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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と沈黙の迷子―』  作者: 長月有希


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第四話『家族』(前)

 三月半ば。古い運河が流れる下町の路地裏にも、ようやく遅い春の足音が聞こえ始めていた。


 日陰のコンクリートに頑固にこびりついていた黒い雪の塊はすっかり溶け出し、ひび割れたアスファルトの隙間からは、春を待ちわびていた名もなき雑草がひっそりと青い芽を覗かせている。吹き抜ける風にはまだ肌を刺すような鋭い冷たさが残っているものの、そこに混ざる湿った土の匂いと、どこかの庭先でほころび始めた沈丁花《じんちょうげ》の香りが、季節の確かな移ろいを告げていた。


 そんな春の気配が漂う午後の昼下がり。古物商『時洲堂(ときすどう)』の店内は、年代物の対流式石油ストーブが発する柔らかな暖気と、心地よい静寂に包み込まれていた。


 壁に掛けられた大きなゼンマイ式の古時計が、規則正しいリズムを刻んでいる。店主の時洲(ときす)美波(みなみ)は、春らしい若草色の薄手ニットの上に丈夫な帆布のエプロンを身につけ、カウンターの奥で細やかな作業音を立てていた。


 彼女は今、駝鳥《だちょう》の羽で作られた柔らかな毛ばたきを手に、アンティークの飾り棚に並ぶガラス細工や陶磁器の埃を丁寧に払っているところだった。


 ふと、店の入り口から音がした。飴色に変色した古いガラス戸が、驚くほど滑らかに枠へと収まる音だ。


 美波が振り返ると、入り口の土間に工具箱を広げた三枝(さえぐさ)幸一(こういち)が、シュッ、シュッと心地よい音を立てて鉋《かんな》をかけ、戸の開け閉めを繰り返して立て付けの具合を確かめているところだった。乾燥する冬の間に木枠が歪み、開閉のたびに不快な摩擦音を立てるようになっていたのを、彼が見事な腕前で調整してくれていたのだ。


「幸一さん。戸の立て付けを直してくださったのですね。とても滑らかに開きます」


 美波が嬉しそうに声をかけると、幸一は作業用の前掛けについた鉋の木屑を手で払い落とし、短く唸った。


 三枝幸一という男は、昔気質の職人らしく極端に寡黙である。無駄口を叩くことを嫌い、自らの仕事と行動だけで語る男だ。しかし、彼がこうして時洲堂の些細な不具合を見逃さず、頼まれるよりも先に手を入れてくれるその背中は、美波への何よりの気遣いを雄弁に物語っていた。


「お父さん、お疲れ様。美波ちゃんも、少し手を休めてお茶にしましょう。今日は駅前の和菓子屋で、春限定のいちご大福を買ってきたのよ」


 店の奥から、幸一の妻である洋子(ようこ)がお盆に急須と小皿を乗せて現れた。さばさばとした明るい声が、店内に花が咲いたような華やかさをもたらす。


「いちご大福。嬉しいです。洋子さん、わざわざありがとうございます」


 美波は毛ばたきを置き、花がほころぶような笑顔を見せた。手際よくカウンターの前に丸椅子を並べる。


 美波に血の繋がった家族はいない。両親を早くに亡くし、この時洲堂でたった一人で生きてきた。幸一と洋子もまた、子供を持たない夫婦である。しかし、彼らはまるで本当の娘に向けるような、不器用で真っ直ぐな愛情で美波のことを見守り、こうして日常の隙間を温かな時間で埋めてくれているのだ。


「美味しいです。白餡の甘さといちごの酸味が絶妙ですね」

「でしょう。お父さんなんて、甘いものは酒に合わないっていつもしかめっ面するくせに、こういう時は文句も言わずに二個も食べるのだから」


 幸一はバツが悪そうに深く眉間を寄せ、顔をかすかに赤らめながら、無言で二つ目の大福を口へ運んだ。反論一つしないその姿に、洋子がまた朗らかに笑う。


 狭い店内に、洋子の笑い声と美波の穏やかな微笑みが満ちる。血が繋がっていなくても、一緒に過ごす時間と互いを思いやる心さえあれば、人はこんなにも温かい家族になれる。美波はその事実を、この老夫婦との触れ合いの中で実感していた。


 やがて、お茶の時間を終えた三枝夫婦が夕飯の支度があるからと帰っていくと、時洲堂には再び密度の高い一人きりの時間が戻ってきた。美波が急須の茶葉を片付け、仕事用のダージリンの茶葉をポットに準備しようとしていた矢先のことだった。


 入り口のガラス戸が、先ほど幸一が修理したおかげで滑らかに、しかしどこか強い躊躇いを帯びた弱々しい響きを伴って開かれた。吹き込んできた風に揺れる真鍮のベルを見上げ、美波はいらっしゃいませと明るい声をかけて立ち上がる。


 敷居を跨いで店内に入ってきたのは、二十代半ばほどの若い女性だった。

 質の良い黒のフォーマルなワンピースの上に、落ち着いたグレーのトレンチコートを羽織っている。胸元にはパールの小さなネックレス。その服装はあからさまな喪服ではないものの、深い哀悼の意を示す略喪服の装いだった。


 女性は色白で整った顔立ちをしていたが、その表情はひどく疲弊しており、伏せられた目元には隠しきれない隈が落ちている。手には、深い紫色の風呂敷に包まれた小さな四角い箱を、まるで自分の命綱であるか、あるいは絶対に開けてはならない恐ろしい箱であるかのように、両腕で大切に抱え込んでいた。


「あの」


 女性は、店内に所狭しと並ぶアンティークの品々を不安げに見回した後、カウンターの奥にいる美波の姿を捉え、掠れた声で口を開いた。


「ここが時洲堂さんで間違いないでしょうか。古いモノのルーツを探って、長年の迷い事を解決してくれる方がいると、紹介されてきたのですが」

「はい。私が店主の、時洲美波です」


 美波は女性の纏う深く沈んだ空気を瞬時に感じ取り、声のトーンを一つ落として、丁寧に応えた。


「古いモノの買取や販売はもちろんですが、モノにまつわる探し物や謎を紐解くお手伝いもさせていただいています。お座りになりますか。外はまだ少し冷えますよね」


 美波に勧められ、女性は強張っていた肩の力を抜き、カウンターの前の丸椅子に浅く腰を下ろした。美波はそれを確認してから、準備していたダージリンの茶葉に熱湯を注ぎ、砂時計をひっくり返す。数分後、抽出された紅茶をカップに注ぐと、芳醇な香りが立ち昇った。


「ありがとうございます。私は、赤城(あかぎ)と申します」


 赤城と名乗った女性は、出されたティーカップの温もりを両手で確かめるようにしてから、ぽつりぽつりと重い口を開き始めた。


「実は先週、私を育ててくれた母が病気で亡くなりました。急なことでした。葬儀やもろもろの手続きがようやく落ち着いて、昨日から、誰もいなくなった実家で母の遺品の整理をしていたのです」


 赤城の表情がほんの少しだけ和らいだものの、彼女の視線はすぐに自分の膝の上に乗せられた紫色の風呂敷包みに落ちた。結び目は彼女の心の強張りを表すかのように、きつく固く結ばれていた。


「母は、古い食器や陶器を集めるのが好きな人でした。遺品を整理している最中、母の寝室の、一番奥の鍵のかかった引き出しから、これが出てきたんです」


 赤城は震える手で風呂敷の結び目を解き、中から古びた桐の箱を取り出した。蓋を開けると、そこには、真綿に包まれたアンティークのティーカップが一つ、横たわっていた。


「これは、素晴らしいですね。十九世紀末、イギリスの古いボーンチャイナです。透き通るような美しい白磁に、手書きで繊細な勿忘草《わすれなぐさ》の青い花がぐるりと描かれている。でも」


 美波は言葉を途切れさせ、琥珀色の瞳を細めた。

 そのティーカップは、確かに一級品のアンティークであったが、無傷の状態ではなかったのだ。

 カップの外側には、バラバラに砕け散った破片同士を繋ぎ合わせるように、太く、いびつな金色の線が蜘蛛の巣状に盛り上がって走っていた。割れた陶磁器を漆《うるし》で接着し、金粉を蒔いて装飾する日本の伝統的な修復技法である金継ぎ《きんつぎ》だ。


 しかし、その金継ぎは決してプロの職人の手によるものではなかった。線は太さが不揃いで、不格好に波打っており、接着部分から金がはみ出してダマになってしまっている箇所もある。繊細な西洋の白磁に対してあまりにも無骨で、素人の手によるひどく歪な修復痕だった。


「ひどい状態でしょう」


 赤城は自嘲するように、悲痛な笑みを浮かべた。


「このカップ、私が割ったんです。十五年前、私がまだ十歳の子供だった時に」

「赤城さんが、ですか」

「はい」


 赤城はティーカップの歪な金色の線を指でなぞりながら、明確な痛みを伴う声で過去を話し始めた。


「私は、母とは血が繋がっていません。物心ついた時から児童養護施設で育ち、七歳の時に、身寄りのなかった私を、母が養女として引き取ってくれました。養父となるはずだった母の夫はすでに他界しており、母と私の、二人きりの生活でした」


 その告白に、美波は黙って頷き、耳を傾けた。


「母は、自宅で書道の先生をしていました。とても厳格で、物静かな人でした。愛情がなかったわけではないと思います。でもどこか不器用で、感情を言葉にするのが極端に苦手な人でした。私はいつも、母の顔色ばかりを窺っていました。いい子にしていなければ、また施設に捨てられてしまうかもしれない。そんな恐怖がいつも心の奥底にへばりついていたんです。だから、必死に本当の家族になろうと、いい子を演じて頑張っていました」


 赤城の瞳に、うっすらと涙の膜が張る。施設から引き取られた子供が抱える、見えない重圧。常に試されているという不安の中で、彼女は息を潜めるように生きてきたのだろう。


「事件が起きたのは、私が十歳になった春のことでした。母は、この勿忘草のカップを特別大切にしていて、居間のガラスの飾り棚の、一番良い場所に飾っていました。ある日、私は母を喜ばせたくて、一人で居間の掃除をしていて、ふざけてハタキを振り回した拍子に、バランスを崩して、その飾り棚に激突してしまったんです」


 十五年前の記憶が蘇っているのか、赤城の顔色からすっと血の気が引いていく。


「ものすごい音がしました。硬いものが落ちて、砕け散る恐ろしい音。私は、あまりの恐怖に目をきつく瞑って、その場にうずくまりました。捨てられる、嫌われる。その思いで頭がいっぱいになって、声も出ませんでした。やがて、奥の部屋から母が血相を変えて走ってくる足音が聞こえました」


 赤城の震える手が、膝の上で固く握りしめられる。


「私が恐る恐る目を開けた時、母は床に散乱したこのカップの破片の前にしゃがみ込んでいました。母は、信じられないほど悲しそうな、そして冷たい顔をして、私を怒鳴ることも、叩くこともありませんでした。ただ一言だけ、自分の部屋に戻っていなさいと。それ以来、母との間に、目に見えない分厚い氷の壁ができてしまったんです」


 赤城の掠れた声が、時洲堂の空気を震わせた。


「その出来事を境に、母は私に対して、どこかよそよそしくなりました。必要な会話はするし、高校も大学も行かせてくれました。でも、どこか腫れ物に触るような、決定的な距離を置かれるようになったんです。私は思いました。母の一番大切な宝物を壊してしまったからだと。血の繋がっていない粗忽な子供をもらってきたことを、母は心の底から後悔しているのだと」


 美波は相槌を打ちながら、赤城の心の奥深くにある空洞を見つめていた。


「私はそれから、逃げるように実家を離れ、進学や就職を機に、母とはほとんど連絡を取らなくなりました。たまに帰省しても、息が詰まるような沈黙ばかりで。母が病気で入院したと聞いた時も、どう接していいかわからず、見舞いにも数えるほどしか行きませんでした。そしてそのまま、母は亡くなってしまったんです」


 赤城は両手で顔を覆い、絞り出すように嗚咽を漏らした。

 十五年間、彼女はずっとその重い十字架を背負い続けて生きてきた。血が繋がっていないという事実。幼い頃の過ち。そして、修復不可能になってしまった母娘の絆。


「昨日、遺品を整理していて、母の寝室の鍵のかかった引き出しからこれを見つけた時、私は確信しました。母は、私が割ったこのカップを、わざわざ自分でこんな不格好な金継ぎをしてまで、手元に残していた。それは、私という偽物の娘が犯した罪を、決して忘れないためだったのだと。血の繋がらない娘のせいで、自分の大切なものがこんなにも醜く歪んでしまったという傷跡として、これを隠し持っていたのだと」


 悲痛な泣き声だけが響き渡る。赤城は、母親の不器用な金継ぎを、自分への呪いとして受け取ってしまったのだ。


「時洲さん。私があなたに依頼したいのは、一つだけです」


 赤城は涙を拭い、充血した目で美波を見つめた。


「この勿忘草のティーカップの本当の価値を、鑑定してほしいのです。これが、どれほど高価で、希少なアンティークだったのか。母が養女を一生憎み続けるほど、途方もない価値のあるモノだったのか。私は、自分の罪の重さを、正確に知らなければならないんです」


 それは、自らに罰を下すための悲痛な鑑定依頼だった。母の愛を信じられず、自分自身を呪縛し続けるための、絶望的な答え合わせ。


 美波は、すっかり冷めてしまった赤城の紅茶のカップを下げた。そしてカウンターの上に置かれた桐の箱の中の、歪な金継ぎのティーカップへと視線を落とす。


「あなたのお母様への想い、そして背負ってこられた十五年間の苦しみは、痛いほど伝わりました。でも、鑑定を始める前に、一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」


 美波は、大きな黒縁の丸眼鏡のブリッジを、細い人差し指で押し上げた。

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