第三話『結露』(前)
二月の終わり。凍てつくような大寒波はようやく峠を越えたものの、下町の路地裏にはまだ固く凍りついた雪が吹き溜まりとして残っており、日陰のコンクリートは足元から這い上がるような冷気を放っていた。
外の厳しさとは対照的に、古物商『時洲堂』の店内は、石油ストーブの小気味よい燃焼音と、やかんから立ち昇る白い湯気によって、優しくて密度の高い暖かな空気に包まれている。
(よし。これで完璧)
カウンターの奥のロッキングチェアに深く腰を下ろし、店主の時洲美波は、指先を黒く汚しながら満足げな吐息を漏らした。
彼女の手元にあるのは、一八〇〇年代後半にイギリスで作られたという、アンティークの純銀製ティーポットだった。持ち込まれた時は、長年の放置によって表面全体が真っ黒に変色してしまっていた。
しかし美波が専用のシルバーポリッシュを含ませた柔らかいクロスを用い、細かな彫刻の奥に沈んだ黒ずみはアンティークの立体感と歴史の重みを生む『景色』としてあえて残し、凸部の表面だけを丹念に磨き上げると、見事な純銀の陰影が浮かび上がったのだ。
美波はティーポットの滑らかな曲面を指の腹でそっとなぞった。鏡のように磨き上げられた純銀の表面には、嬉しそうに目を細める彼女の顔が歪んで映り込んでいる。
(古いモノが本来の姿を取り戻す瞬間は、とても落ち着くな)
美波が磨き布を置き、傍らに用意していた温かいほうじ茶の入ったマグカップに手を伸ばそうとした、その時だった。
来客を知らせる真鍮のベルが、普段の常連客が開ける時の遠慮がちな響きとは違う、迷いのない、硬質な音を立てて鳴った。
吹き込んできた冷たい風と共に時洲堂の敷居を跨いだのは、長身で体格の良い、三十代半ばほどの男だった。仕立ての良さが一目でわかる濃紺のスリーピース・スーツの上に、上質な黒のチェスターコートを羽織っている。端正な顔立ちを縁取る髪は一糸乱れず整えられ、その鋭く冷ややかな眼光は、まるで獲物を探す鷹のように店内を素早く見渡した。
「いらっしゃいませ。あら」
美波はティーポットを安全な場所へ移し、立ち上がって来客を出迎えようとして、その顔に見覚えがあることに気がついた。
「あの時の、警視庁の桐生さんですよね」
男の名は、桐生。警視庁捜査一課に所属する、エリートの警部補である。
数ヶ月前、クラシックホテル・東雲のチーフコンシェルジュから、十年間預けられたままのアンティークトランクの開錠依頼を受けた。美波がそのトランクに触れ、持ち主の特徴を確認したその時、現場に突如乗り込んできたのが彼だった。
初対面の際、桐生は古物商の娘である美波を見下し、鼻であしらっていた。しかし、美波が物理的な痕跡から年代物のチャブ・ディテクター・ロックを無傷で開け、さらにトランクの中身が十年前の空っぽな不在証明工作であることを鮮やかに暴いてみせたことで、彼の美波に対する態度は一変することとなったのだ。
「ああ。久しぶりだな、お嬢さん」
桐生は低く咳払いをした。鋭い眼光を保ち、あくまで警視庁の刑事としての威厳を崩さないように振る舞っているが、彼の視線はどこか落ち着きがなく、マフラーの奥で喉仏が忙しなく上下に動いている。
(なんだか、以前お会いした時よりも、少し様子がおかしいような)
美波が不思議そうに首を傾げた瞬間、桐生は躊躇いなくカウンターに歩み寄り、背筋を伸ばしたまま、チェスターコートの陰に隠し持っていた長細い紙袋を不格好に突き出した。
「これを。受け取れ」
「お花、ですか」
思いもよらない桐生の行動に、美波は目を丸くした。
紙袋から顔を覗かせていたのは、薄紅色のラナンキュラスとカスミソウが上品に束ねられた、明らかに値の張る美しい花束だった。血生臭い殺人事件の捜査を一任される刑事と、可憐な花束という組み合わせは、あまりにも場違いで不釣り合いだ。
「勘違いするな。これは、その、先日のトランクの件で、あんたの協力によって長年の未解決事件に終止符が打てたことへの、警視庁からの、あくまで事務的な慰労の品だ。俺個人の感情など一切入っていない」
桐生は早口で捲し立て、顔をかすかに赤らめながらそっぽを向いて花束をカウンターに置いた。
警察組織が民間人にそのような私的な慰労の花束を出すわけがないのは明白だったが、美波はそのあからさまな態度の裏側を深く詮索することはしなかった。
「そうだったのですね。わざわざありがとうございます。すごく綺麗なお花ですね、桐生さん」
美波は微塵も疑うことなく、顔を輝かせて花束を受け取った。その純粋な笑顔を直視できず、桐生は短く唸ってチェスターコートの襟をいじった。
「ですが、お花を届けるためだけに、わざわざ本庁の刑事さんが足を運ばれたわけではありませんよね」
美波が花束を丁寧に水差しに入れながら尋ねると、桐生はようやく表情を刑事の顔へと切り替えた。
「察しがいいな、時洲。実は、あんたのその物理的な痕跡から真実を読み解く眼を、もう一度借りたい事件が起きたんだ」
桐生はコートの懐に手を入れた。そこには、外部に持ち出すことなど本来絶対に許されない、殺人事件の極秘捜査資料が入ったタブレット端末が隠されている。
「都内で発生した、資産家の不審死事件だ。容疑者は被害者の甥ですでに浮上しているが、そいつには映像による崩し難いアリバイがある。捜査一課の総力を挙げても、その映像の矛盾が見抜けないんだ。俺の矜持にかけても、絶対に奴の嘘を暴き出さなければならない。だから、あんたにその映像を見てほしい」
桐生が周囲を警戒しながら、懐のタブレットを取り出そうとした、まさにその時だった。
引き戸が勢いよく開き、威勢のいい声と共に飛び込んできたのは、運送会社の制服を着た青年、冬馬だった。
「こんにちは。時洲さん、お荷物のお届けに上がりました」
彼は美波の顔を見て人懐っこい笑顔を浮かべた直後、カウンターの前に立ち塞がるようにしている黒コートの男の存在と、水差しに生けられた不自然に立派な花束に気づき、動きを止めた。
「お客さんですか」
冬馬の目が、桐生の仕立ての良いスーツと花束を交互に捉える。彼の表情が、一瞬で警戒心を帯びたものへと変わった。
(なんだこの隙のない男は。しかも花束。まさか、時洲さんに言い寄る新しい男か)
冬馬は恩師の万年筆の一件以来──いや、それよりも前から美波に対して明確な好意を抱いていた。普段は陽気で気のいい配達員だが、恋の競争相手の出現に対しては、あからさまに敵意を剥き出しにする。
冬馬はわざとらしく大きな足音を立ててカウンターに歩み寄り、桐生と美波の間に割り込むようにして段ボールの荷物を置いた。
「時洲さん、サインお願いします。それから、そこのあんた、見ない顔ですね。時洲堂に何の用ですか」
「なんだ、貴様は」
突然割り込んできた配達員に、桐生は不快そうに眉をひそめた。そして、懐のタブレットから静かに手を離す。いくら美波の力を借りたいとはいえ、桐生は現役の警察官である。未解決の殺人事件の極秘映像を、無関係な一般市民の目の前で広げるわけにはいかない。
「俺は時洲に個人的な相談があって来ている。配達が終わったなら、部外者は速やかに立ち去りたまえ」
「個人的な相談。相談なのに花束なんか持ってくるんですか。あんた、さては時洲さんを言葉巧みに騙そうとしている悪い奴だな。時洲さん、こんないけ好かない男の話なんか聞かなくていいですよ」
「いけ好かないだと。貴様、俺を誰だと思っている」
エリート刑事と熱血配達員が、カウンターの前で火花を散らす。美波が困惑したように声をかけようとした、その時、再び引き戸が開かれた。
「美波ちゃん。お夕飯の差し入れ、持ってきたわよ」
「おう、美波。寒さでまた木が反ってないか見に来てやったぞ」
大きなおでんの鍋を抱えた三枝洋子と、工具箱を持った幸一の老夫婦が、時洲堂へと入ってきた。狭い店内に、突如として五人もの人間がひしめき合う大渋滞が発生する。
「あら。今日はずいぶんと賑やかね。冬馬くんに、そちらの立派なコートの方は」
洋子が目を丸くする。幸一は、冬馬と睨み合っている桐生の姿を見るなり、職人特有の鋭い眼光を光らせた。美波にとって親代わりでもある幸一は、美波に近づく素性の知れない男には滅法厳しい。
「おい。そこの気取った男。美波に何の用だ」
「気取った男、だと」
桐生は、次から次へと現れる部外者たちの無遠慮な態度に限界を迎えようとしていた。彼が懐に忍ばせているのは、絶対に外部に漏らしてはならない警視庁の極秘資料である。民間人が集まってきて、おでんの鍋まで広げようとしているこの状況下で、アリバイ映像の解析などできるはずがない。
「いいか、俺は警察の人間だ。今は極めて込み入った案件で来ている。君たちのような一般市民が集まってきていい場所ではない。全員、速やかに店から」
「警察。警察が花束を持って口説きに来るなんて、税金の無駄遣いもいいところだぜ」
「冬馬の言う通りだ。美波、こんな怪しい男、俺が追い出してやろうか」
「まあまあ、お父さんも冬馬くんも落ち着いてちょうだい。せっかく熱々のおでんを持ってきたんだから、刑事さんも一緒にどう」
「だから、俺は重大な事件の話を」
声を荒らげる刑事に、噛み付く配達員。睨みを効かせる無口な頑固親父に、おでんの蓋を開ける朗らかな妻。
桐生はコートの内ポケットを押さえながら、全く話の通じない下町の人々の空気に呑み込まれ、顔を赤くして憤慨しているように見えた。
その混沌の中心で、美波は困ったように、けれどどこかとても嬉しそうに、ふわりと柔らかい笑い声をこぼした。
両親が遺した孤独だったこの店に、今はこんなにもたくさんの人が集まって、自分のために騒いでくれている。それが無性に温かかったのだ。
しかし、桐生が本当に切羽詰まった顔でコートの懐を押さえているのを見て、美波は事態を察した。
(なるほど。桐生さん、私にだけ見せたい警察の秘密の資料を持っているのですね。だから、みんなの前では出せないんだ)
美波は小さく頷くと、一度だけ柏手を打った。
「皆さん、ストップです」
美波が場をすっと落ち着かせるような澄み切った声で告げると、騒いでいた男たち三人が口をつぐんだ。
「冬馬くん。お荷物、ありがとうございます。この後もまだ夜の配達がたくさん残っているのではないですか。こんなところで油を売っていたら、荷物を待っているお客さんが困ってしまいますよ」
「え、あ、はい。そうですけど、でも、この男が」
「大丈夫ですよ。桐生さんは、お仕事の相談で来てくださっただけですから。冬馬くん、お仕事頑張ってくださいね。外はすごく冷えるから気をつけてください」
美波に微笑みかけられ応援されてしまった冬馬は、分かりやすく顔を赤くした。
「は、はい。俺、配達頑張ってきます。時洲さんも、戸締まりに気をつけてくださいね」
冬馬は桐生を一瞥した後、嵐のように時洲堂を飛び出していった。美波は次に、おでんの鍋を広げようとしている三枝夫婦に向き直った。
「洋子さん、幸一さん。美味しそうなおでん、本当にありがとうございます。でも、今日は少しだけ込み入ったお仕事のお話みたいなんです。せっかくの温かいおでんですから、お仕事が終わった後で、私が一人でゆっくりといただきますね。幸一さんも、戸の修理はまた明日にお願いできますか」
美波のその澱みない、どこか凛とした声の響き。それは彼女が真実を探る探偵の顔になっている時の声色だと、長年彼女を見守ってきた三枝夫婦にはすぐに分かった。
「そう。お仕事なら、仕方ないわね」
洋子は察しのいい笑顔を浮かべ、カウンターに置いたおでんの鍋をそっと奥に押しやった。
「みんなでつつこうと思ってたくさん作ってきてしまったけれど、お鍋ごと置いていくわね。お仕事が終わったら、ストーブで温め直して食べなさいな。一人じゃ多いだろうから、残った分はまた明日食べればいいし」
「ありがとうございます、洋子さん」
「お父さん、私たちは帰りましょう。美波ちゃん、お仕事の邪魔をしてごめんなさいね」
「美波、何かあったら大声を出せよ。すぐ飛んでくるからな」
幸一は桐生に最後にもう一度鋭い視線を投げかけ、洋子と共に店を出て行った。涼やかな音を残して引き戸が閉まり、時洲堂の店内に再び静寂が戻ってくる。
「騒がしくしてしまって、申し訳ありませんでした」
美波はストーブの火を少しだけ強くし、桐生に向かって小さく頭を下げた。
「いや、助かった。さすがに民間人があれだけいる前で、殺人事件の極秘映像を広げるわけにはいかなかったからな」
桐生はネクタイを少し緩め、長息を吐き出した。彼を厄介払いせずに残してくれた美波の気遣いに、内心で安堵している様子が伺えた。
「さあ、桐生さん。温かいお茶でも飲みながら、お話を伺いますね。あなたがどうしても崩せないという、そのアリバイについて」
美波は丸椅子を勧め、新しい湯呑みに熱いほうじ茶を注いで桐生の前に置いた。
かくして、警視庁の誇るエリート刑事と、路地裏の古物商による、秘密の捜査会議が開始されることとなったのである。




