5.
同日。午後七時。
〈雨宮探偵社〉の食卓は、パンの山に占領されていた。
「窯場のジジ、一同より! 感謝の印です!」
ロロと親方が抱えてきた籠には、焼きたての丸パンが三十個。
扉の外からは、近所の子供たちがこちらを覗いている。
「ねえ、あれが検事の先生?」
「毒婦じゃないの?」
「馬鹿、法廷で悪い奴をやっつけたんだぞ」
(……呼び名が、少し変わった)
綾乃は目を伏せ、パンを一つ齧った。
悪くない気分だった。
その隣で、蒼真がゴーグルを下ろし、例の城内手形を睨んでいた。
「透かし、本物です。紙も官給品。偽造の線は消えました」
「発行元は」
「王室出納監。副署は――葛城継人。現・首席補佐官です」
雨宮の眉が、ぴくりと動いた。
「久遠寺の、後任の椅子だな」
「つまり……死んだはずの前任者に、現役の後任が手形を切ってる、ってことですか?」
「城の中に、鴉の餌係がいるってことだ」
雨宮はパンを二つ、同時に頬張った。
「だが城の中は、今の俺たちには手が届かん。届くのは――手形の出口だ」
「出口?」
「城内手形は、城の外じゃただの紙だ。金に換えるには両替屋を通すしかない。そして外環で城の紙を扱える店は、一軒だけと決まってる」
*
午後九時。
〈鼬堂両替店〉
軒下の提灯が、油の切れかけた光で揺れていた。
帳場の奥から、痩せた老人が顔を出す。
鼬という屋号が、これ以上なく似合う顔だった。
「……閉店だよ」
「銀次。手形の記録を見せろ」
「はて、何のことやら。うちは真っ当な小口専門でねえ」
綾乃は資格章を帳場へ置いた。
「両替免許規定第十一条。免許業者は、訴追人の正当な求めに応じ、取引記録を開示する義務があります。拒めば免許取消し」
「……規定なんぞ、外環じゃ飾りだよ、お嬢さん」
銀次はにやりと笑った。
雨宮が、のそりと帳場へ身を乗り出す。
そして、老人の耳元で何かを囁いた。
銀次の顔から、笑みが剥がれ落ちた。
「……お、王暦の帳簿は、蔵の奥だ。ちょっと待ってな」
(また、あれ)
綾乃は雨宮を横目で睨む。
「いつも何を囁いているんです」
「企業秘密だ」
やがて銀次が、分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。
震える指が、頁を繰る。
「……この客だろ。フードの男。左手だけ手袋。年に四回、決まって城内手形を金貨に換えていく。声の柔らかい、気味の悪い男だ」
「最後に来たのは」
「三日前だ。それが、いつもと違ってな」
銀次は声を落とした。
「持ち込んだ手形が、束だった。過去五年分を、いっぺんに換えたような額さ。それで、こう聞いてきた――『南航路の定期船は、次はいつ出る』と」
綾乃と雨宮は、顔を見合わせた。
「……それで、次の便は」
「三日後の正午。南港からだ。その次は、季節風の関係で半年先までない」
店を出ると、夜気が刺すように冷たかった。
「逃げる気ですね。五年分の金を握って、海の向こうへ」
「ああ。猶予は三日だ」
雨宮は空を見上げた。
「三日後の正午、港を押さえる。鴉の面を拝んで、引っ捕らえて、法廷へ引きずり出す。……忙しくなるぞ」
(三日後の正午――)
このときの綾乃は、まだ知らなかった。
同じ日、同じ時刻が、まったく別の意味を持つことになるとは。
*
翌朝。午前九時。
〈外環裁判所・第二法廷〉
証拠目録の照合に呼ばれた綾乃たちを待っていたのは、書記官ではなかった。
白銀の鎧を纏った、中央の騎士が六名。
その中央に、氷のような顔の文官が立っている。
そして、その斜め後ろには――
「おはよう、毒婦様」
戸松が、これ以上ないほど晴れやかな笑みを浮かべていた。
(……嫌な予感しか、しないわね)
文官が一歩進み出て、巻物を広げる。
「中央より勅使、氷室である。王太子ユリウス殿下の令旨を伝える」
法廷に、紙の擦れる音だけが響いた。
「一つ。外環裁判所に係属中のヴァリス毒殺事件は、本日をもって管轄を中央高等法廷へ移す。証拠一式は、遅滞なく引き渡すこと」
「――異議がある」
壇上の志摩裁判長が、丸眼鏡の奥から勅使を睨みつけた。
「本件は外環で発生し、外環で受理された。管轄の移送には相応の理由が要る。理由を述べよ」
「被疑者として名の挙がった人物が、王室の元高官である。国家の威信に関わる事案は中央が扱う。……それが理由では不足かな、裁判長殿」
氷室は眉一つ動かさない。
「二つ。証人として、以下の者に中央法廷への出頭を命ずる。――如月綾乃。期日は、三日後の正午」
法廷が、ざわりと揺れた。
綾乃の指先から、体温が引いていく。
(三日後の、正午)
港に、船が出る時刻。
「お断りすることは」
「召喚は勅命に基づく。拒否は召喚拒否罪を構成し、訴追人資格の剥奪、ならびに身柄の拘束をもって応じる」
氷室は淡々と続けた。
「三つ。証拠の引き渡しは、証人出頭と同日、同時刻とする。以上である」
「……ずいぶんと、日取りの揃った令旨だな」
雨宮が、低く言った。
氷室の視線が、初めて雨宮へ向いた。
その無表情に、ほんのわずかな亀裂が走る。
「…………雨宮、監察官」
「元、だ」
氷室は数秒、雨宮を見つめ――何も言わず、視線を戻した。
騎士たちを従え、法廷を出ていく。
入れ替わるように、戸松が綾乃の前へ歩み寄った。
「外環の分をわきまえろと、忠告して差し上げたはずだがな」
「……あなたが、中央へ報せたんですね」
「さて。ただ、一つだけ教えておいてやろう」
戸松は顔を寄せ、囁いた。
「追放者の城壁内立ち入りは、即時処刑。執行するのは門の衛兵で、裁判は要らない。――つまりお前は、法廷に辿り着く前に、門で死ぬ」
喉の奥で、笑いを噛み殺す音がした。
「出頭すれば門で死に、拒めば牢で朽ちる。どちらでも好きな方を選べ、毒婦」
戸松は外套を翻し、勅使の後を追っていった。
残された法廷で、志摩裁判長が長い息を吐いた。
「……小娘。中央はお前を、法で殺しに来た」
「のようですね」
「儂にできるのは、時間稼ぎだけだ。証拠目録の照合には三日かかる、と突っぱねた。だから引き渡しも三日後になった。……それが精一杯だ」
「十分です、裁判長」
綾乃は深く、頭を下げた。
*
午後。
事務所の一階は、通夜のように静まり返っていた。
「詰んでる……詰んでますよ、これ……」
蒼真が机に突っ伏す。
「出頭したら門で処刑。拒否したら資格剥奪で逮捕。しかも同じ日の同じ時刻に、鴉は船で高飛び。三日後の正午に、全部重なってる……!」
「偶然じゃねえな」
台所から、雨宮の声がした。
包丁の音。鍋の湯気。
この男は、考え事をするとき、なぜか料理を始める。
「鴉の出国と、証拠の引き渡しと、嬢ちゃんの始末。三つ同時に片付ける段取りだ。……城の中の誰かさんは、よほど頭の回る奴らしい」
「どうするんですか!? 所長も如月さんも、なんでそんなに冷静なんですか!?」
綾乃は答えなかった。
食卓の上に、三枚の紙を並べる。
一枚目。追放令の写し。
二枚目。今朝の召喚状。
三枚目。――婚姻証明。
視線が、三枚の上を往復する。
一度。
二度。
三度目で、止まった。
(……あら)
(……あらあらあら)
綾乃の口元が、ゆっくりと弧を描いた。
「――見つけましたわ」
「あ?」
雨宮が鍋を持ったまま、台所から顔を出す。
綾乃は三枚目の紙を摘まみ上げ、燭台の光に透かした。
「三日後の正午。私は中央法廷へ出頭します。正面から、堂々と、大手門を潜って」
「し、死んじゃいますよ!? 門で、即時処刑って……!」
「いいえ、蒼真さん」
綾乃は微笑んだ。
今朝からずっと凍えていた指先に、熱が戻っていた。
「殺せませんわ。誰にも、指一本」
「な、なんでですか!?」
「三日後のお楽しみです。……ふふ。門の衛兵たちは、世にも珍しいものを見ることになりますわよ」
蒼真が救いを求めるように雨宮を見た。
雨宮は、食卓の三枚の紙を順に眺め――
「…………ぶっ」
噴き出した。
「くく……ははは! そうか。そう来たか。ああ、そりゃ確かに――殺せねえ」
「所長まで!? 二人だけで納得しないでくださいよ!」
雨宮は笑いを収め、鍋を食卓へ置いた。
湯気の向こうで、その目が鋭く光る。
「決まりだ。三日後の正午――嬢ちゃんは中央で、化け物どもの喉元に食らいつけ。俺と蒼真は港で、鴉の首根っこを押さえる」
「僕、戦力になるんですか!?」
「なる。逃げる男ってのはな、必ず荷物に証拠を詰めてる。それを読める頭が要るんだ」
綾乃は婚姻証明を、そっと胸元へ仕舞った。
脳裏に、あの手紙の一文が蘇る。
――剣ではなく、法で。
(ええ、陛下。仰せのままに)
「三日後の正午。二つの戦場で、同時に開廷です」




