時の落ち着きのなさは完全に消え去り、真実を突きつけられたプロの捜査官としての、鋭い闘志が宿っていた。
「時計の針やラジオの音声といった人為的な情報にばかり気を取られ、古物の機械構造や色温度という自然の物理法則に目を向けることができなかった。警察の失態だ。だが、あんたのおかげで、奴の嘘を完全に粉砕できる」
桐生は丸椅子から立ち上がり、コートの襟を正した。
おでんの湯気でわずかに曇った空間の中、彼は美波を真っ直ぐに見下ろした。その視線には、刑事としての敬意と、不器用な好意が複雑に絡み合っているのが見て取れた。
「すぐに捜査本部に戻り、山崎を拘束する。別荘に隠されたマクロ設定のパソコンを押収し、別荘から都内への経路にあるNシステムの昼間の映像を徹底的に洗い直せば、奴が昼間に移動していた証拠は必ず出てくるはずだ」
「お役に立てたなら、よかったです」
美波はにっこりと微笑んだ。
「ですが桐生さん、今度からは、こんな風に機密資料を一般のお店に持ち込んでは駄目ですよ。もしあのまま冬馬くんたちが店内にいたら、大変なことになっていましたから」
痛いところを突かれ、桐生は顔を微かに赤らめてそっぽを向いた。警察官としての規律を破ってまで、彼女の顔を見に来てしまった自身の私情を指摘されたようで、ひどく居心地が悪そうだった。
「今回は、特別だ。もう二度とこんな真似はしない」
桐生は足早に店の入り口へと向かい、引き戸の取っ手に手を掛けた。しかしそこで足を止め、振り返らずに背中を向けたまま、口を開いた。
「時洲」
「はい」
「その、花束は」
桐生の視線が、カウンターの水差しに生けられた、薄紅色のラナンキュラスの花束を捉える。
「先ほども言ったが、ただの事務的な慰労の品だ。もし枯れたら、遠慮なく捨ててくれ。それから」
桐生は言葉を区切り、ひどく真面目な声で付け加えた。
「先ほどの配達員のような、粗野で馴れ馴れしい男には気をつけろよ。あんたは無防備すぎる。次に来る時は、もう少し相応しい手土産を持ってこよう」
それだけを早口で言い残すと、桐生は逃げるように引き戸を開け、冷たい夜の路地裏へと足早に去っていった。
残された美波は、閉まった引き戸と、カウンターに飾られた美しい花束を交互に見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「粗野で馴れ馴れしい男。冬馬くんのことでしょうか。冬馬くん、とっても優しくていい人なのに」
人の悪意や嘘を見抜く眼は恐ろしく鋭い美波だが、自分に向けられた好意や、男たちの不器用な牽制合いに関しては、信じられないほどに鈍感だった。
一方、時洲堂を飛び出した桐生は、冷たい夜風に吹かれながら、赤くなった顔をマフラーで必死に隠すようにして路地を足早に歩いていた。気の利いた言葉の一つも言えず逃げるように店を出てきてしまった不器用な男の背中は、どこか温かな安堵に包まれているようだった。
***
「時洲さん。あの怪しい男、帰りましたか」
桐生が去ってから五分も経たないうちに、時洲堂の引き戸が勢いよく開き、冬馬が飛び込んできた。彼は建物の物陰に隠れて、桐生が店から出ていくのをずっと見張っていたのだ。
「あっ、冬馬くん。配達はもう終わったのですか」
「俺の俊足を舐めないでください。あの男が時洲さんに変なちょっかいを出さないか心配で、猛スピードで配り終えてきましたよ」
冬馬が息を切らしながら店内を見回すと、その後ろから、再び三枝夫婦が顔を出した。
「美波ちゃん、お仕事の話は終わったかしら。おでん、まだ温かいといいのだけれど」
「美波。あの気取った男、お前に妙な真似はしなかっただろうな」
どうやら、三枝夫婦も少し離れた場所で桐生が帰るのを見計らっていたらしい。狭い時洲堂の店内が、再び賑やかな下町の人々の熱気で満たされていく。
「はい、無事に終わりましたよ。洋子さん、幸一さん、冬馬くんも、お待たせしてしまってごめんなさい。さあ、おでんをいただきましょう」
美波が嬉しそうに声を弾ませると、洋子がおでんの大きな鍋を再びストーブの天板に乗せた。出汁の良い匂いが、立ち上る湯気と共に店内に広がっていく。
「それにしても」
冬馬が、カウンターに飾られたラナンキュラスの花束を、親の仇でも見るかのような恨めしそうな顔で睨みつけた。
「時洲さん。あんな男が持ってきた花なんて、すぐに捨ててしまいましょう。絶対に何か裏がありますって。花言葉が呪いとか、そういうものかもしれないじゃないですか」
「そんなことありませんよ。とっても綺麗なお花ですし、せっかくいただいたのですから、枯れるまで大切に飾っておきます」
美波が花びらを優しく撫でながら微笑むと、冬馬は力なく肩を落とし、絶望したような顔で丸椅子にへたり込んだ。
「俺も、段ボールではなくて花束を持ってくればよかった」
「馬鹿だねえ、冬馬くんは。美波ちゃんはお花より、美味しいご飯の方がずっと喜ぶに決まっているじゃないの。ほら、熱いうちに牛すじお食べ」
洋子が笑いながら、落ち込む冬馬の小皿に山盛りの牛すじを乗せる。幸一も男は黙って美味いものを食っていればいいんだと、どこか的外れな慰めを言いながら熱燗を啜っていた。
美波は、そんな騒がしくて温かい彼らのやり取りを眺めながら、丸眼鏡の奥の瞳を細めてふわりと笑った。
事件の闇や、他者を欺くための冷たい嘘。そんなものに触れた後だからこそ、損得勘定のない、彼らの真っ直ぐな優しさと不器用な好意が、美波の心を芯から温めてくれるのだ。
「洋子さんのおでん、やっぱり最高に美味しいです」
大根を頬張り、幸せそうに目を細める美波。
その傍らで、美しい薄紅色のラナンキュラスが、石油ストーブの青く澄んだ光を受けて揺れていた。古物の装飾にもよく使われるラナンキュラスの花言葉が『晴れやかな魅力』であることを、不器用なエリート刑事が知って選んだのかどうかは、美波には知る由もなかった。
やがて夜が更け、賑やかな宴がお開きになった後。
一人になった時洲堂で、美波はカウンターの奥のロッキングチェアに深く腰を下ろした。引き出しの奥から使い込まれた古い革の手帳と、ミッドナイト・ブルーのインクが入った万年筆を取り出す。
新しいページを開き、インクの匂いを微かに感じながら、今日出逢った嘘のルーツを書き記していく。
『雪山の別荘と、壊れた数取り車。
モノは決して嘘をつかない。
人間がどれほど巧妙に時間を偽り、アリバイを装おうとも、
アンティークの歴史と物理法則は、そこにあるべき痕跡を正確に記録している。
冷たい嘘で塗り固められた映像には、
鳴らない時打ちの証も、青白い閃光という色温度の証も刻まれていた。
誰かを欺くために作られた虚像は、
自然の息吹の前では、あまりにも脆く、空っぽだ。
嘘を暴くのは、いつだってそこにある自然な物理の足跡。
今日また一つ、冷たい虚像が打ち砕かれ、
隠されていた真実が明るみに出た。』
万年筆の金色のペン先が紙を擦る心地よい音が、ストーブの音と混ざり合う。美波はインクが乾くのをそっと息を吹きかけて待ち、革の手帳を閉じた。
窓の外では、冷たい冬の夜風が吹き抜けている。しかし、琥珀色の光に包まれた路地裏の古物商には、美味しいおでんの匂いと、不器用な男たちが残していった温かい騒がしさの余韻が、いつまでも満ちていた。




