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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第四章 氷雪の回廊

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大陸の影

 建久元年(一一九〇年)、初夏。

 長く過酷な冬が終わり、北樺太きたからふとの地にも短い夏が訪れようとしていた。

 吹き荒れていた猛吹雪は嘘のように鳴りを潜め、空には抜けるような青空が広がっている。雪解け水が大地を潤し、黒々とした土からは、名も知らぬ高山植物が可憐な白い花を咲かせていた。

 海風には、微かに潮の香りと、遠い異国の土の匂いが混じっている。

 義経一行は、切り立った崖の上に立っていた。

 平泉を脱出してから一年余り。彼らの姿は、かつてのみやびな京の武者や、奥州の誇り高き家臣団のそれとは大きくかけ離れていた。

 直垂ひたたれや腹巻はとうに擦り切れ、今は現地で手に入れた獣の毛皮を幾重にもまとっている。髪は伸び放題で、顔には深いしわと無精髭が刻まれていた。

 だが、その瞳だけは違った。

 飢えと寒さ、そして死の淵を幾度も彷徨さまよい歩いたことで、彼らの目には野生の獣のような鋭い光が宿っていた。もはや彼らは、追われる身の哀れな逃亡者ではない。極限の自然を生き抜いた、強靭きょうじんな戦士の群れへと変貌を遂げていた。


「……見えまするか、殿」

 武蔵坊弁慶が、海風に吹かれながら低い声で言った。

 その巨大な体躯たいくは、幾分か肉が削ぎ落とされ、より武骨な岩山のような威圧感を放っている。彼が指差す先には、灰色の波がうねる海峡が横たわっていた。

 後の世に『間宮海峡』の名で知られる海門――現地の人々がタタール海峡と呼ぶその狭い海の向こうに、それはあった。

 義経は、目を細めて前方を見据えた。

 海霧の向こう側に、黒々とした巨大な陸地が横たわっている。

 左右を見渡しても、その陸地の果ては見えない。ただ延々と、地平線の彼方まで続く圧倒的な質量の壁。

 それが、大陸だった。

「あれが……」

 義経の口から、感嘆の吐息が漏れた。

 日本という島国で育った彼にとって、それは想像を絶する光景だった。海に囲まれた故郷の山々とは違う。底知れぬ奥行きと、途方もない広がりを感じさせる大地。

 世界は、自分が思っていたよりも遥かに巨大だったのだ。


「あそこが、我らの新たな死に場所というわけですな」

 亀井六郎が、肩に担いだ金砕棒かなさいぼうを下ろしながらニヤリと笑った。

「死に場所ではない。生きる場所だ」

 義経は静かに、しかし力強く応えた。

 アイヌの『アットゥシ』にも似た樹皮衣を風にたなびかせ、ここまで一行を導いた地元のニヴフの長老が、厳然としてそこに立っていた。深い皺に覆われた顔に、穏やかな笑みを浮かべている。彼らは樺太の自然と共生する狩猟民であり、義経たちは彼らから多くの生きるすべを学んでいた。

 長老は、海峡の向こうを指差し、独特の抑揚のある言葉で語り始めた。

 常陸坊海尊が、これまでの交流で片言ながら覚えた言葉を紡ぎ、通訳を務める。

「長老が申しております。あの海の向こうには、『黒い竜』が流れていると」

「黒い竜、だと?」

 義経が眉をひそめる。

「はい。途方もなく巨大な川のことでござる。彼らはそれをアムールと呼んでおります。その川は、我らが知る北上川などとは比べ物にならぬほど太く、長く、大陸の奥深くから流れ出ていると」

 海尊の言葉に、藤原時衡が息を呑んだ。

「川が、竜のように……。それほどまでに巨大な川があるというのか」

 時衡は、懐から取り出した手記に、素早く筆を走らせた。平泉の行政を担うはずだった若き文官の血が、未知の知識を前に騒いでいるようだった。


 長老はさらに言葉を続ける。その声には、微かな畏怖いふの色が混じっていた。

「川をさかのぼった先には、彼らとはまた異なる民が住んでいるそうです」

 海尊が慎重に言葉を選ぶ。

女真じょしんと呼ばれる者たち。彼らは馬を操り、鉄の武器を持ち、交易を行っていると。そして……」

 海尊は一度言葉を切り、義経の顔を見た。

「そして、その女真族の背後には、『きん』という名の、途方もなく強大な国がそびえ立っていると申しております」

「金国……」

 義経はその名を口の中で反芻はんすうした。

 平泉にいた頃、宋や高麗こうらいの商人からその名を聞いたことがあった。かつて大陸の北半分を支配し、宋を南へと追いやった強大な騎馬民族の帝国。

「長老によれば、金国の都には、天を突くような高い城壁があり、無数の兵士が鉄のよろいを着て街を守っているとのこと。その富は海のごとく、兵の数は星の数ほどだそうです」

「星の数ほどの兵か。頼朝公の集めた坂東武者など、児戯じぎに等しい数だろうな」

 駿河次郎が、皮肉げに口の端を歪めた。

「だが、それだけではないようです」

 海尊の顔つきが、さらに真剣なものになった。

「金国のさらに西、黒い竜の川をずっと遡った先には、果てしない『草の海』が広がっていると」

「草の海?」

「はい。木々も山もなく、ただ見渡す限りの草原が続く大地。そこには、テングリを信仰し、馬と共に生きる猛き民が群雄割拠しているそうです。彼らは金国に服属しながらも、常に牙を研ぎ、互いに血で血を洗う戦いを繰り広げている……と」


 草の海。馬と共に生きる猛き民。

 その言葉を聞いた瞬間、義経の脳裏に、十五年前の記憶が鮮烈によみがえった。

 ――津軽の海辺。荒れ狂う波の中から助け出した、異国の少年。

 ――ジャムカと名乗ったあの少年は、たしかに「草原」から来たと語っていた。

『いつか、俺は草原の王になる。お前も日本の王になれ。そして、また会おう』

 少年の琥珀こはく色の瞳が、時空を超えて義経を見つめ返してくるようだった。

(ジャムカ……。お前は今、あの広大な草の海のどこかにいるのか)

 義経は、無意識のうちに腰の太刀のつかを握りしめていた。

 手のひらに、じわりと汗がにじむ。

 日本という狭いおりの中で、兄・頼朝との権力闘争に敗れ、北へ北へと逃れてきた。すべてを失い、誇りすらも雪の中に埋もれかけた。

 だが、今、目の前には無限の世界が広がっている。

 金という巨大な帝国。そして、その奥に広がる果てしない草原。

 そこは、血筋や朝廷の権威など何の意味も持たない、純粋な「力」と「知恵」だけが支配する世界だ。


「殿……?」

 弁慶が、主君の様子の変化に気づき、怪訝けげんそうに声をかけた。

 義経の唇の端が、微かに吊り上がっていた。

 それは、一ノ谷の断崖を見下ろした時や、屋島の波間に敵船の隙を見つけた時に見せた、あの狂気をはらんだ笑みだった。

「弁慶」

「はっ」

「俺は、日本ひのもとへの想いを断ち切る」

 その言葉に、家臣たちは息を呑んだ。

 平泉を逃れて以来、彼らの心の底には、いつか頼朝を討ち倒し、再び故郷へ凱旋がいせんするという淡い期待があった。藤原秀安などは、その望郷の念だけで過酷な冬を生き抜いてきたようなものだ。

 だが、義経の言葉は、その未練を根本から断ち切るものだった。

「兄が作った鎌倉の幕府など、あの海峡の向こうに広がる世界に比べれば、水たまりの泥団子に過ぎん。俺は、そんな小さな箱庭の覇権を争うために生まれてきたのではない」

 義経は、海峡に向かって一歩踏み出した。

 吹き付ける風が、彼の毛皮の外套を大きくひるがえす。

「俺は、あの巨大な大陸をう」

 静かな、しかしマグマのような熱を帯びた声だった。

「金国という巨大な城壁。そして、その奥に広がる草の海。そこに生きる猛き民たちを束ね、俺が新たな秩序を作る。日本という過去の亡霊にとらわれるのは、今日で終わりだ」

 義経の瞳には、明確な野心の炎が灯っていた。

 それは、弱者を守るための正義感や、兄への復讐心といった小さな感情ではない。世界そのものを己のてのひらに収めようとする、覇者としての渇望だった。


 沈黙が落ちた。

 波の音だけが、崖の下から響いてくる。

 やがて、片岡太郎が静かに進み出て、義経の背中に向かって片膝をついた。

「殿がどこへ向かおうと、我が弓は殿のためにあります」

 その言葉を皮切りに、駿河次郎が、亀井六郎が、そして海尊が次々と膝をつく。

 時衡は、手記を懐にしまうと、深く頭を下げた。

「父・泰衡の罪をすすぐためにも、この時衡、殿の創る新たな国のために、我が知恵のすべてを捧げまする」

 秀安だけは、一瞬だけ南の空――遠き日本の方向を振り返った。その目には複雑な葛藤の色が浮かんでいたが、やがて覚悟を決めたように、他の者たちにならって膝をついた。

 最後に、弁慶が進み出た。

 巨漢の僧兵は、主君の小さな背中を見つめ、深く、重々しく頷いた。

「殿が修羅の道をくというのなら、この武蔵坊弁慶、どこまでも先陣を切り、血の海を切りひらいてご覧に入れましょうぞ」


 義経は振り返り、忠実な家臣たちを見渡した。

 彼らの顔には、もはや迷いはなかった。

「まずは、あの海峡を渡る」

 義経は、再び大陸を指差した。

「長老に礼を言い、舟を手配しろ。目指すは、大陸から流れ出る黒い竜――アムール川の河口だ。そこから川を遡り、女真族と接触して馬と食料を手に入れる」

「ははっ!」

 家臣たちの力強い返事が、初夏の青空に響き渡った。


 海峡の風が、彼らの背中を強く押した。

 それはまるで、新しい歴史の幕開けを告げる天の息吹のようだった。

 源義経という一人の武将の物語は、ここで終わりを告げる。

 そして今、世界を揺るがす「蒼き狼」の伝説が、この極北の地から静かに産声を上げようとしていた。

 海峡の向こうで、大陸の巨大な影が、彼らを待ち受けるように黒々と横たわっていた。


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