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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と沈黙の迷子―』  作者: 長月有希


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第二話『記憶』(中)

 降雪の続く中、美波と遠野はタクシーに乗り込み、駅前にあるという彼のマンションへと向かった。

 車内は暖房が効いていたが、遠野の身体の震えは一向に治まらなかった。彼は窓の外の白い闇を血走った目で見つめながら、両手を固く組み合わせ、祈るように何度も生きていてくれと呟き続けている。妹から預かった大切な命を失ってしまったかもしれないという絶望感が、青年の心と体を芯から冷やしていた。


 五分ほどで、駅前の真新しい高層マンションに到着した。

 遠野が震える手でオートロックを解錠し、二人はエレベーターで八階へと昇る。近代的な建物の内部は、外の寒さが嘘のように静まり返り、空調によって春のように暖かな空気が保たれていた。


「ここです」


 遠野が玄関のドアを開ける。踏み入れた瞬間に美波の目に飛び込んできたのは、ひどく荒れ果てた痛々しい部屋の惨状だった。


 間取りは単身者向けの一般的な1LDK。玄関から真っ直ぐに短い廊下が伸び、その先にあるリビングへの扉が開け放たれている。しかしそのリビングの中は、まるで泥棒にでも荒らされたかのように無秩序だった。ソファのクッションは床に投げ出され、ラグマットはめくれ上がり、テレビボードの裏からベッドルームのクローゼットに至るまで、すべての収納の扉が全開になっている。


「午後二時にきなこがいなくなってから、外を探しに行く前に、この部屋の中を、それこそひっくり返す勢いで探したんです。ベッドの下も、洗濯機の中も、冷蔵庫の裏も、全部。でも、どこにもいなかった」


 遠野は玄関の三和土に立ち尽くし、荒れた部屋を見つめながら力なく首を振った。


「きなこは茶トラで、結構身体が大きいんです。それに、いつも俺が帰ってくると、すぐに玄関まで足元にすり寄ってくるような甘えん坊で。だから、もし部屋の中にいるなら、俺がこんなに名前を呼んで探し回っているのに、出てこないはずがないんです」

「なるほど。遠野さん、宅配便を受け取った時の状況を、もう一度詳しく教えてもらえますか」


 美波はダッフルコートの雪を軽く払い、マフラーを外しながら問いかけた。


「はい。チャイムが鳴って、俺はリビングのソファから立ち上がりました。きなこは、その時、ストーブの前のラグマットの上で丸くなって寝ていたと思います。俺は廊下に出て、この玄関のドアを開けました」


 遠野は実際にドアノブに手を掛けながら、当時の動作を再現していく。


「配達員の人が立っていて、俺はドアを半分ほど開けた状態で、荷物を受け取るためにサインをしました。ハンコを持っていなかったので、ボールペンでフルネームを書いて、時間にすれば、十秒か二十秒くらいの間です。その間、俺の視線はずっと手元の伝票に向いていて、足元のことなんて全く気にしていなかった」


 遠野の顔が、激しい後悔に歪む。


「サインを終えて荷物を受け取り、ドアを閉めてリビングに戻ったら、ストーブの前にいたはずのきなこが消えていたんです。俺が足元を見ていないほんの十数秒の間に、この開いたドアの隙間から、外の廊下へすり抜けていったとしか」

「わかりました。ありがとうございます」


 美波は小さく頷くと、そのまま玄関の三和土の前にしゃがみ込んだ。


 そして、ポシェットの中から愛用の銀のルーペを取り出し、玄関の上がり框(かまち)から、リビングへと続くフローリングの床板へと、ミリ単位の視線を這わせ始めた。琥珀色の瞳が、極限の集中力で細かな傷や埃の形を捉えていく。


「あの、時洲さん。そんな床に、何かあるんですか」


 遠野が不思議そうに覗き込むが、美波は人差し指を唇に当てて、彼を制した。


「遠野さん。人間の記憶や思い込みは、焦燥に駆られると簡単に事実を捻じ曲げてしまうんです。でも、物理的な痕跡は絶対に嘘をつきません。きなこちゃんが外に逃げたのか、それとも部屋の中にいるのか。答えは、この玄関が全部教えてくれますよ」


 美波はルーペを右目に当て、床板の表面を舐めるように観察していく。

 その脳内で、当時の玄関の状況が物理的なシミュレーションとして鮮明に再構築されていく。

 気密性の高いマンションの暖かい部屋で、玄関のドアが突然開かれた瞬間。外の冷たく重たい空気が、足元を這うようにして猛烈な勢いで部屋の中へと流れ込んでくる。


 美波はルーペを下ろし、確信を持って遠野を振り返った。


「遠野さん。きなこちゃんが外へ飛び出していないという決定的な証拠が、二つあります」


 美波は顔を上げ、ルーペを持った手で玄関のドアを指差した。


「一つ目は、配達員の方の視線です。遠野さんは手元を見ていたかもしれませんが、ドアの向こうには前を向いている配達員の方が立っていたはずです。もし大きな茶トラの猫が足元から飛び出してきたら、配達員の方が絶対に気づいて声を上げるはずですよ」

「あ」


 遠野は短く息を呑んだ。


「二つ目は、この三和土の状況です。今日のような大雪の日にドアを開ければ、上がり框のあたりには必ず雪が吹き込んで濡れていたはずです。もしきなこちゃんが外へ逃げたなら、玄関の濡れた部分を踏み、必ず濡れた肉球の足跡が残ります。でも、ここにはそれが一切ない」


 美波の澱みない論理的な言葉が、遠野の思い込みに決定的な揺さぶりをかけていく。


「では、どこへ消えたのか。ここを見てください。上がり框から三十センチほどリビング側に入ったところです」


 美波は床を指差し、遠野を手招きした。遠野が慌ててしゃがみ込み、美波が指差しているフローリングの床板の表面に顔を近づける。


「フローリングのワックスの表面に、かすかに白く細い平行線のようなスクラッチ傷がいくつもついているでしょう」

「本当だ。でも、これくらいなら、普段きなこが遊んでいる時についた傷では」

「いいえ、これは普段の傷ではありません。ルーペで見ると、えぐり取るような深い傷ではなく、ワックスの表面層だけを薄く引っ掻いた浅い傷であることがわかります」


 美波は銀のルーペを遠野に手渡し、スクラッチ傷を覗き込ませた。


「猫の肉球は、木や土の上では滑り止めになりますが、フローリングのようにツルツルに磨かれた床では全くグリップが効きません。外を知らない臆病な猫にとって、ドアが開いて冷たい風と知らない人の声が飛び込んできた瞬間は恐怖そのものです。パニックになって急発進し、猛ダッシュしようとした時、猫は本能的に鞘から爪を出して必死に床をグリップしようとします。その時に爪の先端がワックスの表面だけを空回りして引っ掻き、こういう細かい平行の傷が残るんです」


 美波は、スクラッチ傷の擦れている方向を指でそっとなぞった。


「重要なのは、この爪痕がどの方向に向かって力を込めたか、ということです。傷の方向は、玄関のドア側から、部屋の奥へ向かって伸びています。つまり、きなこちゃんは玄関から一番安全な部屋の奥に向かって、脱兎のごとく逃げ出した。その時の急発進の爪痕が、これです」


 遠野の目が、驚きに大きく見開かれた。

 美波は立ち上がり、ダッフルコートのポケットに両手を入れながら、確信に満ちた声で告げた。


「物理的な痕跡は絶対に嘘をつきません。遠野さん、きなこちゃんは一歩も外には出ていませんよ。今も間違いなく、この部屋のどこかに隠れています」


 その言葉を聞いた瞬間、遠野の目から、今度は絶望ではなく、安堵と希望の涙が零れ落ちた。雪の中で凍えているかもしれないという最悪の想像が、美波の鋭い観察によって打ち砕かれたのだ。


「部屋の中に。よかった、本当によかった。でも、時洲さん。俺、本当に部屋中をひっくり返して探したんです。あの子が隠れられそうな隙間なんて、もうどこにも」

「遠野さんが人間の目線で探したから、見つからなかっただけですよ」


 美波は安堵してへたり込む遠野を優しく促し、荒れ果てたリビングへと歩みを進めた。


「極限の恐怖を感じた猫は、飼い主の声だろうと、大好きなおやつだろうと、絶対に自分からは出てきません。自分の気配を殺して、人間が絶対にいるはずがないと思い込んでいるような、暗くて狭いデッドスペースの奥底に潜り込んでしまうんです。同化するようにですね」


 美波の琥珀色の瞳が、リビングの惨状を見渡す。倒されたクッション、開け放たれたクローゼット、めくれ上がったラグマット。遠野が必死に探し回った痕跡が無数に残されているが、美波はそれらの目立つ場所には一切目もくれなかった。


「さあ、きなこちゃんが逃げた足跡を辿りましょうか。答えはすぐそこにありますよ」


 外の雪風を遮断した暖かな密室の中で、美波の優しい失せ物探しが、いよいよ核心へと近づいていく。


 美波はダッフルコートの裾を少しだけ持ち上げると、躊躇(ちゅうちょ)することなくフローリングの床に両手と両膝をつき、四つん這いの姿勢になった。


「時洲さん、コートが汚れてしまいますよ」

「平気ですよ。猫の迷子を探す時の基本はですね、人間の高い視点を捨てることです。床からわずか二十センチ、きなこちゃんと同じ低い目線にならないと、見えてこない痕跡がたくさんありますから」


 美波は床に頬がつくほど顔を近づけながら、玄関からリビングへと続く廊下を這い進み始めた。その奇妙な姿に遠野は戸惑いながらも、慌てて自分も床に膝をつき、美波の背中を追う。


「先ほどの上がり框のスクラッチ傷から推測すると、きなこちゃんは極度のパニック状態で、部屋の奥へ向かって猛ダッシュしたはずです。あっ、ほら。ここにも証拠が残っていますよ」


 美波が立ち止まり、リビングの入り口付近の床を銀のルーペで指し示した。

 そこには、遠野がひっくり返してしまったラグマットの本来の位置を示すように、薄っすらと床のワックスに埃の境界線が残っていた。そして、その境界線の一部が、何かに激しくスリップして蹴り飛ばされたようにVの字に乱れ、微細な茶色い毛が落ちていた。


「パニックになったきなこちゃんは、ここでラグマットの縁で後ろ足を滑らせて、さらに奥の部屋へと方向転換したのですね。この毛の飛び方と埃の乱れ具合からすると、向かった先は、あちらです」


 美波が視線を向けた先。そこは、リビングの隣にある、遠野のベッドルームだった。


「寝室。でも、ベッドの下も全部見ましたよ。衣装ケースも引き出して、クローゼットの中も、服を全部かき分けて探したんです。俺が探していない場所なんて、本当にないんです」


 遠野がすがるように訴える。自分の手で探し尽くしたという絶対の確信が、彼を再び絶望の淵へと引き戻そうとしていた。しかし、美波は床を這ったまま首を横に振った。


「遠野さんが必死に探したことは、部屋の様子を見ればよくわかります。でもですね、人間の探したという思い込みが、一番の盲点になるんです。案内してください」


 二人は立ち上がり、惨状を呈しているベッドルームへと足を踏み入れた。

 そこもリビングと同様、ひどく荒れ果てていた。マットレスはずらされ、クローゼットの中の衣類は床に散乱し、あらゆる収納スペースが開け放たれている。美波は部屋の中央に立ち、再びルーペを取り出して、部屋の隅々へと視線を這わせた。


 美波の琥珀色の瞳が、部屋の奥、窓際に置かれたある家具にピタリと止まった。

 それは、重厚なオーク材で作られた、四段引き出しの木製チェストだった。アンティーク風のしっかりとした作りで、遠野の衣服が収納されているのだろう、一段目から四段目まですべての引き出しが半分ほど開け放たれたままになっている。


「遠野さん。あの木製のチェスト、引き出しが全部開いていますけれど、ご自分で開けたのですか」

「はい。きなこが引き出しの中に潜り込んでいるんじゃないかと思って、一段ずつ全部開けて中を確認しました。でも、どの段にも服が入っているだけで、猫の姿なんてありませんでした。チェストの裏側も、壁との隙間がないか確認したんですけど、ぴったりくっついていて入り込む余地はなかったです」


 遠野は疲れ切った声で答えた。確かに人間の目で見れば、そのチェストに猫が隠れられるような場所はもうどこにもないように思える。しかし、美波はチェストの前に歩み寄り、そのまま床に座り込んだ。


「遠野さん。このチェストの一番下の引き出しを開けた時、中にきなこちゃんはいなかったのですよね」

「ええ、いませんでした。服が詰まっていただけです」

「では、引き出しの中ではなく、引き出しの『下』は確認しましたか」

「引き出しの、下、ですか」


 遠野が怪訝な顔で首を傾げる。

 美波はルーペを持った手を、チェストの一番下の引き出しと、床との間にあるわずかな隙間へと向けた。家具の構造上、一番下の引き出しが床に直接こすれないよう、底面には数センチほどの台座が設けられている。その台座と床の間に、高さ五センチほどの細長い暗がりが存在していた。


「この隙間を、ルーペでよく見てみてください」


 美波に促され、遠野は床に這いつくばるようにして、その五センチの隙間を覗き込んだ。

 そして、息を呑んだ。

 隙間の入り口にあたる壁紙の表面。そこに、フローリングの床で見たのと同じ、細かい爪の痕がいくつも刻み込まれていたのだ。さらにその周辺には、静電気で引き寄せられた茶トラの柔らかい産毛が絡みついている。


「これ。きなこの毛」

「物理的な痕跡は、決して嘘をつきませんよ」


 美波は事実を告げた。


「猫の身体はですね、人間の想像を絶するほど柔らかいんです。人間と違って鎖骨が固定されていないから、自分の頭の骨さえ通る隙間があれば、どんなに狭い場所でも液体のように通り抜けることができるんですよ」


 美波は指先で、五センチの隙間からチェストの奥深くに広がる空間をなぞった。


「玄関でパニックになったきなこちゃんは、寝室に逃げ込み、一番暗くて、一番人間が手を出せなさそうなこのチェストの真下に潜り込んだんです。そして、チェストに底板がない構造を利用して、引き出しの裏側に広がるデッドスペースへと下からよじ登ったんですよ」

「引き出しの裏側の、デッドスペース」

「ええ。きなこちゃんは今、一番下の引き出しの奥、各段の引き出しの箱と家具の背板との間にできた細長い縦穴の空洞にへばりつくようにして、息を潜めているはずですよ」


 遠野の顔に、衝撃が走った。


「でも、俺、さっきこの一番下の引き出しを開けたんですよ。なのに、鳴き声一つしなかったし、姿も見えなかった」

「極限の恐怖状態にある猫は、絶対に鳴かないんです。敵に自分の居場所を教えるような真似はしませんからね。それに、遠野さんは引き出しを開けて、引き出しの箱の中だけを見て、すぐに閉めてしまったのではないですか。きなこちゃんは箱の中ではなく、箱のさらに奥の縦穴に張り付いていたから、上から見下ろす人間の視界には入らなかったんですよ」


 人間の必死な思い込みと、猫の生存本能が生み出した、密室の死角。遠野が部屋の中には絶対にいないと絶望した理由は、彼自身が探し尽くしたという強い自負が、一番身近な死角を透明にしてしまっていたからだった。


「では、きなこちゃんを迎えに行きましょうか」


 美波は優しく微笑むと、チェストの一番下の引き出しの取っ手に、両手をしっかりと掛けた。金属製のスライドレールが軋む音を立てないよう、ミリ単位の慎重さで手前へ引いていく。


 引き出しの箱が完全に枠から外れ、美波がそれを床に置いた瞬間。チェストの本体と背板との間に隠されていた、幅八十センチ、奥行き十センチほどの細長い暗闇の縦穴が、ついにその口を開けた。


 外からのわずかな光が、そのデッドスペースの奥底へと差し込む。

 途端に、暗がりの中で二つのビー玉のような円体が、光を反射して黄金色に輝いた。


「あ」


 遠野の口から、呼吸を忘れたような掠れた声が漏れた。


 チェストの裏の空間、埃にまみれた一番奥の角にへばりつくようにして。茶色と白の縞模様を持った一匹の猫が、身体を限界まで小さく丸め、激しく震えていた。黄金色の瞳の奥にある瞳孔は、極度の恐怖によって真っ黒な満月のように開ききっている。


「きなこ。きなこ」


 遠野は堰を切ったように叫び、涙で顔を濡らしながら、空洞の中へ思い切り両手を突っ込もうとした。


「待ってください。無理に手を伸ばしてはいけません」


 美波は咄嗟に遠野の肩を掴み、その動きを強い力で制止した。


「時洲さん。でも、きなこが、あんなに震えて。早く抱きしめて安心させてやらないと」

「お気持ちは痛いほどわかります。でも、遠野さん。まずはその雪でびしょ濡れのダウンジャケットを脱いでください。猫は匂いと温度にすごく敏感なので、冷たい水滴が滴って、外の濡れた雪のアスファルトの匂いがする服のまま近づいたら、余計に怖がってしまいますからね」


 美波の指摘に、遠野はハッとして自分の姿を見下ろした。雪の中を歩き回ったジャケットは、溶けかけた雪の水分をたっぷりと吸い込み、冷気とアスファルトの嫌な匂いを放っている。パニックになっている猫にとって、冷水と見知らぬ匂いは恐怖の対象でしかない。


 遠野は急いでずぶ濡れのジャケットを脱ぎ捨て、部屋の隅へ追いやった。


「恐怖の痕跡は、心だけじゃなく身体全体を支配しているんですよ。まずは、きなこちゃんのパニックを解いてあげないといけません」


 美波はダッフルコートのポケットから自分の手を出し、遠野の震える両手をそっと包み込んだ。五時間もの間、雪風の中を彷徨い歩いていた遠野の手は真っ赤にかじかみ、氷のように冷たくなっていた。


「遠野さん。まずは深呼吸をして、ご自身の焦りと震えを止めてください。そして、この冷え切った手を、ご自分の首元や息でしっかりと温めるんです」


 美波の論理的なアドバイスに従い、遠野は何度も深呼吸を繰り返した。そして、真っ赤な両手を自分の首筋に当て、温かい息を吹きかけて、必死に体温と自分自身の日常の匂いを取り戻そうとする。


「温まりました。次は、どうすればいいですか」

「姿勢を限界まで低くしてください。きなこちゃんを見下ろすのではなく、床に這いつくばって同じ目線になるんです。そして、手を開いたまま、きなこちゃんの鼻先の数センチ手前で止めて、名前を優しく呼んであげてください。きなこちゃんが自分から鼻を近づけて、遠野さんの匂いを確認するまで、絶対に動いてはいけませんよ」


 遠野は美波の言葉に頷き、フローリングの床にうつ伏せになるようにして身体を沈めた。そして、チェストの下の暗がりで震える小さな命に向かって、温めた右手を、まるで壊れ物を扱うかのような慎重さで差し出した。


「きなこ。怖かったな。ごめんな、俺がドアを開けっぱなしにしたから。もう大丈夫だ。もう、冷たい風も来ないし、怖い人もいないよ」


 遠野の掠れた、震える声が寝室に響く。差し出された手のひらが、きなこの鼻先わずか数センチのところで静止する。


 十秒、二十秒。


 張り詰めた沈黙が流れる。きなこは全身の毛を逆立てて威嚇《いかく》の息を吐いていたが、目の前にある手のひらから漂う嗅ぎ慣れた匂いに、耳を動かした。それは、毎日ご飯をくれ、頭を撫でてくれ、そして大好きな飼い主の匂いを纏っている、安心できる日常の匂いだった。


 本当に少しずつ。きなこは警戒するように首を伸ばし、遠野の指先に湿った小さな鼻を押し当てた。何度か匂いを確かめるように鼻を動かす。

 その瞬間、極限まで見開かれていた真っ黒な瞳孔が細くなり、逆立っていた全身の毛が、嘘のように柔らかく元に戻っていった。


 ひどく掠れた、心細そうな小さな鳴き声。きなこは自ら遠野の手のひらに頭を擦り付け、心地よさそうに喉を鳴らし始めた。物理的な恐怖の呪縛が、大好きな人間の匂いと体温によって解き放たれたのだ。


「きなこ」


 遠野は空洞の中からきなこを引き寄せると、自分の胸に強く、けれど潰してしまわないように優しく抱きしめた。茶トラの柔らかな毛並みに顔を埋め、青年の大きな肩が激しく震える。五時間の絶望と、小さな命を失いかけた激しい罪悪感が、とめどなく流れる涙となって浄化されていく。きなこもまた、遠野の温かい胸の中で丸くなり、安心しきったように目を閉じていた。


 美波は床に座り込んだまま、その奇跡のように温かい光景を、琥珀色の瞳で見守っていた。外の荒れ狂う雪風の音は、もうこの部屋には届かない。どんなに深く隠れた迷子でも、残された物理的な痕跡のルーツを正しく辿れば、必ずこうして帰るべき場所へと戻すことができるのだ。


「時洲さん」


 遠野が、きなこを抱きしめたまま振り返り、床に額をこすりつけるようにして深く頭を下げた。


「本当に、本当にありがとうございます。時洲さんがいなかったら、俺、ずっと外の雪の中を探し回って、この部屋の奥に隠れているきなこに、一生気づけなかったかもしれない。妹の大切な命を、俺の人生を救ってくれて、なんとお礼を言えばいいか」

「お礼などいりませんよ。私はただ、きなこちゃんが残した足跡を通訳しただけですから」


 美波はふわりと、冬の陽だまりのような微笑みを浮かべた。


「きなこちゃんを見つけたのは、遠野さんがきなこちゃんを絶対に諦めなかったからですよ。早く、妹さんに無事だと教えてあげてくださいね。きっとすごく心配しているはずですから」

「はい。すぐにテレビ電話を繋ぎます。きなこの顔を見せて、安心させます」


 遠野は涙で顔を濡らしたまま、何度も何度も美波に感謝の言葉を繰り返した。


 美波はダッフルコートの膝の埃を軽く払い、立ち上がる。すっかり部屋の空気が温かさを取り戻したのを確認すると、美波はそれでは失礼しますと小さく手を振り、二人の温かい時間の邪魔をしないよう、マンションの部屋を後にした。

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