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3.

 午前十一時二十分。


〈ヴァリス薬種毒物店〉店内。


「五分だぞ。五分経ったら叩き出す」


 自警団長が腕を組み、入口を塞いだ。


 雨宮は聞いているのかいないのか、店の奥へのそのそと進んでいく。


 綾乃もその後に続いた。


 狭い店だった。


 壁一面の棚に、色とりどりの小瓶と薬草の束。


 天井から吊るされた干し蜥蜴。


 埃と薬草の匂いに、スープの匂いが混ざっている。


 突っ伏した店主の傍らで、蒼真がゴーグルを光らせていた。


「所長。死後およそ三十分から四十分です。スープの温度と、硬直の進み具合から見て」


「今が十一時二十分。なら、死んだのは十時四十分から五十分の間か」


 雨宮は食卓を見下ろした。


 倒れたスープの椀。


 齧りかけの黒パン。


 そして――湯呑みが、一つ。


 中には、飲み残しの茶が乾き始めている。


「……嬢ちゃん。何か気づくか」


(試されてる)


 綾乃は食卓を眺め、それから店内をゆっくりと見回した。


 埃。


 棚にも、床にも、窓枠にも、うっすらと埃が積もっている。


 掃除嫌いの店主だったらしい。


 なのに。


「――流し台」


 水切り籠の上に、湯呑みがもう一つ、伏せてあった。


 綾乃は手袋の指先で、そっと触れる。


「内側が、まだ湿っています。この店で唯一、洗い立ての品です」


「ほう」


「茶を飲んだのは二人。ですが片方だけが、自分の湯呑みを洗って伏せた。……几帳面というより」


「痕跡を消す癖のある奴、だな」


 雨宮が頷いた。


「それと、入口の札を見たか」


「〈休業〉に、なっていました。店主は自分で札を裏返し、鍵も掛けずに客を通した。つまり――」


「顔見知りの、内密の客ってわけだ」


 雨宮は棚の一角へ目を移した。


 並んだ瓶の列の途中に、ぽっかりと空白がある。


 埃の上に残っているのは、分厚い長方形の跡。


「帳面が一冊、抜き取られてる」


(帳簿……!)


 綾乃の脳裏に、あの手紙の一文がよぎった。


 ――帳簿の血に気づく。


「毒を商う人間が、記録を付けないはずがありません。誰に、何を、いつ売ったか。それは商品と同じ価値を持ちます」


「ああ。だから客は、茶を飲んで、毒を盛って、帳面だけ持って帰った」


 雨宮は欠伸をした。


「筋書きとしちゃ上等だ。あとは――」


「おい! 五分経ったぞ!」


 自警団長が怒鳴った。


 雨宮は振り返り、団長の肩へ手を置く。


 そして、耳元で何かを囁いた。


 団長の顔が、みるみる青ざめていく。


「……て、てめえ、なんでそれを」


「あと十分。な?」


「……十分だけだからな!」


(何を言ったのかしら、この人)


     *


 店の外。


 縛られた青年――ロロは、洟を啜りながら座り込んでいた。


 綾乃はその前に膝を折る。


「いくつか、質問させてください。ロロさん」


「あ、あんた誰だよ……」


「訴追人の如月です。答え次第で、あなたは今夜、家の寝台で眠れます」


 ロロの目が見開かれた。


「な、なんでも聞いてくれ!」


「今朝の足取りを、順番に」


「パン屋だよ! 俺、〈窯場のジジ〉って店で働いてて……朝からずっと窯の前にいた。ここへの配達は毎日で、店を出たのが……十時四十五分くらいだ。親方が時計を見て『遅いぞ』って怒鳴ったから間違いねえ!」


「パン屋からこの店までは」


「歩いて五分ちょい。着いたら扉が開いてて、爺さんが倒れてて……揺すったけど動かなくて、叫んだら自警団が来て、気づいたらこれだよ!」


 ロロは縄を掛けられた手首を振った。


 綾乃は立ち上がる。


(死亡推定は十時四十分から五十分。ラフレアの効果は十数秒。つまり毒が盛られたのは、死の直前)


(その時刻、この人は親方の前で怒鳴られていた)


(そもそも、茶を酌み交わす時間など、どこにもない)


「蒼真さん。パン屋の親方の証言、あとで正式に取れますか」


「もちろんです! 親方と、店にいた客も!」


「なら――立証は、成立します」


 ロロがぽかんと口を開けた。


「た、助かるのか? 俺」


「ええ。あなたは犯人には、なれません。物理的に」


 その時だった。


「――ほう。ずいぶんと威勢のいい新人だ」


 人だかりが割れた。


 油で撫でつけた髪。


 金鍍金の資格章。


 戸松が、書記官を二人従えて立っていた。


「本件は俺が訴追する。被告人はそこの配達夫。罪状は毒殺。証拠は第一発見であること、ならびに被害者と金銭の揉め事があったという近隣の証言だ」


「揉め事?」


 ロロが跳ね上がる。


「先週、釣り銭のことで言い合っただけだろ!?」


「動機としては十分だな」


 戸松は懐から書状を取り出し、ひらりと振った。


「審理は明日、午前九時。裁判長の許可も得た」


「明日!?」


 蒼真が声を上げた。


「早すぎます! 検分だってまだ――」


「外環の裁判は速さが命でね。溜まった事件が多すぎる」


 戸松は綾乃へ視線を移し、唇を歪めた。


「どうした、毒婦様。昨日の威勢はどこへ行った? 言っただろう――雨宮の案件は、全部俺が潰す、と」


 綾乃は、静かに一歩前へ出た。


「外環訴追規定、第十九条」


「……あ?」


「『訴追人は、係属中の事件につき、別の被疑者に対する対抗訴追を申し立てることができる』。――明日の午前九時、私は真犯人に対する訴追状を提出します。あなたの筋書きごと、法廷で潰して差し上げますわ」


 戸松の顔から、笑みが消えた。


 だが、すぐに嘲笑が戻ってくる。


「対抗訴追には、被疑者の特定が要る。名前もない幽霊を訴追するつもりか? 期限は明朝九時だぞ」


「存じています」


「……ふん。精々足掻け」


 戸松は外套を翻し、去っていった。


 蒼真がおそるおそる綾乃を見る。


「……あの、如月さん。真犯人の名前、あるんですか」


「ありません」


「ないんだ!?」


「ですから、今から見つけます」


     *


 午前十一時四十分。


 残り時間、あと数分。


 綾乃は店内へ戻り、帳場の前に立った。


(記録を奪われることくらい、毒物商なら想定していたはず。この店のどこかに、写しがある)


 帳場の机。


 銭函。


 薬研。


 そして――天秤と、分銅の箱。


 綾乃の目が、止まった。


 分銅は六個。


 五個は鈍く曇っているのに、一番大きな一個だけ、手擦れで光っている。


(毎日、一番使う分銅なら光っていて当然。でも……一番大きな分銅を、一番使う小売店なんて、ある?)


「蒼真さん。これを、量ってください」


「え? 分銅を、ですか?」


 蒼真は首を傾げつつ、携帯用の秤を取り出した。


 分銅を載せる。


 目盛りを読む。


 その目が、大きく見開かれた。


「軽い……! 刻印より、二割も軽いです! これ、中が空洞だ!」


 雨宮が分銅を受け取り、底の縁へ爪を掛けた。


 ぐ、と捻る。


 カチリ。


 底蓋が回り、中から油紙の小さな巻物が滑り落ちた。


 広げる。


 細かい字で、日付と品名と客名がびっしりと並んでいた。


「……裏帳簿の、写し」


 綾乃は指先で行を追った。


 心臓が、早鐘を打つ。


 目当ての品名は、すぐに見つかった。


〈二月十六日 ラフレア 一瓶 客・鴉 払い・城内手形〉


「城内手形……!」


 蒼真が息を呑んだ。


「城の中でしか発行されない支払い証書ですよ! 外環に出回るはずが……!」


「つまり毒を買ったのは、城に出入りできる人間。嬢ちゃんの発注書より、二ヶ月も前にな」


 雨宮が唸った。


 綾乃は最後の頁をめくる。


 そこには、今朝の日付で、走り書きが一行。


〈鴉、来訪の報せ。昼前。手切れの相談〉


(……手切れ金)


(ヴァリスは、鴉の正体に感づいて、強請ろうとした。だから消された)


「所長ー! みんなー!」


 店の外から、あの使い走りの少年が駆け込んできた。


「思い出したんだ! 俺、今朝この裏の路地で変な奴とすれ違った! 黒ずくめで、フードを被っててさ――」


 少年は自分の左手を掲げる。


「こんなに暑いのに、左手にだけ、手袋してた!」


 空気が、止まった。


 綾乃は雨宮を振り返る。


 そして、言葉を失った。


 雨宮の顔から、あの眠たげな気配が、完全に消えていた。


「……所長?」


 雨宮は懐から、食べかけのたい焼きを取り出し――


 袋へ、戻した。


「左手だけの手袋。茶器を洗う癖。城内手形」


 低い声だった。


「……その三つが揃う男を、俺は一人だけ知ってる」


「誰なんです」


 雨宮は答えず、店の出口へ歩き出した。


「蒼真、証拠を全部箱に詰めろ。嬢ちゃん、訴追状の紙を買って帰る」


「所長。誰なんですか、鴉は」


 雨宮は立ち止まり、振り返らないまま、言った。


「――五年前、俺を中央から追い出した男だ」

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