4.
午前六時。
雨宮探偵社・一階。
食卓には、湯気の立つ雑炊と漬物が並んでいた。
所長手製の朝食は、悔しいことに、本当に美味かった。
「――久遠寺薫」
雑炊を掻き込みながら、雨宮が言った。
「鴉の名前だ。訴追状に書け」
綾乃は匙を置いた。
「何者です」
「五年前まで、王室出納監の首席補佐官。城の金の流れを、全部見られる立場の男だ。潔癖症でな。人と茶を飲むと、必ず自分の湯呑みだけ洗って帰る。左手には古い火傷があって、年中手袋をしてた」
「その男が、なぜあなたを中央から?」
雨宮は雑炊の残りを、ずずっと啜った。
「……当時、俺は中央の監察官だった」
(監察官!?)
蒼真が箸を落とした。
「所長が!? 役人!? 毎日昼まで寝てるのに!?」
「うるせえ。話が進まん」
雨宮は湯呑みの茶を睨む。
「五年前、王室の出納簿に穴を見つけた。軍の備品購入って名目で、毎年、行き先のわからん金が流れてた。掘っていくと、久遠寺の机に行き着いた」
「それで、告発を?」
「する直前に、逆に嵌められた。収賄の濡れ衣だ。証拠は完璧。反論は記録されず、審理は一日で結審」
雨宮は、綾乃を見た。
「――どっかで聞いた話だろ」
綾乃の背筋が、冷えた。
(私と、同じ手口)
「監察官章を剥がされて、外環行きだ。以来、久遠寺の面は見てない」
「その男が、今もヴァリスからラフレアを買い、口を塞いだ。つまり五年前の金の穴と、陛下の毒殺は――」
「一本の線、ってことになるな」
雨宮は席を立ち、外套を引っ掛けた。
「証明できれば、の話だが。おら、行くぞ。九時に遅れたら元も子もねえ」
*
午前八時五十五分。
〈外環裁判所・第二法廷〉
傍聴席は、満員だった。
三番街の野次馬。ロロの同僚のパン職人たち。号外を握った物見高い連中。
「毒婦だ」「毒婦様が訴追人だとよ」
囁きが、さざ波のように広がる。
綾乃は背筋を伸ばし、訴追人席に着いた。
(言わせておけばいい。今日この場で、呼び名が変わる)
向かいの席では、戸松が余裕の笑みで書類を扇いでいた。
「逃げずに来たことだけは褒めてやる、毒婦様」
「開廷前の私語は、品位を疑われますわよ。第三号様」
カン、と木槌が鳴った。
壇上に、小柄な老女が座っている。
白髪を引っ詰め、丸眼鏡の奥から法廷全体を睥睨する――外環裁判所裁判長、志摩。
「静粛に。これより、ヴァリス毒殺事件の審理を始める。訴追人・戸松、罪状を」
「はっ」
戸松が立ち上がり、芝居がかった仕草で被告人席を指した。
「被告人ロロ・ガンツ。パン配達夫。本件被害者ヴァリスを毒殺した咎により、訴追いたします。根拠は三点。第一に、被告人は第一発見者であること。第二に、被害者と金銭の揉め事があったこと。第三に――目撃者がいることです」
(……目撃者?)
綾乃の眉が動いた。
「質屋の主人・ドッセル氏。証言台へ」
脂ぎった中年の男が、もみ手をしながら証言台に立った。
「へえ。あっしは店の窓から、はっきり見たんでさ。朝の十時三十五分。そこのロロが、ヴァリスの店の戸を叩いて、中へ入っていくのを」
「十時三十五分。死亡推定時刻の、まさに直前ですな」
戸松が綾乃へ流し目を送る。
「訴追人の主張は以上。単純明快な事件です」
ざわめく傍聴席。
ロロが真っ青な顔で首を振っている。
「では、対抗訴追人。反対尋問を」
志摩裁判長が顎をしゃくった。
綾乃は、静かに立ち上がる。
(さあ――開廷よ)
「ドッセルさん。あなたが十時三十五分に見たのは、間違いなくロロさんでしたか」
「間違いねえ。毎日見てる顔だ」
「その時刻は、何で確かめました?」
「そりゃあ……鐘だよ。教会の鐘が、半刻を打ったんでさ」
「三番街の、鐘楼の鐘ですね?」
「お、おう」
綾乃は一枚の紙を掲げた。
「教会管理組合の修繕記録です。三番街の鐘楼は、先月十日から故障により停止中。ここ一ヶ月、一度も鳴っていません」
法廷が、どよめいた。
ドッセルの額に汗が浮く。
「そ、そりゃ……時計を見たんだったかな……」
「もう一つ。ロロさんが店へ『入っていった』と仰いましたね。では、その時、店の入口の札は何と?」
「へ? そりゃ、営業中……」
「ヴァリス氏は今朝、開店直後に札を〈休業〉へ裏返しています。向かいの雑貨屋のご夫婦、通りの水売り、三名がすでに供述済みです」
綾乃は証言台へ、一歩詰め寄った。
「鳴らない鐘を聞き、出ていない札を見た。――あなたは今朝、いったい『どこ』にいらしたんです?」
「うっ……あ、あっしは……」
ドッセルの目が、泳ぐ。
ちら、と。
一瞬だけ、戸松の方を見た。
法廷中が、その視線を見ていた。
「……もういい。証人は下がれ」
志摩裁判長が、心底うんざりした声で言った。
「訴追人・戸松。次に紙屑を証拠と称して持ち込んだら、貴様の資格章を鋳潰して鍋にする」
「さ、裁判長! 私も騙されたのです、この男の虚言に――」
(あっさり切り捨てた)
綾乃は続けた。
「本題に入ります。ロロさんの無実は、時間が証明します」
パン屋の親方が証言台に立つ。
「ロロが店を出たのは十時四十五分。窯出しの直後だ。窯の記録板にも刻んである。誓ってもいい」
「ヴァリス氏の死亡は十時四十分から五十分。使用された毒ラフレアは、摂取後十数秒で死に至ります。そして現場には、来客と茶を酌み交わした痕跡――つまり犯人は、被害者と差し向かいで茶を飲む時間があった人物です」
綾乃は法廷を見渡した。
「十時四十五分まで窯の前にいた人間に、それは不可能です。物理的に」
「……認めよう」
志摩裁判長が頷いた。
「被告人ロロ・ガンツへの訴追は、棄却。釈放を命じる」
カン。
木槌の音と同時に、傍聴席のパン職人たちから歓声が上がった。
ロロが泣き崩れる。
「あ、ありがとう……ありがとう、訴追人さん……!」
だが、綾乃は座らなかった。
「裁判長。規定第十九条に基づき、本件の対抗訴追状を提出します」
法廷が、再び静まる。
綾乃は書記官へ訴追状を手渡した。
「証拠は四点。被害者の裏帳簿の写し。代金として支払われた城内手形。犯人が現場で洗った湯呑み。そして、犯行時刻直後に裏路地で目撃された、左手にのみ手袋をした人物の証言」
「ほう」
志摩裁判長が眼鏡を押し上げる。
「して、被疑者の名は」
綾乃は、息を吸った。
「――元・王室出納監首席補佐官」
法廷の空気が張り詰める。
「久遠寺薫」
一瞬の、沈黙。
直後、傍聴席が爆発した。
「城の役人だと!?」「外環の裁判所が、城の人間を!?」
戸松が弾かれたように立ち上がる。
「馬鹿げている! 裁判長、これこそ紙屑です! 外環の法廷に、城の高官を裁く権限など――」
「毒殺は外環で起きた。ならば管轄は外環にある。規定第一条。――貴様、条文も読まずに三号章を下げているのか」
志摩裁判長は書記官へ顎をしゃくった。
「被疑者の所在を照会。人別台帳を」
老いた書記官が、分厚い台帳をめくっていく。
一枚。
また一枚。
その手が、止まった。
「……裁判長」
「どうした」
「久遠寺薫、の項ですが……」
書記官は台帳を掲げ、震える声で読み上げた。
「『五年前、四月二日――死亡』と、あります」
法廷が、凍りついた。
綾乃の思考が、白くなる。
(死亡……? 五年前……?)
「死因の記載は、殉職。中央監察局の公務中の事故により――」
書記官が、ごくりと唾を飲む。
「――『殉職』と」
戸松が、引き攣った笑い声を上げた。
「はっ……ははは! 見たか! 毒婦様の被疑者は、五年前に死んだ幽霊だそうだ! 幽霊が茶を飲み、幽霊が毒を盛ったと!」
嘲笑が傍聴席へ伝播していく。
綾乃は拳を握り、訴追人席の雨宮を振り返った。
そして――言葉を、失った。
雨宮は、笑っていた。
眠たげな目のまま、静かに、獰猛に。
「……所長?」
「五年前の、四月二日」
雨宮は、ゆっくりと立ち上がった。
その巨体が、法廷の視線を一身に集める。
「その日付なら、よく覚えてる。――俺が収賄の濡れ衣で、中央を追放された日だ」
ざわめきが、波のように引いていった。
「同じ日に、告発相手が『殉職』し、告発者が追放された。……偶然にしちゃ、出来過ぎだろ」
雨宮は志摩裁判長を見上げた。
「裁判長。死んだはずの男が、二ヶ月前に外環で毒を買ってる。つまり考えられることは、一つだ」
法廷の全員が、その続きを待った。
「――五年前の『殉職』こそが、この国で最初の、偽装だ」




