第4話 真実の影(完全版)
夜の帳が降りる少し前の時間帯だった。まだ空にはわずかに夕焼けの名残が残り、赤い提灯の灯りと混ざり合って独特の色を街に落としている。昼と夜の境界が曖昧になるこの時間は、どこか現実が薄くなるような、不安定な静けさを孕んでいた。
タジは建物の屋上に立ち、街全体を見渡していた。風がゆっくりと流れ、遠くからは人々の話し声や笑い声が聞こえる。それらは平和の象徴のようでありながら、同時にどこか現実味がなかった。夜の帳が降りれば、この景色は簡単に裏返る。
その境界に立ちながら、タジは眉をわずかに寄せた。
胸の奥に引っかかるものがある。
それはここ数日で強くなっていた。
理由はわからない。だが確実に、何かがおかしい。
「……あの歌」
小さく呟く。昨夜聞いたマナの歌声が、頭の奥に残っていた。以前から聞いているはずなのに、どこか違う。足りないようでいて、逆に何かが戻りかけているような、そんな感覚。
歌を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
懐かしさに似た感覚。
だが思い出せない。
手を伸ばせば届きそうなのに、その直前で霧のように消えてしまう。
タジはゆっくりと息を吐いた。
「……何を忘れてる」
自分に問いかけるように呟く。
そのとき、背後から足音がした。
「タジ」
振り返ると、ソウが立っていた。いつものように真っ直ぐな姿勢だが、その表情にはわずかな迷いが浮かんでいる。
「こんなとこで何してんだよ」
「少し、考え事だ」
タジは視線を戻し、街を見下ろす。
「お前こそ、顔に出てるぞ」
ソウは一瞬言葉に詰まる。
自覚はあった。ここ数日、自分の中で何かが揺れている。戦っていても、集中しきれない瞬間がある。剣は振れる。動きも鈍っていない。それでも、心だけが別の場所に引っ張られている。
「……なあ」
ソウは少し迷いながら口を開いた。
「敵ってさ、本当に“敵”なのかな」
その言葉は、思っていたよりも重く落ちた。
タジはすぐには答えなかった。
風が吹き、提灯が揺れる。
遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
そのすべてが、どこか遠い。
「……俺にも、わからん」
タジは低く言った。
「だがな」
少しだけ間を置く。
「わからんまま戦うのは、気持ちのいいもんじゃねぇな」
その言葉に、ソウは静かに頷いた。
胸の奥にある違和感は、確実に膨らんでいた。
理由がわからないまま、敵と戦う。
その構図に、どこか歪みを感じている。
だが、それを証明する材料は何もない。
ただ、感覚だけが残る。
そのときだった。
遠くから、微かに歌声が聞こえてきた。
マナの歌。
ソウの身体が、わずかに反応する。
胸の奥が熱を帯びる。
懐かしい。
なぜかはわからないのに。
理由を探ろうとした瞬間、頭の奥が痛んだ。
「……っ」
思わず顔をしかめる。
だが、その痛みはすぐに消える。
何も残らない。
ただ、空白だけが広がる。
「……どうした」
「いや、なんでもない」
ソウは首を振る。
違和感を押し込めるように。
だが、その感覚は確実に深くなっていた。
同じ頃、別の場所でセイヤは一人、静かに歩いていた。人混みの中に紛れながらも、その存在はどこか浮いている。周囲の喧騒とは切り離されたような、冷たい空気をまとっていた。
その表情は穏やかだった。
いつも通りの、柔らかな微笑み。
だがその内側では、感情が静かに、しかし確実に積み重なっていた。
「……どうして」
小さく呟く。
誰にも届かない声。
視線の先には、昼間見た光景が焼き付いている。
マナとソウ。
並んで歩く姿。
自然に笑い合う距離。
その光景が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
ポケットの中の写真を取り出す。
少し折れ曲がったその紙には、複数の人間が写っていた。
笑っている。
楽しそうに。
その中心にいるのは、マナとソウだった。
その事実が、胸を締めつける。
指先に力が入る。
紙が歪む。
「……違う」
低く呟く。
「あなたは、私のものだ」
言葉にした瞬間、感情が揺れる。
嫉妬。
執着。
そして、失うことへの恐怖。
それらが混ざり合い、形を持たない圧力となる。
次の瞬間、空気が微かに歪んだ。
セイヤの能力が発動する。
見えない力が広がり、記憶の奥へと入り込む。
書き換え。
上書き。
曖昧になりかけたものを、再び固定する。
「……これでいい」
自分に言い聞かせるように呟く。
だがその声には、わずかな揺らぎが残っていた。
夜が訪れる。
夜の帳が降りる。
街は再び、裏側へと変わる。
ソウたちは虚無獣の出現地点へ向かっていた。
空気は重く、これまでとは明らかに違う。
「……数が多いな」
タジが低く言う。
虚無獣の数が増えている。
それだけではない。
形が不安定で、どこか歪んでいる。
まるで、感情そのものが暴走しているかのようだった。
「来るぞ!」
ソウが剣を構える。
虚無獣が一斉に動く。
戦いが始まる。
だが、その最中。
別の気配が現れる。
リョウコとアキト。
そして、少し遅れて現れるセイヤ。
互いに視線がぶつかる。
以前よりも、明らかに敵意が強い。
理由はわからない。
だが、感情だけが先に立つ。
「……来たのね」
リョウコが静かに構える。
「今度こそ終わらせる!」
アキトが飛び出す。
戦いが激化する。
だが、その中でタジの動きがわずかに止まる。
遠くから、歌が聞こえる。
マナの歌。
その旋律が、胸の奥に直接触れる。
次の瞬間。
視界が揺らいだ。
断片的な光景。
笑い合う仲間たち。
同じ場所に立つはずの者たちが、敵ではなく、隣にいる。
「……っ」
頭を押さえる。
息が乱れる。
それでも、確信に近い感覚が落ちてきた。
「……違う」
小さく呟く。
「あの子は……敵じゃない」
その言葉は、誰にも届かない。
だが確実に、真実へと近づいていた。
戦いは続く。
だがその内側で、何かが崩れ始めていた。
記憶。
感情。
関係。
すべてが、少しずつ歪みから解けようとしていた。
夜の帳が、さらに深くなる。
真実は、もうすぐそこまで来ていた。




