第二話『記憶』(前)
二月。一年のうちで最も寒さが底を打つこの時期、数年ぶりに見舞われた大雪は街を白く染め上げ、交通機関を麻痺させていた。大通りから一本外れた下町の路地裏では、除雪の行き届かない細い道に湿った重い雪がシャーベット状に積もり、歩く人々の足音さえも重く吸い込んでいく。
冷たい雪風が吹きすさぶ中、古物商『時洲堂』の入り口にある飴色に変色したガラス戸が、風に煽られて小刻みに震える音を立てていた。
店内には、古い木材と埃、そしてほのかな機械油の匂いが漂っている。カウンターの奥では、店主の時洲美波が厚手のオフホワイトのタートルネックセーターを着込み、その上から丈夫な帆布の作業用エプロンを身につけて、手元の真鍮製の古いオルゴールと真剣な顔で睨み合っていた。
「ん、よし。これで大丈夫」
美波はかじかむ指先に白い吐息を吹きかけて温めた。先ほどから、ゼンマイの巻き上げ機構に生じていた僅かな歪みを、ピンセットと専用のオイルを使って丁寧に調整していたのだ。試しに小さなツマミを回すと、水晶のように澄んだ美しい音色が、芯まで冷えた店内の空気を柔らかく震わせながら響き渡った。
「やっぱり、古いモノの音は落ち着くなあ」
美波が満足げな長息を吐き出し、傍らに置いていた温かいほうじ茶の入ったマグカップに手を伸ばそうとした、その時だった。
真鍮のベルが悲鳴を上げ、引き戸が乱暴な勢いで開け放たれた。
同時に、湿った雪の匂いと冷気が店内に雪崩れ込んでくる。美波が驚いて立ち上がると、そこには一人の若い青年が、入り口の三和土に倒れ込むようにして膝をついていた。
「はあ、はあ」
年齢は二十代前半ほどだろうか。安物のダウンジャケットを着ているが、東京特有の湿った雪をたっぷりと吸い込んで重たく濡れそぼり、足元からは冷たい水滴が滴り落ちていた。ジーンズの裾も泥雪で汚れ、手袋もせずに握りしめられた両手は、悴んで真っ赤に腫れ上がっている。
何より、青年の顔色は死人のように青ざめ、落ち窪んだ目には極限の焦燥と絶望が渦巻いている。
「大丈夫ですか。酷く濡れていますね」
美波は慌ててカウンターを飛び出し、青年の氷のように冷たい腕を引いて、丸椅子へと座らせた。急に熱いものを触らせるのは危険だと判断し、まずは乾いた清潔なタオルで彼の手の雪と水滴を優しく拭き取ってやる。それから、少しぬるめにしたほうじ茶を湯呑みに注ぎ、震える彼の手を包み込むようにして持たせる。
「まずはこれを飲んでください。落ち着きましょう。外をずっと歩き回っていたのですか」
「すみません。俺、どうしよう、取り返しのつかないことを」
青年はほうじ茶の温もりにも気づかない様子で、寒さと恐怖で歯の根を鳴らしながら、うわ言のように繰り返した。
「時洲さん、ですよね。俺、駅前のマンションに住んでいる遠野と言います。近所の喫茶店のマスターに、ここに行けば迷子になったモノを見つけてくれる腕利きの人がいると聞いて」
遠野と名乗った青年は、すがるような、ひどく切実な目で美波を見上げた。
「お願いです、助けてください。俺、探して、でも、どこにもいなくて。この大雪の中、五時間も探し回ったのに」
「遠野さん。深呼吸をしてください。私が話を伺いますから」
美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳で、混乱に陥っている遠野を真っ直ぐに見つめた。その凪いだ、どこまでも澄み切った声のトーンに、遠野は我に返ったように息を飲み、すするようにほうじ茶を一口飲んだ。
「何が、迷子になってしまったのですか」
美波が優しく問いかけると、遠野は湯呑みを握りしめたまま、大粒の涙を止めどなく零し始めた。
「猫、です。俺のじゃなくて、今、重い病気で入院している、妹の猫なんです」
遠野の震える声から紡がれたのは、痛切な後悔の物語だった。
遠野の高校生になる妹は、一ヶ月前から重い病気で市内の総合病院に入院している。不安と恐怖で押しつぶされそうになっている妹にとって、唯一の心の支えが、彼女が小学生の頃から大切に育てている『きなこ』という名前の茶トラの猫だった。
妹が入院している間、遠野が自分のマンションにきなこを引き取り、毎日写真や動画を撮っては、病室の妹に送って励ましていたのだという。
「きなこは、生涯を室内で過ごしていて、外には一度も出たことがない臆病な子なんです。妹の命と同じくらい大事な家族で、絶対に、俺がしっかり守らなければいけなかったのに」
遠野は自身の太ももを、赤く腫れた拳で何度も強く殴りつけた。
「今日の午後二時頃でした。ネットで注文していた妹への差し入れが届いて、俺、玄関のドアを開けて、宅配便の受け取りのサインをしたんです。ほんの十秒か、二十秒くらいの間でした。サインをして、荷物を受け取って、ドアを閉めて部屋に戻ったら、いつもならストーブの前にいるはずの、きなこの姿がどこにもなくて」
「宅配便を受け取っている隙に、外へ飛び出してしまったということですか」
「それしか考えられません。部屋の中は全部探しました。ベッドの下も、クローゼットの中も、お風呂場も。でも、どこにもいなかったんです。あの子、足音も立てずに動くから、俺が宅配業者と話している隙に、開いたドアの隙間から外へ逃げたとしか」
遠野の目から、再び絶望の涙が溢れ出した。
「すぐに外へ飛び出して、マンションの周辺から裏路地まで、思い当たる場所を全部探しました。でも、この大雪です。外の世界なんて知らない猫が、冷たい雪と水たまりの中に何時間もいたら、体温を奪われて命に関わる。俺が、俺がドアを開けっぱなしにさえしなければ」
「遠野さん、落ち着いてください。ご自分を責めても、きなこちゃんは戻ってきませんよ」
美波は遠野の言葉を遮り、毅然と、けれど力強く言った。
外を知らない猫が、雪景色の中に飛び出してしまった。遠野が取り乱すのも無理はない。冬の雪は都会の野良猫にとっても厳しい。もし本当に午後二時から五時間以上も外を彷徨っているのだとしたら、一刻の猶予もない。
しかし、美波は探偵としての鋭い視線で遠野を観察していた。
美波の脳内で、物理的な事実と遠野の証言との間に生じている矛盾の正体が、精巧なパズルのように組み上がっていく。
きなこは外へ出たことがなく、ひどく臆病な性格だという。猫の習性として、見知らぬ来客が来て、玄関のチャイムが鳴り、外の冷たい風と大きな話し声が入り込んでくる状況で、自らその恐ろしい未知の空間へと飛び出していくことは非常に考えにくい。
美波は作業用エプロンを外し、ポシェットの中から愛用の銀のルーペを取り出した。
そして、大きな黒縁の丸眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
その瞬間、彼女が纏う空気は無邪気な古物商の主から、物事の深淵を覗き込み、迷子になった命の痕跡を優しくたぐり寄せる探偵へと切り替わった。
「遠野さん。きなこちゃんが外に飛び出した瞬間を、その目で直接見たのですか」
「いえ、見てはいません。でも、部屋の中には絶対にいないんです。俺、本当に隅から隅まで探したんですよ。だったら、玄関から外に逃げたとしか」
「モノは決して嘘をつきません。そして、生き物が動いた物理的な痕跡も、絶対に嘘をつかないんです」
美波は火の不始末を防ぐため、急いでストーブの火を完全に落とすと、コート掛けから厚手のダッフルコートを取り出し、手早く袖を通した。マフラーを首に巻きつけ、スノーブーツを履く。
「答えはいつだって、一番最初のスタート地点にあります。遠野さん、あなたのマンションに案内してください。きなこちゃんが本当に外へ逃げたのかどうか、室内に残された痕跡に直接聞いてみますから」
冷たい雪風よりも透き通った美波の言葉に、遠野はすがるように深く頷いた。




