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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と沈黙の迷子―』  作者: 長月有希


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第一話『尊厳』(前)

 年が明け、正月気分もすっかり抜け落ちた一月下旬。

 北から流れ込む大寒波の影響で、街は深い雪に覆われ、息を吸い込むだけで肺の奥が凍りつくような厳しい冷え込みが続いていた。


 大通りから一本外れた下町の路地裏に佇む古物商『時洲堂(ときすどう)』。

 その入り口にある飴色に変色した古いガラス戸には、びっしりと見事な霜の結晶が張り付いており、外の景色をすりガラスのように白く霞ませている。


 店主の時洲(ときす)美波(みなみ)は、分厚い綿入りの半纏(はんてん)を羽織り、カウンターの奥でチェック柄のひざ掛け毛布にすっぽりと下半身を包んでいた。両手には熱湯を満たした銅製のアンティーク湯たんぽを抱え込み、まるでそれに命を預けるかのように身を寄せている。

 手元に置かれた真鍮製の小さな砂時計。美波は鼻の頭を少し赤くしながらそれを逆さにひっくり返し、滑り落ちていく細かな砂の軌跡を、大きな黒縁の丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳でぼんやりと見つめていた。


「今日も寒いな。春が来るまで、このまま冬眠できたらいいのに」


 美波が長息を吐き出し、温かいほうじ茶の入ったマグカップに手を伸ばそうとした、その時のことだった。


 引き戸が乱暴に開かれ、真鍮のベルが警鐘のように鳴り響いた。

 熱を奪う雪風と共に店内に飛び込んできたのは、ひどく血相を変え、肩で荒い息をしている見知った中年の男性だった。

 仕立てのいい冬用のツイードのジャケットを着ているが、ネクタイは大きく乱れ、髪には溶けかかった雪がいくつも付着している。何より、その落ち窪んだ目元には、極度の疲労と焦燥感を示す濃い隈がくっきりと刻まれていた。


「あら。奥山(おくやま)先生。いらっしゃいませ。どうしたんですか、そんなに慌てて。外、すごく雪が降っているのに」


 美波は驚いてロッキングチェアから立ち上がり、彼を出迎えた。

 男の名前は、奥山。市内の国立大学で理系の准教授を務める研究者だ。以前、彼が愛用している研究室のアンティークランプの配線がショートした際、時洲堂で見事に修理してあげたことが縁で、時折こうして顔を出すようになっていた。

 普段の奥山は、自身の研究に絶対の自信を持つ妥協を知らない男であり、衣服のシワ一つ許さないような神経質な気質だ。しかし今の彼は、そんなプライドをかなぐり捨てているように見えた。


「時洲くん。頼む、君の知恵を貸してくれ。私の、私の研究者としての人生が、このままでは終わってしまう」


 奥山はカウンターに両手をつき、すがるような目で美波を見た。

 尋常ではないその様子に、美波は急いで急須から温かいほうじ茶を注ぎ、奥山の前に差し出した。


「先生、まずは深呼吸してください。落ち着いて、何があったのか教えてもらえませんか」

「落ち着いてなどいられるものか。消えたんだ、私の人生を懸けた論文の最終データが、忽然と」


 奥山はほうじ茶に口をつけることもなく、震える手で自身の頭を抱え込んだ。


「明日が、学会への論文提出の最終期限なんだ。私は昨日から研究室に泊まり込みで、最後のデータ確認をしていた。今朝の十時頃だ。私は完成したばかりの五十ページにも及ぶデータの束をプリントアウトして、自分のデスクのど真ん中に置いた。そして、ほんの五分間だけ、コーヒーを淹れるために、同じ部屋の奥にある給湯スペースへ席を外したんだ」


 奥山の声が、奥歯を強く噛み締めるような悔しさに歪む。


「そして五分後、デスクに戻ると。紙の束は跡形もなく消え去り、あろうことか、パソコンのローカルフォルダとバックアップサーバー内にあった元データまでもが、完全に消去されていたんだ!」


 奥山の説明に、美波は丸眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。


「プリントアウトされた紙だけでなく、電子データまで、五分間のうちにすべて消されていたんですか」

「そうだ。単なる紛失じゃない。私の研究そのものを、この世から完全に抹消するプロの犯行だ」


 奥山の研究室は、最新のオートロックシステムで守られている。彼が給湯スペースへ席を外していた五分間、IDカードを持たない外部の人間が侵入することは絶対に不可能であり、ドアが開閉した音も一切しなかったという。


「では、先生が席を外した時、部屋の中には誰か別の人がいたのですか」


 その問いに、奥山は忌々しそうに顔を歪めた。


「私の助手をしている、遥(はるか)という大学院生が一人だけ、部屋の隅のパソコンで作業をしていた」

「遥さん。その人が、データをごっそり持ち出してしまった可能性はありますか」

「部屋から持ち出すことは不可能だ」


 奥山は断言した。


「私の研究データは、企業が何億円と積んででも欲しがるようなトップシークレットだ。だから、研究棟から退出する際は、カバンの中身をすべて警備員にチェックされ、さらに金属探知機と重量センサーのゲートを通らなければならない。五十ページ分もの紙の束を隠し持ってゲートを通過することなど、絶対に不可能なんだ」


 奥山の説明する状況は、見事なまでの密室空間でのデータ消失だった。

 外部からの侵入者はゼロ。部屋から持ち出すことも不可能。そして、部屋の中にいたのは、助手の遥ただ一人。


「私はすぐに遥を問い詰めた。だが、あいつは私はずっとパソコンの画面を見ていて、何も気づきませんでしたの一点張りだ。ふざけるな。デスクの上の五十ページの束が勝手に歩いていき、パソコンのデータが自爆したとでも言うのか」


 奥山はカウンターを重い音を立てて叩いた。


「時洲くん。君は以前、ランプの焼け焦げた痕跡から、それがどんな状況でショートしたのかを見事に言い当てた。頼む、私と一緒に研究室に来てくれ。遥の奴は、おそらく外部の企業スパイと通じているんだ。提出期限を過ぎるのを待って、部屋のどこかに隠した紙のデータを後でこっそり回収する気なんだ。あいつが部屋のどこにデータを隠したのか、君の目で探し出してくれ」


 極度のプレッシャーと人間不信に陥り、感情の波に周囲が見えなくなっている奥山。

 しかし美波は、その激しい渦に巻き込まれることなく、凪いだ琥珀色の瞳で彼を見つめ返した。


(企業スパイ。本当にそうなのかな。電子データを完全に消去し、さらに五十ページもの紙の束を、狭い研究室の中で五分間で跡形もなく隠すなんて。そんなリスクの高いマネを、どうして今日、このタイミングで)


 美波の脳内で、探偵としてのスイッチが入る。

 人がどれだけ嘘をつき、隠そうとしても、モノが動いた事実と物理的な痕跡は、決して嘘をつかない。


「わかりました、奥山先生」


 美波は羽織っていた半纏を脱ぎ、ポシェットの中から愛用の銀のルーペを取り出した。


「その五十ページのデータが、どうしてそんなにも急いで姿を消さなきゃいけなかったのか。現場に残された物理的な痕跡に、直接語ってもらいましょう。案内してください」


 外の吹雪よりも透き通った美波の言葉に、奥山はすがるように深く頷いた。

 迷子になったモノが隠している沈黙の真実を解き明かすため、美波は雪の舞う外へと足を踏み出した。


 ***


 タクシーを降りると、凍てつくような北風が容赦なく美波の頬を打ち据えた。

 奥山が籍を置く国立大学のキャンパスは、深い雪に覆われ、鉛色の空の下で静まり返っていた。二人が向かったのは、広大な敷地の最奥にそびえ立つ、要塞のような無機質なデザインの研究棟だった。


 自動ドアを抜けて暖房の効いたエントランスに入り、美波がコートについた雪を手で丁寧に払い落としていると、目の前には大学の研究施設とは思えないほど厳重なセキュリティゲートが立ち塞がっていた。

 奥山は焦燥感に急かされるように受付端末を操作し、発行されたゲスト用のIDカードを美波に手渡す。

 自身のカードをリーダーにかざしてゲートを通過する奥山に続き、美波もカードをかざす。ゲートを通過する際、美波は空港の保安検査場さながらの金属探知機をくぐり抜け、さらに足元のパネルで体重と荷物の重量センサーによる精密なチェックを受けた。


「すごいですね。大学っていうより、まるで銀行の金庫室みたいです」


 美波が厳めしいゲートを振り返って感嘆の声を漏らすと、奥山は血走った目で忌々しそうに吐き捨てた。


「当然だ。この棟で行われている研究は、どれも国家機密レベルの特許に関わるものばかりだからな。紙一枚、USBメモリ一つ、外部に持ち出すには何重もの申請と所持品検査が必要になる。だから言っただろう。五十ページもの紙の束を隠し持って、このゲートを通過することなど、絶対に不可能なんだ」

「なるほど。確かに、これなら誰かが外に持ち出したっていう線は消えそうですね」


 エレベーターで最上階へと昇り、長く静寂に包まれた廊下を進む。

 奥山が自身の研究室のドアの前に立ち、再びIDカードをかざして静脈認証のパネルに指を押し当てた。電子音と共に、分厚い鋼鉄製のドアが重々しい音を立てて開く。


「これは、すごいですね」


 部屋に足を踏み入れた瞬間、美波は丸眼鏡の奥の目を丸くして声を漏らした。

 そこは、知の混沌とでも呼ぶべき空間だった。壁という壁は天井まで届く巨大な本棚で埋め尽くされ、難解な専門書や分厚い洋書が隙間なく詰め込まれている。部屋の中央には巨大なデスクが鎮座し、その上にも未整理の書類やファイルが地層のように積み重なっていた。

 暖房が強く効いた室内には、何台ものパソコンやサーバーが発するファンの低い駆動音と、徹夜作業による古いコーヒーの匂い、そして膨大な紙とインクの乾燥した匂いが充満している。


 そして、その部屋の最も奥まった薄暗い隅のデスクに。

 一人の若い女性が、背中を丸め、まるで周囲の気配を消すようにしてパソコンのモニターを見つめていた。


「おい、遥」


 奥山がドアを閉めるなり、雷を落とすような大声で怒鳴った。

 大きく肩を跳ねさせ、女性――助手の遥が、怯えた小動物のように振り返る。

 年齢は二十代半ばほどだろうか。化粧の気配がない青白い顔には奥山以上の深い疲労が刻まれており、無造作に束ねられた髪の毛先がひどく乾燥している。彼女は、血の気の引いた唇を震わせ、椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。


「先生。戻られたのですね」

「とぼけるな。お前が私のデータを消去し、紙を隠したんだろう。今すぐ出せ。あれがないと、私は明日の学会に提出できず、研究者としての命を絶たれるんだぞ。企業スパイからいくら貰ったかは知らないが、私の人生を台無しにする気か」

「違います。私は、本当に何も。ずっとこのパソコンで、先生に指示された文献の入力作業をしていて、データが消えたことなんて、何も知りません」


 遥は涙目になりながら、両手を胸の前で固く握りしめて首を横に振った。

 奥山がさらに声を荒らげようと一歩踏み出した瞬間、美波が二人の間に割って入った。


「先生、待ってください。声を荒らげてもデータは出てきませんよ。それに、遥さんはスパイなんかじゃないと思います」


 美波は丸眼鏡越しに、遥の姿をじっと観察していた。

 彼女の指先には、万年筆のインクの汚れと、そして何か細い糸のようなもので強く擦れた真っ赤な鬱血の跡がある。着ているカーディガンも毛玉だらけで、とても企業スパイとして大金を手にするような立ち回りをする人間には見えない。

 何より、彼女が固く握りしめている両手。それは、悪事の露見を恐れる泥棒の震えというよりも、何か絶対に言えない重い秘密を必死に抱え込み、一人で耐え忍んでいるような、痛切な決意の震えに見えた。


「じゃあ、この部屋のどこかに五十ページの紙の束が意思をもって隠れたとでも言うのか。時洲くん、君も探してくれ。五分だぞ。私が部屋を出てから戻るまでの、たった五分間に、デスクのど真ん中に置いた紙の束が消えたんだ」


 奥山は自身のデスクの中央を何度も叩きながら叫んだ。

 美波は頷き、黒縁の丸眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる。

 その瞬間、無邪気だった古物商の主の空気は一変し、モノの痕跡を見透かすような冷徹さを湛えた探偵の瞳へと切り替わった。


「五分間。パソコンの電子データを完全に消去し、さらに五十ページの紙の束を隠す。外部への持ち出しは不可能で、破棄するには時間が足りない」


 美波は呟きながら、現場の動線を頭の中でトレースしていく。

 五十ページ分のコピー用紙の束は、厚さにすればおよそ五ミリほどになる。手品のように袖口に隠せるようなサイズではないし、本と本の間に挟み込めば、背表紙の並びに不自然な歪みが生じる。


 美波はまず、デスクの下や引き出しの中、足元のゴミ箱を覗き込んだ。さらに、部屋の隅にある大型の業務用シュレッダーのダストボックスを開けてみる。

 中には細かく裁断された紙屑が大量に入っていたが、美波はポシェットから細いピンセットを取り出して一つまみすくい上げると、首を振った。


「シュレッダーにかけたわけじゃありませんね。この刃の構造だと、五十ページを一気に裁断することはできませんし、五分間で数枚ずつに分けて裁断していれば、モーターの駆動音と摩擦熱で、奥山先生が戻ってきた時に絶対に気づくはずですから」

「だろう。部屋から持ち出せない、破棄もできない。なら、この部屋のどこかに物理的に隠されているはずなんだ。本棚の裏か、それとも床のカーペットの下か」


 焦燥に駆られた奥山が、手当たり次第に積み上げられた資料の山を崩し始める。

 美波はその後ろ姿を尻目に、部屋の中を歩き回り、視線を這わせた。

 犯人が遥であるなら。彼女は、奥山がコーヒーを淹れに行っていたわずか五分間という極端に短いタイムリミットの中で、焦りながら、確実に、そして奥山が絶対に手を出さない場所へとデータを隠したはずだ。


(本棚の奥や、書類の山の中じゃない。そんな場所に隠せば、今日一日中、奥山先生が探し回って、いずれ見つかってしまう。もっと、先生が絶対に意識を向けない場所)


 美波の琥珀色の瞳が、部屋の片隅、給湯スペースとドアの間にあるあるモノに止まった。

 それは、不要になった大量のミスプリントや古い資料をまとめ、古紙回収に出すために荷造り用の白いビニールひもで十字に固く縛られた、高さ三十センチほどの古紙の束だった。


「奥山先生。あの古紙の束は、いつまとめたんですか」


 美波が指を差すると、奥山は崩した資料の山から顔を上げ、忌々しそうに吐き捨てた。


「あんなものは関係ない。昨日の夜、遥に命じて、不要な資料をすべてまとめさせたんだ。今日の夕方、回収業者が持っていくことになっている単なるゴミの山だ」

「昨日の夜、遥さんが縛ったんですね」


 美波は音もなく古紙の束の前にしゃがみ込み、ポシェットから愛用の銀のルーペを取り出した。

 高さ三十センチ。数百枚もの不要なプリントが積み重なり、白いビニール製のひもで、きつく十字に縛り上げられている。一見すると、どこのオフィスにもあるごくありふれたゴミの束にしか見えない。

 しかし、ルーペ越しにその束の結び目とひもの張力を極限まで拡大して観察した美波の瞳に、決定的な物理的矛盾が浮かび上がった。


(おかしい)


 美波はルーペのピントを微調整しながら、脳内で物理法則のパズルを組み立てていく。

 紙の束をひもで十字に縛る時、人は必ず中央でひもを交差させ、全体に均等な圧力がかかるようにして結び目を作る。

 しかし、目の前にある古紙の束の結び目は、中央から大きくズレた不自然な位置にあった。さらに、一番上の数枚の紙の『ひもが通っている部分』だけが、異常なほどの圧力で深く凹み、無惨に破れかけているのだ。


「奥山先生。このひもの縛り方、ちょっとおかしいですよ」


 美波の澱みない声に、奥山が怪訝な顔で歩み寄ってくる。

 遥の肩が、部屋の奥で大きく跳ねた。


「おかしいだと。ただキツく縛りすぎただけだろう」


「違いますよ、先生。落ち着いて均等に縛ったなら、一番上の紙がここまで局所的に深く凹んで破れることはありません。これは、遥さんが一度縛ってあった紐をハサミで切り、一番上の紙のすぐ下に五十ページの束を挟み込んでから、新しい紐で慌てて結び直した痕跡です」


 美波はルーペを片手に、白いひもが極限まで食い込んでいる部分を指差した。


「持ち出すことも破棄することもできない五十ページのデータを、夕方には業者が回収しに来て、先生が絶対に手をつけることのないこのゴミの山の中に隠そうとした。奥山先生が戻ってくるタイムリミットに焦りながら、遥さんは上から自分の片膝で局所的に強く古紙の束を押さえつけ、力任せに新しい紐で結び直した。だからこそ、膝の圧力が集中した一番上の数枚が紐の張力に耐えきれずに無惨に破れ、結び目も中央からズレてしまったんですよ」


 美波の推理が、五分間の密室の謎を暴き出していく。

 美波は、ポシェットから小さなハサミを取り出して古紙の束の紐を切り、一番上の数枚の紙をめくった。

 そこには、奥山が五分の間に紛失したはずの、五十ページに及ぶ論文の最終データが、無傷のまま眠っていた。


「あっ」


 奥山の口から、言葉にならない声が漏れる。

 部屋の奥で、助手の遥が顔を歪め、両手で顔を覆ってその場にへたり込んだ。


「貴様」


 奥山の顔が赤く染まり、首の血管がはち切れんばかりに膨れ上がった。彼はデータを取り戻した安堵よりも、助手に裏切られた激しい感情に支配され、へたり込む遥に向かって猛然と歩み寄ろうとした。


「私のデータをゴミの山に隠すなどと、よくもそんな真似を。やはり企業スパイに売り渡すつもりだったんだな。今すぐ警察に突き出してやる」

「違います、先生」


 奥山の声を遮るように、美波の凛とした、しかしどこまでも透き通った声が研究室に響き渡った。

 美波は両手を広げ、奥山の前に立ちはだかる。


「遥さんは、このデータを盗もうとしたんじゃありません。むしろ、先生の人生を守るために、自分が泥棒の汚名を被ってでも、これを提出させないようにしたんですよ」


 美波の言葉に、奥山は振り上げた拳を止め、呆然と目を丸くした。


「提出させない、だと。どういうことだ」

「物理的な痕跡は、決して嘘をつきません」


 美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳で、奥山を真っ直ぐに見つめた。

 そして、手元にある五十ページのデータ束の中腹を開き、ある特定のページを奥山の目の前に示してみせた。


「先生。非難する前に、ご自身の目で、このページに書かれている数式と結論を確認してみてください」


 それは、奥山が徹夜で仕上げたはずのデータ。

 しかし、奥山がそのページに視線を落とした瞬間、彼の顔から潮が引くように血の気が失せ、赤く染まっていた顔が、今度は死人のように真っ白に変わっていった。

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