第二話『記憶』(後)
再びタクシーを拾い、時洲堂へと戻ってきた頃には、時計の針は午後九時を回っていた。
街灯に照らされた路地裏は相変わらず激しい雪が舞い散り、全ての音を白い絨毯が吸い込んでいる。美波は看板のアンティークランプの明かりを頼りに引き戸を開け、「ただいま」と小さく呟きながら店内へと滑り込んだ。
火の気のない古い木造建築の店内は、すっかり外気と同じ温度まで冷え切っていた。美波はすぐにストーブに火を入れ、やかんを乗せる。ダッフルコートとマフラーを外し、ハンガーに掛けた。お湯が沸くのを待ってから銅製のアンティーク湯たんぽに注ぎ込み、厚手のウール布でぐるぐると包んで両手に抱え込みながら、ロッキングチェアに深く腰を下ろした。
(無事に見つかって、本当によかった)
湯たんぽのじんわりとした熱を感じながら、美波はカウンターの引き出しから使い込まれた古い革の手帳と、ミッドナイト・ブルーのインクが入ったお気に入りの万年筆を取り出した。ひざの上に手帳を広げ、真新しい真っ白なページを開く。
『チェストと壁の数センチの隙間。
生き物の痕跡は決して嘘をつかない。
隙間の入り口の壁紙に残された、毛の擦れと細かな爪痕は、
冷たい風と見知らぬ足音の恐怖から逃れ、
安全な闇の奥へ必死に潜り込もうとした、小さな命の防衛本能の証明だった。
焦燥に駆られた心は、一番身近にある死角を透明にしてしまう。
けれど、正しい痕跡のルーツを辿り、
一番安心できる日常の匂いを差し出せば、
強張った身体は嘘のように解け、見失っていた絆はもう一度繋がる。
大雪の夜の迷子は、温かい部屋の中へ帰っていった。』
万年筆のペン先が紙を擦る心地よい音が、ストーブの燃焼音と混ざり合う。美波はインクが乾くのをそっと息を吹きかけて待ち、革の手帳を閉じた。
今日もまた一つ、大切な迷子を元の場所へ帰すことができた。その確かな満足感が、冷えた身体を内側からじんわりと温めていく。
(さてと。今日はもう遅いし、そろそろ店を閉めようかな)
美波が小さく伸びをし、入り口のガラス戸の鍵を閉めるために立ち上がろうとした、まさにその時だった。
普段の来客時とは違う、ひどく遠慮がちなリズムで控えめなベルの音が響き、ガラス戸が開かれた。吹き込んできた冷たい夜気とともに、雪にまみれた黒い革靴が、時洲堂の三和土を重々しく踏みしめる。
「いらっしゃいませ。あの、申し訳ありません、本日の営業はもう」
美波が断りの言葉を口にしながら入り口へと視線を向けた瞬間、その言葉は途切れた。
そこに立っていたのは、くたびれたベージュのトレンチコートを着た、大柄な中年の男だった。無精髭を蓄え、深く被った中折れ帽のつばから滴る雪のしずくを鬱陶しそうに払い落としている。その鋭く、世の中のすべての裏側を見透かすような冷徹な眼光には、美波もはっきりと見覚えがあった。
「こんな大雪の夜に、まだ店を開けているとは驚いたよ。ずいぶんと働き者だね、君は」
「牧村、さん」
以前、『Lumiere』の店長である木島の依頼で、常連の柴田が遺した古いコーヒーミルのからくり箱の謎を解き明かした際、最後にふらりと現れた別の常連の男。あの時、彼は特殊なダイヤルロックの構造を壊さずに解体した美波の手際を見事だと評価し、そのまま去っていったのだ。近いうちに顔を出させてもらうかもしれない。彼が残したその言葉通り、大雪の夜に、男は唐突に時洲堂の敷居を跨いだのだった。
「こんばんは、時洲さん。少しばかり外が冷えるものでね。琥珀色のランプの明かりが見えた時、思わず引き寄せられてしまったよ。少し、雪宿りさせてもらっても構わないかな」
牧村はトレンチコートの肩に積もった雪を払いつつ、紳士的な、それでいてどこか得体の知れない微笑みを浮かべた。美波は警戒しつつも、相手が客として訪ねてきた以上、無碍に追い返すわけにもいかず、小さく頷いた。
「ええ、構いませんよ。ちょうど今さっき、依頼人の方の件が終わったところですから。どうぞ、ストーブの近くへ」
「ありがとう。助かるよ」
牧村は入り口のガラス戸をそっと閉め、大股な足取りで店内へと進み入った。
彼の視線は美波に向かう前に、所狭しと積み上げられたアンティークの品々、壁掛けの振り子時計、大正時代のガラス細工、錆びついた羅針盤や古いカメラへと向けられていた。その眼差しは、ただの冷やかしの客のそれではない。一つ一つのモノに刻まれた傷や経年劣化の度合いを、瞬時に読み解いているような鋭さがあった。
「素晴らしい空間だ。時間がここだけ、何十年も前に止まっている錯覚を覚える。君のような若い女性が店主をしているのが不思議なくらい、本物の過去の匂いがするよ」
牧村はストーブの炎を見下ろしながら、独り言のように呟いた。そして何かに誘われるように、この店の懐かしい空気に当てられ、かつての無作法な癖が無意識に出てしまったのだろう。トレンチコートの内ポケットに手を伸ばした。
取り出されたのは、ひどくくしゃくしゃになった煙草の箱と、使い込まれて細かい傷だらけになった銀色のオイルライターだった。牧村は箱から一本の煙草を抜き取ってくわえ、ライターの蓋を開けようとした。
「すみません、ここは禁煙ですよ」
美波の凛とした、しかしどこまでもフラットで澄み切った声が、店内に響いた。
蓋を開けようとした牧村の親指が、空中で硬直した。
彼はくわえかけた煙草を指に挟んだまま、目を見開き、息を呑んだ。その瞬間、牧村の顔に、過去の強烈な記憶がフラッシュバックしたかのような、明らかな動揺が走った。
今から十年前。全く同じこの場所で。全く同じ対流式石油ストーブの炎の横で。カウンターの奥で古い時計の部品を磨いていた、一人の温厚な男。彼が、煙草に火をつけようとした若き日の牧村に向かって放った言葉。
声のトーン。言葉の間の取り方。そして、相手を拒絶するわけではなく、ただこの場所のルールとして諭すような、そのひどく澄み切った響き。目の前にいる娘の放った一言が、かつての父親のそれと、寸分の狂いもなく重なり合ったのだろう。牧村は、自分の顔から理知的な余裕の仮面が剥がれ落ちそうになるのを必死に堪えているように見えた。
「いや、失礼した。僕としたことが、つい無作法を働いてしまったようだ」
牧村はオイルライターの蓋を閉じ、煙草と一緒にコートのポケットへとしまい込むと、自嘲するように深く笑い声を漏らした。
「いえ、吸わないでいただければ大丈夫です。そこにずっと貼ってある通り、古い紙や木材がたくさんあるので、匂いが染み付いてしまうとモノたちが可哀想ですから」
美波が指差した先。カウンターの奥の柱には、セピア色に変色した古い和紙に、美波の亡き父の几帳面な字で『禁煙』と書かれた張り紙が、十年前と変わらずに貼られていた。美波はただ、父の遺したそのルールを代弁したに過ぎなかった。
「全くその通りだ。血は争えないな。注意する声のトーンまで、あの頃と全く同じだ」
「え」
美波が急須にお湯を注ごうとしていた手を止め、不思議そうに首を傾げる。
「あの頃って。牧村さん、以前にもうちの店に来たことがあるのですか」
美波の問いかけに、牧村は一瞬だけ口をつぐみ、やがてはぐらかすように肩をすくめた。
「古い昔話さ。それより、何か温かいものを一杯いただけるかな。外の寒さで、身体の芯まで冷え固まってしまってね」
「あ、はい。ほうじ茶でよければ、すぐに」
美波はそれ以上深く追及することはせず、新しい湯呑みに熱いほうじ茶を注ぎ、丸椅子に腰掛けた牧村の前のカウンターに置いた。香ばしい茶葉の香りが立ち昇り、二人の間の張り詰めた空気を和らげる。
「それで、牧村さん。今日は何か、探してほしい迷子があって来店されたのですか」
美波がロッキングチェアに座り直して尋ねると、牧村はほうじ茶を一口すすり、首を横に振った。
「いや。今日は依頼があって来たわけじゃない。ただ、近くまで来たついでに、君がどんな場所で、どんな風にモノと向き合っているのか。この目で見ておきたかっただけなんだ」
「私のことを、ですか」
「そうだ。君のその物理的な痕跡から真実を読み解く力は、僕のような人間の目から見ても、極めて特異で、そして恐ろしいほどに正確だ。だからこそ、君という人間に興味が湧いてね」
牧村は湯呑みを両手で包み込みながら、自虐的な笑みを浮かべた。
「僕はね、時洲さん。今は週刊誌のフリージャーナリストなんて、立派な肩書きを名乗っている。だが、やっていることと言えば、他人のくだらない不倫や、政治家の隠し金、企業の不正。そんな、人間がひた隠しにしたい泥まみれで冴えないゴシップの尻尾を追いかけて、日銭を稼ぐ毎日さ。君がやっているような、誰かの心に寄り添うような美しい謎解きとは、対極にある生き方だよ」
自らを卑下するように語る牧村。しかし、美波の琥珀色の瞳は、彼の言葉の裏側にある本質的な矛盾を観察していた。
美波はロッキングチェアに揺られながら、牧村の姿を細部まで視線でなぞっていく。
確かに、着ているトレンチコートは安物で、袖口は擦り切れている。しかし彼が湯呑みを握っている両手。指の関節は太く、ペンを握り続けたペンダコだけでなく、格闘技や何らかの激しい訓練を長年積んできた人間に特有の、分厚い皮膚の硬化が見られる。
そして、丸椅子に座る彼の姿勢。一見するとくつろいでいるように見えるが、その重心は常に足のつま先側に置かれており、いざという時にいつでも立ち上がって動き出せるよう、筋肉が緊張を保ち続けている。
それはただの週刊誌の記者が持つ生態ではない。もっと過酷で、もっと暴力的な修羅場をくぐり抜けてきた、狩猟犬のような研ぎ澄まされた肉体の痕跡だった。
「僕の嘘は、君のその目には通じないようだな」
美波の観察の視線に気づいたのか、牧村は湯呑みを置き、苦笑するように息を吐き出した。
「さすがだね。実は、フリージャーナリストというのは表向きの顔でね。僕は数年前まで、警察組織に身を置く刑事だった」
「刑事さん、ですか」
「ああ。毎日、嘘と暴力と血の匂いばかりを嗅いで生きる、ひどく荒んだ仕事だったよ。ある理由があって警察は辞めたんだが、今でもこうして、しがないジャーナリストのフリをしながら、ずっと追い続けているものがあるんだ」
牧村の理知的な声のトーンが、地を這うような重く冷たいものへと変わった。ストーブの炎が爆ぜる音が、店内に響く。
「君は、モノの痕跡から優しい真実を見つけ出す天才だ。だが僕は、刑事だった頃にどうしても捕まえることができなかった、ある事件の犯人、いわば過去の亡霊の足跡を、今も個人的に追い続けているんだよ。週刊誌のゴシップを追うのは、その亡霊に繋がる情報を集めるための、ただの隠れ蓑に過ぎない」
牧村の目がストーブの青く澄んだ炎を通り越し、遥か遠い過去の闇を見つめるように細められた。彼が追い続けているという、過去の事件の犯人。警察を辞めてまで、人生のすべてを懸けてその足跡を辿り続ける執念。
「どうして、そんな大切な秘密を、今日初めて会ったも同然の私に話すのですか」
美波は身構えながら、真っ直ぐに牧村へと問いかけた。依頼人でもない。偶然知り合っただけの古物商の店主に対して、自分の本当の正体と目的を明かす理由が、美波には全くわからなかった。
牧村は美波の問いにすぐには答えず、ストーブの青く澄んだ炎を見つめたまま、ほうじ茶を飲み干した。そして、空になった湯呑みをカウンターに置き、ふっと自嘲するような笑みをこぼす。
「さあね。ただ、君がモノの痕跡から迷子を見つけ出すように、僕もまた、過去の亡霊が残した足跡を辿り続けている。アプローチの仕方は対極だが、同じように過去の痕跡を掘り起こす同業者として、君には少しばかり親近感を覚えたのかもしれないな」
牧村は丸椅子から立ち上がり、トレンチコートの襟を正した。
「あるいは、この店のひどく懐かしい空気と、君の淹れてくれた温かいお茶が、しがない中年男の口を無駄に軽くしてしまっただけかもしれない」
はぐらかすような、けれどどこか真に迫った響きを持つその言葉に、美波はそれ以上深く追及することはできなかった。牧村という男が背負っている未解決事件がどれほど重く、暗いものなのか。それは美波にはわからない。しかし、彼がその事件を追う執念だけは、研ぎ澄まされた刃のように確かに彼の内側に宿っていることだけは伝わってきた。
「ごちそうさま。すっかり温まったよ、時洲さん」
牧村はカウンターの上にほうじ茶の代金代わりだろうか、千円札を一枚置いた。
「あっ、牧村さん。お代は結構ですから」
「いや、受け取ってくれ。美味しいお茶と、温かい雪宿りのお礼だ。それに、君のその見事な探偵の腕前には、いずれ僕の方から正式に探し物の依頼をさせてもらう日が来るかもしれないからね。その時のための前金だと思ってくれればいい」
牧村は中折れ帽を被り直し、理知的な笑みを浮かべた。そして、美波が止める間もなくガラス戸を開け、再び大雪が降りしきる夜の闇の中へと、大きな背中を向けて歩き出した。
「気をつけて帰ってくださいね」
美波がその背中に向かって声をかけると、牧村は振り返らずに、右手を軽く上げて応えた。
涼やかな音を残してガラス戸が閉まり、時洲堂の店内には再び、石油ストーブの燃焼音だけが残された。
(不思議な人だなあ)
美波はカウンターの上に残された千円札と、空になった湯呑みを見つめながら、小さく呟いた。牧村が座っていた丸椅子の周辺には、彼が着ていた古いトレンチコートに染み付いた、紫煙の残り香だけが漂い、そしてストーブの熱気に溶けて消えていった。
『すみません、ここは禁煙ですよ』
先ほど、無意識のうちに自分の口から出たその言葉。壁の張り紙を代弁しただけだというのに、牧村はひどく驚いたような顔をして動きを止めていた。まるで、その言葉に深い意味があるかのように。
(気のせい、だよね)
美波は首を横に振り、自分を納得させるように笑った。湯呑みと急須をシンクへ運び、丁寧に洗い流す。
遠野が涙を流してきなこを抱きしめた温かい時間と、牧村が語った未解決事件の重たい影。まるで正反対の二つの出来事が交差した、ひどく長く、不思議な夜だった。
美波は店内のアンティークランプの明かりを一つずつ消していき、最後にストーブの火を落とした。完全な静寂と暗闇に包まれた時洲堂の中で、美波はガラス戸の向こうで白く降り続く雪をぼんやりと見つめた。
(刑事だった頃にどうしても捕まえられなかった、過去の亡霊、か)
牧村の残した言葉が、美波の胸の奥で小さな波紋のように広がり続けている。
時計の針が、夜の十時半を回る。
琥珀色の光を落としていた入り口のランプが消え、路地裏の古物商『時洲堂』は、深い雪と夜の静寂の中へと沈んでいった。




