第3話 揺らぐ旋律(完全版)
夜の中華街に、再び「夜の帳」が降りる。
赤い提灯の灯りが、いつもよりわずかに鈍く見える。空気は静かに歪み、昼間の賑やかさが嘘のように消えていた。人々は気づかない。ただ「少し疲れた夜だ」と感じるだけで、その裏側にある異変には触れられない。
その中心で、マナはステージに立っていた。
スポットライトが当たり、観客の視線が一斉に集まる。
マイクを握る手は、いつも通り安定している。
準備も、呼吸も、完璧。
それなのに――。
(……空っぽ)
歌い始める前から、わかっていた。
今日も同じだと。
音は出る。
技術も揺らがない。
それでも、何かが足りない。
旋律が夜に溶けていく。
観客は歓声を上げる。拍手が響く。
だがそのすべてが、どこか遠い。
自分がそこにいないような感覚。
五年前から、ずっと続いている違和感。
(……どうして)
問いかけても、答えは返ってこない。
ただ、歌は続く。
同じ頃、夜の帳の中。
ソウは虚無獣と対峙していた。
剣を握る手は迷いなく動く。身体は戦いを覚えている。だがその意識の一部は、別の方向へ引き寄せられていた。
遠くから届く歌声。
あの旋律。
「……まただ」
小さく呟く。
初めて聞いたはずなのに、胸の奥がざわつく。
懐かしいような、痛むような感覚。
理由はわからない。
「ソウ!」
タジの声で我に返る。
虚無獣が目前まで迫っていた。
反射的に剣を振るう。
影を裂き、距離を取る。
戦いは問題なくこなせる。だが集中が揺れているのは自分でもわかっていた。
(……なんなんだよ、この感じ)
歌が耳に残る。
心に引っかかる。
消えない。
ライブが終わる。
観客の歓声が遠ざかり、ステージ裏の静けさが戻る。
マナはゆっくりと息を吐いた。
体は疲れていない。
だが、心だけが重い。
「……ねぇ、マナ」
振り返ると、リョウコが腕を組んで立っていた。
「なにかしら」
「最近、ちょっと変わったわよね」
マナはわずかに目を細める。
「そうかしら」
「歌よ。ほんの少しだけど……昔に近い感じがした」
その言葉に、マナの胸が揺れる。
昔。
その響きに、説明できない空白が広がる。
「……気のせいよ」
そう答える。
だが、自分でも確信はなかった。
歌っている最中、確かに何かが違った。
ほんの一瞬だけ。
感情が乗った気がした。
翌日。
昼の中華街。
マナは無意識のうちに、あの路地へ足を向けていた。
理由は考えない。
考えてしまえば、きっと引き返してしまう。
そして――。
そこに、ソウがいた。
「……やっぱり来たんだ」
少し照れたような笑顔。
それを見た瞬間、胸の奥が温かくなる。
「偶然よ」
「うん、偶然ってことにしとこう」
軽い会話。
それだけなのに、心が満たされていく。
二人で並んで歩く。
何気ない時間。
それが、こんなにも心地いい理由がわからない。
マナはふと立ち止まる。
ショーウィンドウに映る自分の姿。
そこにいるのは、柔らかく笑っている自分だった。
(……こんな顔、してたのね)
少しだけ驚く。
そして、少しだけ怖くなる。
「どうしたの?」
「……なんでもないわ」
ソウの隣にいると、自然と笑ってしまう。
それが、自分の意思なのか、それとも何かに引き寄せられているのか。
わからない。
少し離れた場所。
人混みに紛れて、セイヤが二人を見つめていた。
無表情。
だがその瞳の奥には、抑えきれない感情が渦巻いている。
「……なるほど」
低く呟く。
ポケットから取り出した写真。
そこには、笑い合う仲間たち。
その中心に、マナとソウ。
指先に力が入る。
紙が歪む。
「……ここまでしても」
言葉は穏やか。
だがその奥にあるのは、静かな怒りと、深い執着。
次の瞬間、空気が揺れる。
見えない力が広がり、記憶の奥へと入り込んでいく。
より強く、より確実に。
夕方。
橋の上。
マナとソウは足を止めていた。
風が吹き、提灯が揺れる。
「……君といるとさ」
ソウがぽつりと言う。
「なんか……懐かしいんだよね」
その言葉に、マナの胸が強く脈打つ。
「わたしも……」
思わず言葉が漏れる。
その瞬間、頭の奥に痛みが走る。
断片的な記憶。
笑い声。
触れた手。
歌。
だが、すぐに消える。
掴めない。
「……ごめんなさい」
マナは目を伏せた。
「わたし、婚約者がいるの」
空気が止まる。
ソウは一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「……そっか」
無理をしているのはわかる。
それでも、その優しさが胸に刺さる。
「でもさ、君が笑ってるなら、それでいい」
その言葉に、涙がこぼれそうになる。
理由はわからない。
ただ、心が揺れていた。
夜。
再びステージに立つマナ。
歌が始まる。
その旋律は、昨日とはわずかに違っていた。
空っぽではない。
ほんの少しだけ、感情が滲んでいる。
それはまだ不完全で、不安定で。
だが確かに、変わり始めていた。
夜の帳が深まる。
空の奥で、何かが静かに膨らんでいく。
旋律は揺らぐ。
止まっていたはずの時間が、ゆっくりと動き出していた。




