アムール川の衝撃
建久元年(一一九〇年)、盛夏。
樺太北西部の小岬を背に、十数里——約7キロの海峡を渡りきり、一行はついにユーラシア大陸へと降り立った。だが、新天地で彼らを待ち受けていたのは、異形の地が放つ圧倒的な光景であった。
彼らの目の前には、海と見紛うばかりの巨大な水面が広がっていた。
対岸の景色は霞んで見えず、ただ泥を孕んだ黄褐色の水が、うねりを上げて果てしなく続いている。視界を埋める水面は無数の渦で波立ち、根こそぎ引き抜かれた大木が、木の葉さながらに翻弄されながら流れ去っていく。
それが、ニヴフの長老が「黒い竜」と呼んだ大河、アムール川の河口であった。
「……これが、川だと申すのか」
藤原時衡が、呆然と呟いた。
平泉を流れる北上川も、奥州一の大河として知られている。だが、目の前のこの水流に比べれば、庭先の小川に等しかった。
吹き抜ける風は湿気を帯び、むせ返るような泥と緑の匂いを運んでくる。波が岸辺の葦を打つ音は、地鳴りのように腹の底に響いた。
「凄まじい水かさでござるな。これほどの水が、いったいどこから湧き出ているのやら」
常陸坊海尊が、錫杖を突きながら感嘆の声を漏らす。
義経は、河口の岸辺に立ち、無言でその濁流を見つめていた。
日本という島国で育った彼にとって、この大河の存在は、己の認識を根底から覆すほどの衝撃だった。
(世界は、これほどまでに巨大だったのか……)
己の小ささを、まざまざと見せつけられる思いだった。
兄・頼朝と争った日本での戦など、この大河のひとしずくに過ぎない。自分がこれまでどれほど狭い世界で、小さな誇りにしがみついて生きてきたのかを痛感させられた。
だが、不思議と絶望はなかった。
むしろ、胸の奥底からとめどなく湧き上がってくるのは、武者震いにも似た高揚感だった。
「殿」
武蔵坊弁慶が、義経の傍らに進み出た。
「この小舟では、この激流を遡るのは骨が折れそうですな」
「ああ。だが、行くしかない」
義経は、腰の太刀の柄に手をやった。
「この川の源流に、俺たちの目指す『草の海』がある。この黒い竜の背を伝って、大陸の奥深くへ食い込むのだ」
一行は、舟に乗り込み、アムール川の遡上を開始した。
亀井六郎と弁慶が交代で櫓を漕ぐが、川の流れは重く、遅々として進まない。時折、川岸の浅瀬に舟を寄せ、綱で引っ張りながら歩くこともあった。
過酷な旅だったが、樺太でのあの白い地獄を生き抜いた彼らにとっては、凍えることのない夏の陽射しだけでも十分な恵みだった。
川を遡るにつれ、周囲の風景は少しずつその表情を変えていった。
最初は、天を突くような針葉樹の密林――タイガが、川の両岸に黒々とした壁を作っていた。昼なお暗い森の奥からは、時折、虎や狼の遠吠えが聞こえ、得体の知れない鳥たちが奇妙な声で鳴き交わしている。
駿河次郎と片岡太郎は、常に弓に矢をつがえ、周囲への警戒を怠らなかった。
「嫌な気配がしますぜ」
駿河次郎が、森の奥を睨みながら低い声で言った。
「獣だけじゃねえ。誰かに見られているような……」
「我らは、この土地の者からすれば招かれざる客だからな」
義経が、舟の舳先に座ったまま答える。
「これまでは、誰も住まぬ雪野原を逃げてきた。だが、ここから先は違う。人の領分だ。我らはもはや流浪の旅人ではない。他者の縄張りに踏み込んだ『侵入者』なのだ」
その言葉に、家臣たちの顔つきが引き締まった。
藤原秀安は、自らの太刀の鯉口を無意識に親指で押し上げていた。平泉の武士としての誇りを胸に秘める彼は、異国の地でいかに振る舞うべきか、常に葛藤を抱えているようだった。
遡上を始めてから十日ほどが過ぎた頃。
風景に明らかな変化が現れ始めた。
鬱蒼と茂っていた針葉樹林が徐々にまばらになり、代わりに白樺や広葉樹の林が目立つようになってきた。
そして、木々の隙間から、見渡す限りの青々とした平原が顔を覗かせるようになった。
「殿、あれを!」
亀井六郎が、櫓を休めて岸辺を指差した。
遠くの平原を、土煙を上げて疾走する影があった。
馬の群れだった。
数十頭の野生の馬が、風のように草原を駆け抜けていく。その力強い躍動感に、一行は息を呑んだ。
「見事な馬だ……。奥州の駿馬にも劣らぬ」
時衡が、目を輝かせて手記に書き留める。
「いよいよ、草の海が近づいてきた証拠でござるな」
海尊が、目を細めて遠くを見つめた。
義経は立ち上がり、風の匂いを嗅いだ。
森の湿った匂いが薄れ、乾いた土と草の匂いが強くなっている。
(ジャムカ……。お前が育ったのは、こういう風の吹く場所だったのか)
十五年前の約束が、再び胸の中で熱を帯びる。
だが、感傷に浸っている余裕はなかった。
現実的な問題が、彼らの前に立ち塞がっていた。
「殿、食料が底をつきかけております」
海尊が、荷物を改めながら沈痛な面持ちで報告した。
「川魚や野鳥を狩ってはおりますが、この先、どれだけ旅が続くか分かりませぬ。何より、この広大な大地を徒歩や小舟で進むには、限界がございます」
「馬が必要だな」
義経は短く答えた。
「それに、この先の地理や、現地の勢力についての情報も要る。闇雲に進めば、いずれどこかの部族と衝突することになるだろう」
義経の視線は、時衡に向けられた。
「時衡。お前が平泉から持ち出した砂金は、まだ残っているか」
「はっ。肌身離さず持っております」
時衡は、懐をポンと叩いた。
「よし。ならば、交易を行う」
義経は決断を下した。
「長老の話では、この川の流域には女真族の交易の場があるはずだ。そこで砂金を使い、馬と食料、そして情報を手に入れる」
「しかし殿、言葉が通じますでしょうか」
秀安が懸念を口にする。
「それに、我らのこの異様ななりなり。相手が素直に交易に応じてくれるとは限りませぬ。最悪の場合、身ぐるみ剥がされるやもしれませぬぞ」
「その時は、力で奪うまでだ」
片岡太郎が、冷たい声で言い放った。
「ならぬ」
義経は片岡を制した。
「無用な争いは避ける。我らの目的は、この地で野盗になることではない。天下を獲るための布石を打つことだ。時衡、交渉はお前に任せる。平泉で学んだ知恵を、ここで活かしてみせよ」
大役を任され、時衡の顔が引き締まった。
「承知いたしました。必ずや、殿の御期待に沿うてみせまする」
武ならぬ知略、そして対話。かつての「戦の申し子」が、異国の地で新たな指導者としての相貌を現し始めていた。
さらに数日後。
川幅が少し狭まり、流れが緩やかになった場所で、駿河次郎が前方に何かを発見した。
「殿! 煙です!」
次郎の指差す先、川岸の小高い丘の向こうから、一筋の煙が立ち上っていた。
霧の向こうに、木柵を巡らせた異様な集落が見て取れる。岸辺には、一行の小舟など児戯に等しいほどに大きな、帆柱を高く掲げた平底船が、黒々と列をなして繋がれていた。
「あれが、女真族の交易所か……」
弁慶が、薙刀の柄を握り直す。
集落を囲むように、馬を駆る哨戒の兵たちがいた。その身を包むのは硬い革の鎧。手には反りの深い刀や鋭い槍が握られている。これまで目にしてきた狩猟民とは根本から異なる、戦うために鍛え上げられた集団であることは一目で知れた。
「皆、武器は隠せ。敵意がないことを示すのだ」
義経の命令に、家臣たちは渋々ながらも太刀や弓を毛皮の下に隠した。
だが、彼らの放つ鋭い気迫までは隠し切れない。
一歩間違えれば、即座に殺し合いに発展する。そんなヒリヒリとした緊張感が、一行の間に張り詰めていた。
「舟を寄せろ」
義経の静かな声が響く。
亀井六郎が力強く櫓を漕ぎ、丸木舟はゆっくりと交易所の船着き場へと近づいていった。
未知なる文明との、邂逅。それは、源義経という男が日ノ本の枠を完全に踏み出し、ユーラシアという果てなき大盤へと自らの運命を投じた、記念すべき一歩であった。
岸辺で待ち受ける女真族の兵士たちが、怪訝そうな顔でこちらを指差し、何事か叫んでいる。
義経は、舳先に立ち、堂々たる態度で彼らを見据えた。
その瞳には、恐れは微塵もない。
ただ、これから始まる新たな戦いへの、冷たく青い炎が燃え盛っているだけだった。




