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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と沈黙の迷子―』  作者: 長月有希


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第一話『尊厳』(後)

「嘘、だ。そんな馬鹿な」


 奥山の口から、かすれた空気の漏れるような音がこぼれ落ちた。

 彼が食い入るように見つめているのは、美波が開いたデータ束の第三十ページ。論文の中核を成す、最も重要な推論の土台となる複雑な数式が並んだ箇所だった。

 奥山の手が、小刻みに、そして次第に大きく震え始める。


 そこには、奥山の極度の疲労とプレッシャーが招いた、絶対にやってはならない致命的な計算ミスがあったのだ。

 ほんのわずかな変数の入力ミス。しかし、そのたった一つのエラーがドミノ倒しのように後続のすべての計算式を狂わせ、最終的な結論を根本から覆し、全くの無意味なものにしてしまっている。理系のトップ研究者である奥山にとって、それは自身のキャリアを一瞬で消し飛ばし、学会での信用を完全に失墜させるほどの致命傷だった。


「なんでだ。私は何度も、何度も見直したはずだ。完璧だった。私のデータは完璧だったはずなのに」


 奥山は膝から崩れ落ちそうになり、慌ててデスクの端にしがみついた。

 もし、このデータの紛失騒ぎが起きず、あのまま学会に提出していたら。

 奥山という研究者の命脈は、明日、間違いなく完全に断たれていた。


「奥山先生、昨日からずっと徹夜で作業をして、極度のプレッシャーで神経が張り詰めていましたよね。だから、自分の思い込みで視野が狭くなって、この致命的なミスに気づけなかったんだと思います」


 美波は少し下がった丸眼鏡のブリッジを押し上げ、どこまでも優しい声で語りかけた。


「でも、遥さんは気づいていたんです。先生の助手として、ずっと先生の研究を間近で見てきた彼女だからこそ、最終確認の段階で、この数式の違和感にいち早く気づくことができたんですよ」


 奥山はハッとして、部屋の隅にへたり込んでいる遥へと視線を向けた。

 遥は肩を震わせ、両手で顔を覆ったまま、声を殺して泣いていた。


「なら、なら、どうして言ってくれなかったんだ。助手なら、気づいた時点ですぐに私に報告するのが義務だろう。どうしてこんな、データをゴミの山に隠すなんていう異常な真似をしたんだ」

「言えなかったんですよ。いいえ、遥さんは言おうとしたのに、先生がそれを聞こうとしなかったからです」


 美波のごまかしの利かない真実を告げる声が、暖房の効いた研究室の空気を張り詰めさせた。


「さっき、先生が声を荒らげた時。遥さんの指先を見たんです」


 美波は、遥が顔を覆っている両手をそっと見つめた。


「遥さんの右手の指関節には、万年筆のインクの汚れと、そして細いビニールひもを素手で限界まで強く引っ張ったことでできた、真っ赤な鬱血と摩擦の火傷の痕がありました。遥さんは、この数式のミスを見つけた時、先生のミスを訂正するために、すぐに手元の万年筆を握りしめて、急いで先生のデスクに向かったはずですよ」


 美波の琥珀色の瞳が、奥山の記憶の扉をノックする。


「でも、奥山先生。先生は、声をかけようとした遥さんに向かって、なんて言ったんでしょうか」


 奥山の息が止まった。

 彼の脳裏に、数時間前の出来事が鮮明にフラッシュバックする。

 徹夜の疲労と、提出期限が迫るプレッシャーで、奥山の神経は極限までささくれ立っていた。ようやくすべてのデータをプリントアウトし、これで終わったと深い安堵の息を吐き出した直後。

 助手の遥が、血相を変えて万年筆を握りしめ、焦りのあまりキャップを乱暴に外そうとして指をインクで汚しながらも、何かを言いかけながら近づいてきたのだ。


『先生。あの、この第三十ページの数式なんですが』

『うるさい。君は黙って自分の入力作業だけをしていなさい。私のデータは完璧だ、素人が口出しをするな』


 奥山は、疲労のあまり全く聞く耳を持たず、彼女の言葉を怒鳴り声で暴力的に遮ってしまったのだ。


「思い出したみたいですね」


 美波は、奥山の顔色が後悔に染まっていくのを見て頷いた。


「遥さんは、先生を尊敬しているからこそ、先生の研究者としての命を終わらせるわけにはいかなかったんです。でも、極限状態の先生は、何度声をかけても絶対に耳を貸してくれなかったんだと思います。提出期限は明日に迫っています。このままデータが提出されれば、先生は終わってしまいますから」


 美波は手元の五十ページのデータ束を愛おしそうに撫でた。


「説得する時間はもう残されていません。だから遥さんは、先生が給湯スペースへ席を外した、たった五分間の間に。『電子データを完全に消去し、紙のデータを強制的に隠して、提出を不可能にする』という、最も危険で、最も自己犠牲を伴う強硬手段に出るしかなかったんです」


 遥の嗚咽が、研究室に痛切に響く。

 持ち出すことも、シュレッダーで破棄することもできない密室空間。

 もしデータをどこかの棚に隠しても、奥山が探し回ればすぐに見つかってしまい、そのまま誤ったデータが提出されてしまう。


「だから遥さんは、夕方には回収業者が持って行ってしまう古紙の束の中に、一度紐を切ってまで紙を挟み込み、パソコンの元データも自らの手で消去したのです。先生は自分の大切なデータを、まさかただのゴミの山の中に隠されたなんて絶対に思わないですから。そして、もし回収業者がそのままデータを持って行ってしまったら。遥さんは、私が誤って捨てて、データも消してしまいましたと言って、一人ですべての責任を被るつもりだったんじゃないでしょうか」

「遥」


 奥山の声が、震えていた。

 彼は歩み寄り、顔を覆って泣きじゃくる助手の前に、不器用な動作で膝をついた。


「お前は、私のために、自分が泥棒の汚名を被ってでも。私の論文を、私の人生を守ろうとしてくれたのか」

「ごめんなさい、先生」


 遥は指の隙間から涙をこぼし、絞り出すような声で謝罪した。


「私、何度も言おうとしたんです。でも、先生は本当に疲れていて。私の言葉なんて、信じてもらえないって思って。でも、先生が何年もかけて心血を注いできたこの論文が、あんな計算ミス一つで否定されるなんて、私、絶対に嫌だったんです」


 遥の右手。インクで汚れ、ビニールひもで擦れた真っ赤な鬱血の傷跡。

 それは、データ束を隠すために、必死に新しい紐を力任せに結び直そうとしてついた、不器用で痛々しい抵抗の痕跡だった。

 彼女は自分自身が罰せられることよりも、尊敬する奥山の名誉が傷つくことを何よりも恐れたのだ。


「私は、なんという傲慢な大馬鹿野郎だったんだ」


 奥山は深く頭を垂れ、両手を床について、激しい自己嫌悪に身を震わせた。

 完璧主義を気取りながら、自身の致命的なミスには気づかず、あろうことか自分を必死に救おうとしてくれた助手を企業スパイなどと罵倒し、疑い、怒鳴り散らした。

 研究者としての誇りなど、どこにもない。ただの独りよがりな愚か者だった。


「遥。すまない。本当に、すまなかった。お前がどれほどの思いで、あの古紙の束にデータを隠したか。私は、お前のその不器用な忠誠心に、どうやって報いればいい」


 奥山の目から、後悔の涙がこぼれ落ち、研究室の床を濡らしていく。

 沈黙の助手が抱えていた重すぎる秘密。

 それは、ただひたすらに師を思い、その夢を不格好な形で守り抜こうとした、切実な願いの結晶だった。


 美波はロッキングチェアに座るのと同じように、研究室の丸椅子に腰掛けた。

 丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳は、涙を流す二人を、冬の陽だまりのように温かく見守っていた。


「奥山先生。モノは決して嘘をつきませんよ。遥さんが古紙の束に残したひもの痕跡は、ただの悪意なんかじゃありません。先生のことを心から尊敬して、守りたかったという、何よりの証明なんですから」


 美波の言葉が、張り詰めていた研究室の空気を、少しずつ温かく溶かしていく。

 外の寒波の厳しさを忘れさせるような、確かな人間の温度が、そこにはあった。


 先ほどまで、企業スパイの影に疑心暗鬼が渦巻いていたその密室は、今や一人の不器用な助手が流した温かい涙によって、贖罪の空間へと変わっていた。


 奥山は床に両手をついたまま、自身の愚かさを噛み締めるように、長く、深い息を吐き出した。

 そして、ひどく重たそうな動作で立ち上がると、美波がデスクの上に置いた五十ページのデータ束、その第三十ページに記された、忌まわしい計算ミスの箇所を再び見つめ下ろした。


「致命的なエラーだ。思い込みとは恐ろしい。私はこの数式をベースにして、後ろの二十ページ分の結論をすべて導き出してしまっている。この一つの変数を修正すれば、すべての計算式を根底から組み直し、シミュレーションを一からやり直さなければならない」


 奥山の声は震えていたが、そこにはもう、先ほどまでのヒステリックな焦燥感はなかった。

 あるのは、真理を探求する一人の理系研究者としての、真摯な眼差しだった。


「遥」


 奥山は、まだ床にへたり込んで涙を拭っている助手を呼んだ。


「お前は、この計算式のエラーに気づいた時。修正するための正しい変数の値まで、導き出せていたのか」


 遥は肩を揺らし、恐る恐る顔を上げた。

 彼女は赤く腫れた目で奥山を見つめ返し、はっきりと頷いた。


「はい。おそらく、ここの代入する数値を二桁修正して、後ろのアルゴリズムの分岐点を一つずらせば。最終的な結論は、先生が本来意図していた通りの、完全な理論に着地するはずです。私、頭の中ですぐに再計算のシミュレーションを回しました。間違いないと思います」

「そうか」


 奥山は、自分の優秀な助手が導き出した答えに、ひどく眩しいものを見るように目を細めた。


「学会の提出期限は、明日の正午だ。今から徹夜で計算をすべてやり直し、新しいデータを入力してプリントアウトし直す。一人では到底間に合わない気の遠くなるような作業量だが。お前が手伝ってくれれば、あるいは」


 奥山は不格好に膝を折り、遥の目の前に手を差し出した。

 万年筆のインクで汚れ、ビニールひもの摩擦で赤く腫れた、痛々しい助手の右手。奥山は自身の傲慢さが作らせたその傷跡から目を逸らさず、深く頭を下げた。


「遥。私を、助けてくれないか。私の論文を、正しい形で世に出すために」

「先生」


 遥の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。

 彼女は自分の汚れた右手をカーディガンの袖で乱暴に拭うと、差し出された奥山の手を、両手でしっかりと握り返した。


「はい。やりましょう、先生。明日の正午まで、あと十七時間もあります。私、絶対に間に合わせてみせます」


 立ち上がった二人は、もはや探偵の存在などすっかり忘れてしまったかのように、すぐさまデスクに向かって並び立った。

 奥山がホワイトボードに凄まじいスピードで新しい数式を書き殴り始め、遥がパソコンのキーボードを弾くように叩き、シミュレーションソフトを立ち上げる。二人の間には、師と弟子としての、絶対に揺るがない強靭な信頼関係が再び結ばれていた。


 美波はその後ろ姿を、丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳で優しく見守っていた。

 冬の陽だまりのような微笑みが口元に浮かぶ。


(よかった。これならもう、私の出番はないかな)


 美波は誰にも気づかれないように音もなく立ち上がると、部屋の隅にある古紙の束の前にしゃがみ込んだ。

 一度紐を切られて慌てて結び直されたことで、古紙の束は少し形を崩している。

 美波は新しい荷造り用の白いビニールひもをポシェットから取り出し、不要になったプリントの束の端を床に当てて、綺麗な長方形に揃え直した。そして、今度は中央で正しく交差させ、全体に均等な力が加わるように、しっかりと、丁寧に結び目を作り直した。


「よし。これなら、回収業者さんが持っていく時に崩れたりしないね」


 美波は小さく呟き、結び目を軽く叩いた。

 物理的な痕跡は、時に残酷な真実を暴く。けれど、その奥底にある優しい想いさえ解き明かすことができれば、解けてしまった絆のひもを、こうしてもう一度、正しい形で結び直すことができるのだ。


 美波はポシェットに銀のルーペをしまい、丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し下げた。

 パソコンのタイピング音と、数式を読み上げる二人の熱を帯びた声を背中で聞きながら、美波は「お邪魔しました」と誰にも聞こえない声で呟き、研究室の鋼鉄のドアを閉めた。


 ***


 要塞のような大学の研究棟を出ると、外はすっかり日が落ち、夜の暗闇に包まれていた。

 北国から流れ込んだ大寒波はさらに勢いを増し、街灯のオレンジ色の光を切り裂くように、細かな粉雪が猛烈な吹雪となって吹き荒れている。

 美波は厚手のコートの襟を合わせ、マフラーを顔の半分まで深く巻き直して、雪の積もる歩道を小走りで進んだ。スノーブーツが新雪を踏みしめる音が、夜の街に孤独に響き渡る。


「うう、さむい。早く帰って、ストーブの前で丸くならないと凍っちゃうよ」


 白い息を吐きながら、美波は大通りから一本外れた、見慣れた下町の路地裏へと逃げ込んだ。

 暗い路地の先に、温かい琥珀色の光を灯している古い木造建築が見えてくる。看板の文字は剥げかかっているが、その佇まいは、凍える夜の海に浮かぶ小さな灯台のように、美波の心をどうしようもなく安堵させた。


 真鍮のベルを鳴らして引き戸を開けると、時洲堂の店内は、出かける前と変わらない、石油ストーブのノスタルジックな匂いと暖かな空気に満たされていた。

 美波は「ただいま」と誰もいない店内に小さく声をかけ、雪に濡れたコートとマフラーをハンガーに掛けた。すぐさまストーブの前に移動し、熱を失った両手をブルーの炎にかざす。


「はあ。生き返る」


 やかんから上がる白い湯気を見つめながら、美波はマホガニーのカウンターの上に置きっぱなしになっていたマグカップを手に取った。すっかり冷めてしまったほうじ茶を一口飲み込み、ロッキングチェアに深く腰を下ろす。

 店内にうず高く積まれた古い洋書や、埃を被った大正時代のガラスランプ、錆びついた真鍮の羅針盤。無秩序にひしめく古物の森が、呼吸を繰り返しながら美波の帰還を歓迎してくれているようだった。


 美波はカウンターの引き出しを開き、古い革の手帳と、お気に入りのミッドナイト・ブルーのインクが入った万年筆を取り出した。

 ひざの上に手帳を広げ、真新しい真っ白なページを開く。

 今日、迷子になっていた五十ページの紙の束が、持ち主に教えてくれた沈黙の真実。美波は丸眼鏡の奥の瞳を細め、ペン先を紙に滑らせていく。



『縛られた古紙の束。

 モノは決して嘘をつかない。

 異常に深く食い込んだ白いひもの張力と、ズレた結び目は、

 泥棒の悪意なんかじゃなく、大切な人の夢を守るために、

 すべてを抱え込もうとした不器用な自己犠牲の痕跡だった。


 極限のプレッシャーで視野が狭くなり、結び目が解けそうになっても。

 隠された真実の歩んできた時間に気づくことができれば、

 人はもう一度、その絆をより強く、より正しく結び直すことができる。


 五十ページのデータは、明日、完璧な形になって世に出るはず。

 インクで汚れた、あの優しい右手に守られて。』



 万年筆の金色のペン先が紙を擦る心地よい摩擦音が、ストーブの燃焼音と混ざり合う。

 美波はインクが乾くのをそっと息を吹きかけて待ち、革の手帳を閉じた。

 これでまた一つ、迷子になったモノが、本来あるべき場所へと帰っていったのだ。


 美波は手帳を引き出しにしまおうとして、ふと、その奥に大切に保管されている『あるモノ』に視線を落とした。


 それは、縁が少し黄ばんだ、一枚の古い写真。

 写真の中では、若き日の美波の父親と母親が、幼い美波を真ん中にして、ひだまりの中で優しく微笑んでいる。

 もう十年も前の、遠い日の記憶。

 美波の両親は、彼女がまだ十歳だった頃、不慮の事故で突然この世を去った。あまりにも唐突な別れだったため、当時の美波は状況を理解することさえできず、ただ深い喪失感だけを抱えてここまできた。


「お父さん、お母さん。今日も一つ、迷子を元の場所に帰してあげられたよ」


 美波は写真の上の埃を指先で払い、一人ごちた。


「お父さんたちが最後に遺してくれたモノたちにも、いつか。私に語りかけてくれる日が来るのかな」


 古物商として毎日『モノが語る真実』に触れていると、ふとした瞬間に、両親の遺品や思い出の品から、二人の声が聞こえてこないかと探してしまう自分がいる。

 けれど、写真の中の両親は何も答えない。ただ、優しく微笑み続けているだけだ。

 美波は首を横に振り、「ごめんね、しんみりしちゃった」と自分自身に笑いかけると、写真を元の場所にそっと戻し、引き出しの奥へとしまい込んだ。


 窓の外では、依然として激しい雪が街を白く染め上げている。

 しかし、美波の胸の奥には、確かな温もりが宿っていた。

 迷子になったモノの痕跡を見つめ続ける限り、いつか必ず、持ち主の優しい想いに辿り着ける。そう信じているからだ。


 時計の針が、夜の十時を回った。

 琥珀色の光に包まれた路地裏の古物商『時洲堂』の長い一日は、ストーブの暖かな空気と共に、幕を下ろそうとしていた。

 次にこの引き戸を開けてやってくるのは、一体どんな秘密を抱えた迷子なのだろうか。

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