6.
三日後。午前十一時五十分。
王都・大手門。
石畳を踏む靴音が、門前の喧騒を少しずつ黙らせていった。
旅装ではない。
喪服のような黒のドレスに、外環訴追人の銅章。
綾乃は真っ直ぐに、大手門の中央へ歩いていく。
衛兵たちが、ざわついた。
「おい……あの女……」
「号外の……追放されたはずじゃ」
門衛長らしき大柄な男が、槍を手に進み出る。
「止まれ!」
綾乃は、止まった。
門の影が落ちる、ちょうどその境界線の手前で。
「貴様……如月綾乃だな。追放者の城壁内立ち入りは禁止。違反者は――」
「即時処刑。存じています」
綾乃は微笑んだ。
「ですが門衛長殿。一つ、確認をお忘れですわ」
「なに?」
「その処刑令が適用されるのは、『追放者・如月綾乃』。――私が、その人物であるという確認です」
綾乃は懐から、一枚目の紙を取り出した。
「外環市民証。氏名――雨宮綾乃」
門衛長の眉が、跳ねた。
「二枚目。婚姻証明。三日前、正式に受理されています。如月綾乃という人間は、この日をもって、この国のどの台帳からも消えました」
周囲の衛兵たちが、顔を見合わせる。
「小賢しい……! 名を変えようが、顔は変わらん! 貴様が如月綾乃本人であることなど――」
「証明なさる、と?」
綾乃は、三枚目の紙を広げた。
王太子の印璽が捺された、召喚状。
「では、こちらもご確認を。ユリウス殿下の令旨による召喚状。宛名は――『如月綾乃』。本日正午、中央法廷へ、証人として出頭せよ、と」
綾乃は一歩、境界線へ爪先を寄せた。
「さあ、門衛長殿。二つに一つです」
声は柔らかいまま、刃の冷たさを帯びる。
「私を如月綾乃だと証明し、この場で斬りますか? その瞬間、あなたは勅命で召喚された証人を殺害した大罪人。令旨への反逆です」
「……っ」
「それとも、私は市民・雨宮綾乃だと認めますか? ならば処刑令は適用されず、市民を裁判なしで斬れば、ただの殺人です」
槍の穂先が、揺れた。
「どちらの罪が、お好みです?」
門衛長の額に、汗が伝う。
衛兵たちは誰一人、動けない。
斬っても罪。
斬らなくても、通せば咎めを受けるかもしれない。
その計算が、鎧の中で渦を巻いているのが見えるようだった。
「……ほ、本部へ確認を――」
「その必要はない」
門の内側から、氷のような声がした。
白銀の騎士を従えた文官――氷室が、歩み出てくる。
「勅使として確認する。……貴様は、何者か」
「外環訴追人・第一〇八号、雨宮綾乃。召喚状に基づき、出頭いたしました」
氷室は綾乃の顔を、長いこと見つめた。
その無表情の奥で、何かを測っている。
「……通せ」
「し、しかし勅使殿! この女は――」
「令旨は、この者の『生きた出頭』を命じている。門で死なせれば、責を負うのは貴様だ。通せ」
衛兵たちが、割れた。
綾乃は背筋を伸ばし、門の影を踏み越える。
三日前、二度と潜れないと言われた門を。
正面から。
(――ただいま、王都)
(さっそくですけれど、あなたの飼い主たちを訴えに参りましたわ)
*
同時刻。南港。
正午の鐘が、潮風に流れていった。
定期船〈南栄丸〉の乗船口には、長い列ができている。
その列を見下ろせる木箱の陰で、雨宮は干し肉を齧っていた。
「所長。桟橋の西、封鎖済みです。荷役頭のおじさんたち、二つ返事でした」
蒼真が戻ってくる。
「というか、あの人たち全員、所長に頭が上がらないみたいなんですけど……昔何をしたんですか、この港で」
「昔ちょっとな」
「もうその返事、聞き飽きましたからね僕!」
雨宮は答えず、目を細めた。
列の中ほど。
フードを目深に被った、細身の男。
右手は素手で切符を握り――左手にだけ、灰色の手袋。
「……いたぞ」
雨宮は干し肉を仕舞い、のそりと立ち上がった。
列に沿って、ゆっくりと近づいていく。
太った中年男の散歩にしか見えない足取りで。
だが、フードの男が顔を上げた瞬間――
目が、合った。
男が、弾かれたように列を飛び出す。
「西は塞がってる! 逃げ場は東の網倉だけだ!」
雨宮が怒鳴った。
男は言葉どおり、東の倉庫街へ駆け込んでいく。
「蒼真!」
「はいっ!」
蒼真が白衣から瓶を抜き、先回りの路地へ投げ込んだ。
パリン。
瓶が割れ、路地の石畳に無色の液体が広がる。
直後にそこへ踏み込んだ男の足が、面白いように滑った。
「うわあっ!?」
男はもんどり打って転がり、積まれた漁網へ頭から突っ込む。
網が、生き物のように絡みついた。
「捕獲ー! 摩擦係数、ほぼゼロでーす!」
雨宮がのそのそと追いつき、網の中の男を見下ろした。
「五年ぶりだな――と、言いたいところだが」
男の顔を、覗き込む。
若い。
二十歳そこそこの、見覚えのない顔だった。
雨宮は男の左手を掴み、手袋を引き抜いた。
――火傷の痕が、ない。
滑らかな、若い手の甲。
「……蒼真」
「はい」
「……こいつ、違う」
網の中の男が、半泣きで喚いた。
「か、金は貰ったんだ! 手袋をして、正午の南行きに乗れって、それだけ! 声の柔らかい旦那に、金貨で――!」
「その男は、他に何か」
「て、手紙を! 『太った男が来たら渡せ』って……!」
男が懐から、皺くちゃの封書を差し出す。
雨宮は封を破り、便箋を開いた。
几帳面な、細い字。
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明人君へ
五年ぶりだね。相変わらず、いい鼻だ。
だが、嗅ぐ場所を間違えたよ。
私は南の海には興味がない。興味があるのは――君が拾った、あの娘だ。
彼女はいま頃、壁の内側にいる。
君の入れない場所に、たった一人で。
久しぶりに、городの案内でもしてあげようと思う。
鴉
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便箋を持つ雨宮の手が、震えた。
怒りで。
「両替屋も、船の噂も、全部……こっちを港へ釘付けにするための餌か……!」
雨宮は港の向こう――遥かな城壁を睨んだ。
追放者の自分には、越えられない壁を。
「――綾乃!」
*
同時刻。中央法廷・回廊。
磨き抜かれた大理石が、綾乃の靴音を高く響かせていた。
左右に立ち並ぶ彫像。
高い天井。
三日前まで、自分の世界だった場所。
(法廷は、この回廊の突き当たり)
(証拠の引き渡しも、同じ正午。志摩裁判長の書記官が、今頃別棟に――)
「――お迎えに上がりました」
背後から、声がした。
柔らかい。
綿で耳を撫でるような、奇妙に優しい声。
綾乃は、振り返った。
文官服の男が、立っていた。
中肉中背。薄い笑み。どこにでもいそうな、印象に残らない顔。
その男が、恭しく胸に手を当て、一礼する。
――左手に、灰色の手袋。
綾乃の心臓が、氷の指で掴まれた。
(左手だけの、手袋)
(声の、柔らかい男)
(……鴉)
王を殺し、ヴァリスを殺し、雨宮と私を追放した組織の、実行者。
死んだはずの男が、目の前で微笑んでいる。
「法廷まで、ご案内いたします」
男は身を起こし、回廊の奥を手で示した。
「さあ、どうぞ――『雨宮』綾乃様」




