第5話 決裂(完全版)
夜の帳が降りると同時に、街の色が変わる。赤い提灯の灯りはそのままなのに、どこか血の色のように濃く見える。昼間は賑やかだった通りも、今は音が遠く、空気だけが重く沈んでいた。見えない膜が世界を覆い、現実から切り離された空間へと変質していく。
その中心で、マナはステージに立っていた。
観客のざわめきが耳に入る。歓声。期待。拍手。そのすべてが、確かにそこにあるのに、どこか遠い。まるでガラス越しに聞いているような感覚だった。
マイクを握る手に力が入る。
深く息を吸う。
歌い始める。
音は出る。旋律は正確に流れる。だが、胸の奥が締めつけられる。
(……違う)
これではない。
歌いながら、はっきりとそう感じていた。
今までと同じはずなのに、今までと同じではいられない。
頭の中に浮かぶのは、昼間の光景だった。
ソウの笑顔。
不器用な言葉。
優しくて、まっすぐな視線。
その記憶が、歌の中に入り込んでくる。
旋律がわずかに揺れる。
観客は気づかない。だがマナ自身にはわかった。音ではない、感情の揺れ。
(……どうして)
胸の奥が熱を帯びる。
今まで感じたことのない感覚。
空っぽだったはずの場所に、何かが流れ込んでくる。
それが怖い。
同時に、手放したくないとも思う。
ステージの袖から、その様子をセイヤが見ていた。
穏やかな表情。
だがその瞳は、ほんのわずかに細められている。
違和感を見逃さない視線。
変化を許さない視線。
マナの歌の中に混じった、わずかな感情の揺れ。
それを、誰よりも正確に感じ取っていた。
(……変わっている)
確信に近い思考。
指先がわずかに動く。
だがこの場では何もしない。
ただ静かに観察する。
制御は後からでもできる。
そう判断していた。
ライブが終わる。
歓声が遠ざかり、静寂が戻る。
控室に戻ったマナは、椅子に腰を下ろした。
呼吸は乱れていない。
体も疲れていない。
だが、心だけが揺れていた。
「……マナ」
扉が開き、セイヤが入ってくる。
変わらない笑顔。
完璧な距離感。
だがその奥にあるものに、マナはわずかな違和感を覚えた。
「最近、外出が増えていますね」
「……少し、気分転換よ」
自然に言葉が出る。
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
セイヤはゆっくりと近づく。
「危険です。敵も動いている」
「わかっているわ」
短いやり取り。
だが、その間に緊張が走る。
「……誰と会っているんですか」
その一言で、空気が変わる。
マナの心臓がわずかに強く打つ。
視線を逸らすことなく答える。
「ただの知り合いよ」
沈黙。
セイヤは何も言わない。
ただ、じっと見つめる。
その視線が、どこか重い。
探られているような感覚。
やがて、セイヤは微笑む。
「そうですか」
それ以上は何も言わない。
だが、その沈黙の中にある圧力は消えなかった。
部屋を出ていく背中を見送りながら、マナは息を吐く。
(……どうして隠したの)
自分に問いかける。
答えは出ない。
ただ、守りたいと思った。
あの時間を。
あの場所を。
その感情が、確かにあった。
同じ頃、夜の帳の中では異変が広がっていた。
ソウたちは虚無獣と戦っている。
だが、いつもとは明らかに違う。
数が多い。
形が不安定。
感情がむき出しになったような、荒々しい存在。
「……なんだこれ」
ソウが呟く。
剣を振るいながらも、違和感を拭えない。
まるで何かに引き寄せられているような動き。
「気をつけろ」
タジが低く言う。
ルイは少し離れた場所で戦いながら、周囲を観察していた。
(……やっぱり)
原因には、気づいている。
だが、まだ動くタイミングではない。
そのとき、別の気配が現れる。
リョウコとアキト。
そしてセイヤ。
空気が一気に張り詰める。
理由は説明できない。
だが、互いに敵だと確信している。
その感情だけが、異様に強い。
「……来たわね」
リョウコが構える。
「今度こそ決着だ!」
アキトが飛び出す。
戦いが始まる。
激しくぶつかり合う力。
だがその中で、ソウの動きがわずかに鈍る。
頭の中に、マナの姿が浮かぶ。
笑っていた顔。
揺れていた瞳。
(……戦いたくない)
その感情が、はっきりと形になる。
だが、剣は止まらない。
止められない。
理由がわからないまま、戦い続けるしかない。
一方で、セイヤの力が広がっていた。
見えない圧力が空間を歪める。
記憶を押し込み、感情を固定する力。
それに対して、ルイだけが影響を受けていなかった。
「ねぇセイヤ」
軽い口調。
だがその声には、わずかな鋭さが混じる。
「最近、やりすぎじゃない?」
「何のことでしょう」
セイヤは穏やかに返す。
だが、その目は冷たい。
ルイは肩をすくめる。
「さぁね。でもさ、これ以上やるとさ」
少し間を置く。
「壊れるよ」
その言葉に、空気が一瞬だけ揺れる。
セイヤの瞳が、ほんのわずかに動く。
だがすぐに元に戻る。
「問題ありません」
その声は、わずかに強かった。
まるで、自分に言い聞かせるように。
戦いが続く。
だがその裏で、確実に何かが崩れ始めていた。
記憶の歪み。
感情の暴走。
そして、それらに呼応するように、空の奥で巨大な影が膨らんでいく。
まだ形を持たない巨大虚無獣。
それは、限界に近づいた感情の象徴だった。
ソウはそれを見上げる。
「……なんだよ、あれ」
胸の奥がざわつく。
嫌な予感がする。
だが同時に、それが無関係ではないと感じていた。
夜の帳が、さらに深くなる。
戦いは続く。
だがその意味は、少しずつ崩れていた。
敵と味方の境界。
正しさと間違いの線。
すべてが曖昧になりながら、物語は決定的な破綻へと向かっていく。
もう、元には戻れない場所まで来ていた。




