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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第五章 大陸への第一歩

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アムール川の衝撃

 建久元年(一一九〇年)、盛夏。

 樺太北西部の小岬を背に、十数里——約7キロの海峡を渡りきり、一行はついにユーラシア大陸へと降り立った。だが、新天地で彼らを待ち受けていたのは、異形の地が放つ圧倒的な光景であった。

 彼らの目の前には、海と見紛うばかりの巨大な水面が広がっていた。

 対岸の景色はかすんで見えず、ただ泥をはらんだ黄褐色の水が、うねりを上げて果てしなく続いている。視界を埋める水面みなもは無数の渦で波立ち、根こそぎ引き抜かれた大木が、木の葉さながらに翻弄されながら流れ去っていく。

 それが、ニヴフの長老が「黒い竜」と呼んだ大河、アムール川の河口であった。


「……これが、川だと申すのか」

 藤原時衡が、呆然と呟いた。

 平泉を流れる北上川も、奥州一の大河として知られている。だが、目の前のこの水流に比べれば、庭先の小川に等しかった。

 吹き抜ける風は湿気を帯び、むせ返るような泥と緑の匂いを運んでくる。波が岸辺のあしを打つ音は、地鳴りのように腹の底に響いた。

「凄まじい水かさでござるな。これほどの水が、いったいどこから湧き出ているのやら」

 常陸坊海尊が、錫杖しゃくじょうを突きながら感嘆の声を漏らす。

 義経は、河口の岸辺に立ち、無言でその濁流を見つめていた。

 日本という島国で育った彼にとって、この大河の存在は、己の認識を根底から覆すほどの衝撃だった。

(世界は、これほどまでに巨大だったのか……)

 己の小ささを、まざまざと見せつけられる思いだった。

 兄・頼朝と争った日本での戦など、この大河のひとしずくに過ぎない。自分がこれまでどれほど狭い世界で、小さな誇りにしがみついて生きてきたのかを痛感させられた。

 だが、不思議と絶望はなかった。

 むしろ、胸の奥底からとめどなく湧き上がってくるのは、武者震いにも似た高揚感だった。

「殿」

 武蔵坊弁慶が、義経の傍らに進み出た。

「この小舟では、この激流をさかのぼるのは骨が折れそうですな」

「ああ。だが、行くしかない」

 義経は、腰の太刀の柄に手をやった。

「この川の源流に、俺たちの目指す『草の海』がある。この黒い竜の背を伝って、大陸の奥深くへ食い込むのだ」


 一行は、舟に乗り込み、アムール川の遡上そじょうを開始した。

 亀井六郎と弁慶が交代でぐが、川の流れは重く、遅々として進まない。時折、川岸の浅瀬に舟を寄せ、綱で引っ張りながら歩くこともあった。

 過酷な旅だったが、樺太でのあの白い地獄を生き抜いた彼らにとっては、凍えることのない夏の陽射しだけでも十分な恵みだった。

 川を遡るにつれ、周囲の風景は少しずつその表情を変えていった。

 最初は、天を突くような針葉樹の密林――タイガが、川の両岸に黒々とした壁を作っていた。昼なお暗い森の奥からは、時折、虎や狼の遠吠えが聞こえ、得体の知れない鳥たちが奇妙な声で鳴き交わしている。

 駿河次郎と片岡太郎は、常に弓に矢をつがえ、周囲への警戒を怠らなかった。

「嫌な気配がしますぜ」

 駿河次郎が、森の奥をにらみながら低い声で言った。

「獣だけじゃねえ。誰かに見られているような……」

「我らは、この土地の者からすれば招かれざる客だからな」

 義経が、舟の舳先へさきに座ったまま答える。

「これまでは、誰も住まぬ雪野原を逃げてきた。だが、ここから先は違う。人の領分だ。我らはもはや流浪の旅人ではない。他者の縄張りに踏み込んだ『侵入者』なのだ」

 その言葉に、家臣たちの顔つきが引き締まった。

 藤原秀安は、自らの太刀の鯉口こいぐちを無意識に親指で押し上げていた。平泉の武士としての誇りを胸に秘める彼は、異国の地でいかに振る舞うべきか、常に葛藤を抱えているようだった。


 遡上を始めてから十日ほどが過ぎた頃。

 風景に明らかな変化が現れ始めた。

 鬱蒼うっそうと茂っていた針葉樹林が徐々にまばらになり、代わりに白樺しらかばや広葉樹の林が目立つようになってきた。

 そして、木々の隙間から、見渡す限りの青々とした平原が顔をのぞかせるようになった。

「殿、あれを!」

 亀井六郎が、櫓を休めて岸辺を指差した。

 遠くの平原を、土煙を上げて疾走する影があった。

 馬の群れだった。

 数十頭の野生の馬が、風のように草原を駆け抜けていく。その力強い躍動感に、一行は息を呑んだ。

「見事な馬だ……。奥州の駿馬しゅんめにも劣らぬ」

 時衡が、目を輝かせて手記に書き留める。

「いよいよ、草の海が近づいてきた証拠でござるな」

 海尊が、目を細めて遠くを見つめた。

 義経は立ち上がり、風の匂いを嗅いだ。

 森の湿った匂いが薄れ、乾いた土と草の匂いが強くなっている。

(ジャムカ……。お前が育ったのは、こういう風の吹く場所だったのか)

 十五年前の約束が、再び胸の中で熱を帯びる。


 だが、感傷に浸っている余裕はなかった。

 現実的な問題が、彼らの前に立ち塞がっていた。

「殿、食料が底をつきかけております」

 海尊が、荷物を改めながら沈痛な面持ちで報告した。

「川魚や野鳥を狩ってはおりますが、この先、どれだけ旅が続くか分かりませぬ。何より、この広大な大地を徒歩や小舟で進むには、限界がございます」

「馬が必要だな」

 義経は短く答えた。

「それに、この先の地理や、現地の勢力についての情報も要る。闇雲に進めば、いずれどこかの部族と衝突することになるだろう」

 義経の視線は、時衡に向けられた。

「時衡。お前が平泉から持ち出した砂金は、まだ残っているか」

「はっ。肌身離さず持っております」

 時衡は、懐をポンと叩いた。

「よし。ならば、交易を行う」

 義経は決断を下した。

「長老の話では、この川の流域には女真族の交易の場があるはずだ。そこで砂金を使い、馬と食料、そして情報を手に入れる」

「しかし殿、言葉が通じますでしょうか」

 秀安が懸念を口にする。

「それに、我らのこの異様ななりなり。相手が素直に交易に応じてくれるとは限りませぬ。最悪の場合、身ぐるみがされるやもしれませぬぞ」

「その時は、力で奪うまでだ」

 片岡太郎が、冷たい声で言い放った。

「ならぬ」

 義経は片岡を制した。

「無用な争いは避ける。我らの目的は、この地で野盗になることではない。天下をるための布石を打つことだ。時衡、交渉はお前に任せる。平泉で学んだ知恵を、ここで活かしてみせよ」

 大役を任され、時衡の顔が引き締まった。

「承知いたしました。必ずや、殿の御期待に沿うてみせまする」

 武ならぬ知略、そして対話。かつての「戦の申し子」が、異国の地で新たな指導者としての相貌そうぼうを現し始めていた。


 さらに数日後。

 川幅が少し狭まり、流れが緩やかになった場所で、駿河次郎が前方に何かを発見した。

「殿! 煙です!」

 次郎の指差す先、川岸の小高い丘の向こうから、一筋の煙が立ち上っていた。

 霧の向こうに、木柵を巡らせた異様な集落が見て取れる。岸辺には、一行の小舟など児戯じぎに等しいほどに大きな、帆柱を高く掲げた平底船が、黒々と列をなして繋がれていた。

「あれが、女真族の交易所か……」

 弁慶が、薙刀なぎなたの柄を握り直す。

 集落を囲むように、馬を駆る哨戒しょうかいの兵たちがいた。その身を包むのは硬い革の鎧。手には反りの深い刀や鋭い槍が握られている。これまで目にしてきた狩猟民とは根本から異なる、戦うために鍛え上げられた集団であることは一目で知れた。

「皆、武器は隠せ。敵意がないことを示すのだ」

 義経の命令に、家臣たちは渋々ながらも太刀や弓を毛皮の下に隠した。

 だが、彼らの放つ鋭い気迫までは隠し切れない。

 一歩間違えれば、即座に殺し合いに発展する。そんなヒリヒリとした緊張感が、一行の間に張り詰めていた。

「舟を寄せろ」

 義経の静かな声が響く。

 亀井六郎が力強く櫓を漕ぎ、丸木舟はゆっくりと交易所の船着き場へと近づいていった。


 未知なる文明との、邂逅かいこう。それは、源義経という男が日ノ本の枠を完全に踏み出し、ユーラシアという果てなき大盤へと自らの運命を投じた、記念すべき一歩であった。

 岸辺で待ち受ける女真族の兵士たちが、怪訝そうな顔でこちらを指差し、何事か叫んでいる。

 義経は、舳先に立ち、堂々たる態度で彼らを見据えた。

 その瞳には、恐れは微塵みじんもない。

 ただ、これから始まる新たな戦いへの、冷たく青い炎が燃え盛っているだけだった。


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