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蒼天の鷹 ~源義経からジンギスカンへ 国を追われた英雄が、蒼き狼となって世界を変える物語~  作者: 双瞳猫
第四章 氷雪の回廊

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白い地獄

 世界は白一色に塗り潰されていた。

 天も地もなく、ただ狂ったように吹き荒れる風と雪だけが、そこにあった。

 義経一行が樺太カラフトに上陸してから、三ヶ月が過ぎようとしていた。

 彼らは今、島の中心部を貫く山脈のふもとで、猛吹雪に閉じ込められていた。

 雪洞せつどう――積もった雪を掘り進めて作った即席の隠れ家の中で、男たちは身を寄せ合っていた。

 外の気温は、吐いた息が瞬時に凍りつくほどに下がっている。だが、雪洞の中は、彼らの体温と小さな灯火のおかげで、かろうじて凍死を免れる温度に保たれていた。


「……食い物は、あとどれくらいだ」

 義経の低い声が、狭い空間に響いた。

 常陸坊海尊が、荷物を改める。その手つきは慎重で、まるで宝石を扱うかのようだった。

「干し肉が三切れ。木の実が一掴み。……以上です」

 沈黙が落ちた。

 八人の大男が生き延びるには、あまりにも少なすぎる量だった。

 ここ数日、まともな食事はしていない。雪を溶かした湯で空腹を紛らわせているが、限界は近かった。

 隅の方で、荒い息遣いが聞こえる。

 藤原秀安だった。

 彼は数日前に高熱を出し、衰弱しきっていた。頬はこけ、目は落ち窪み、かつての精悍せいかんな武者の面影はない。

「……時衡、様……」

 秀安が、かすれた声で呼んだ。

 藤原時衡が、すぐに駆け寄る。

「ここにおります、秀安殿」

「……私を、置いていってください」

 その言葉に、全員の視線が集まった。

 時衡の顔が強張る。

「何を仰るのです」

「足手まといだ……。私がいては、皆……共倒れになる……」

 秀安は、震える手で懐から短刀を取り出そうとした。だが、その力さえ残っていないようで、短刀は雪の床に転がり落ちた。

「武士として……最期くらいは……潔く……」

「馬鹿なことを言うな!」

 時衡が叫んだ。普段の冷静な彼からは想像もできない激昂だった。

 彼は秀安の胸倉を掴み、引き寄せた。

「平泉を出る時、誓ったはずだ! 何があっても、共に生き抜くと! 父上との約束を忘れたか!」

「しかし……食い扶持ぶちが……」

「お前の分は、私がどうにかする! 私の肉を削いででも、お前を生かしてみせる!」

 時衡の目から、涙が溢れ出した。

 理性的で、常に感情を抑えてきた時衡が、初めて見せた激情だった。

 秀安は、時衡の涙を見て、言葉を失った。


 その様子を、義経は冷ややかな目で見つめていた。

 感情に流されている場合ではない。

 大将として、決断を下さねばならない。

「海尊」

 義経が呼んだ。

「残りの食料を、すべて出せ」

 海尊は一瞬ためらったが、無言で干し肉と木の実を並べた。

 義経は小刀を抜き、干し肉を切り分けた。

 等分ではない。

 極端に大きさが違う。

「一番大きな肉は、秀安に食わせろ」

 義経が命じた。

「殿、しかし……」

 亀井六郎が口を挟もうとしたが、義経の鋭い視線に射抜かれて黙り込んだ。

「病人を抱えて移動はできん。秀安が回復せねば、我々はここで全滅だ。これは情けではない。合理的な判断だ」

 義経は、自分には一番小さな欠片かけらを取った。

 そして、残りを他の者たちに配った。

「食ったら、寝ろ。体力を温存しろ」

 そう言って、義経は立ち上がった。

 弓と矢筒を手に取る。

「殿、どちらへ?」

 弁慶が驚いて尋ねた。

「狩りだ」

 義経は短く答えた。

「この吹雪の中でですか!? 自殺行為です!」

 駿河次郎が止めに入ろうとする。

 外は、一寸先も見えぬ猛吹雪に閉ざされていた。一歩踏み出せば、二度と戻ってこれないかもしれない。

「座して死を待つよりはマシだ」

 義経は、毛皮の外套がいとうをきつく締め直した。

「それに、この悪天候なら、獣たちも油断しているかもしれん」

 それは、あまりにも無謀な賭けだった。

 だが、義経の瞳には、揺るぎない光が宿っていた。

 かつて一ノ谷で、断崖絶壁を駆け下りた時の目だ。

 常識や恐怖を飛び越え、不可能を可能にする狂気。

「お供します」

 片岡常春が立ち上がった。

 彼の指は、まだ凍傷の痕が残っていたが、弓を持つ手は確かだった。

「足手まといになるなよ」

 義経は不敵な笑みを浮かべ、雪洞の入り口を閉ざす雪壁を突き崩した。

 猛烈な風雪が吹き込み、中の空気を一瞬で凍らせる。

 義経と片岡は、白い闇の中へと消えていった。


 外の世界は、まさに地獄だった。

 風が四方八方から殴りつけてくる。雪が目に入り、開けていられない。

 義経は、腰に結んだ命綱を頼りに、慎重に進んだ。

 綱の端は、雪洞の入り口の杭に結びつけられている。

 感覚を研ぎ澄ませる。

 視覚は役に立たない。聴覚と、肌で感じる空気の流れだけが頼りだ。

 獣の気配を探る。

 だが、感じるのは死の気配だけだ。

(ここには、何もないのか……)

 絶望が頭をよぎる。

 その時、風の音が変わった。

 ヒュオオオオ……という高い音の中に、低く唸るような音が混じっている。

 義経は足を止めた。

 片岡も気付いたようで、義経の肩を叩き、風下を指差した。

 雪煙の向こうに、巨大な黒い影が揺らめいていた。

 しぐまだ。

 冬籠ふゆごもりし損ねたのか、あるいは飢えで目覚めたのか。

 寝床となる穴を持たぬ、最も危険な荒熊あらぐまだ。

義経は息を飲んだ。

 距離は十間(約18メートル)ほど。

 弓の射程内だが、この強風の中では矢が流される。

 もっと近づかねばならない。

 義経は片岡に合図を送った。

 ――俺がおとりになる。お前は風を読んで射ろ。

 片岡は一瞬躊躇したが、すぐに頷き、矢をつがえた。

 義経は、風上へと回り込むように動いた。

 自分の匂いを熊に気付かせるためだ。

 熊が鼻を動かし、義経の方を向いた。

 その目は赤く充血し、殺気に満ちていた。

 グオオオオッ!

 熊が咆哮し、突進してきた。

 雪を蹴散らし、凄まじい速さで迫る。

 義経は動かない。

 ギリギリまで引きつける。

 五間、三間、二間……。

 熊が立ち上がり、巨大な爪を振り上げた瞬間。

 ヒュッ!

 風を切り裂き、一本の矢が飛んだ。

 矢は熊の右目に深々と突き刺さった。

 片岡の神業かみわざだった。

 熊が苦悶の声を上げ、のけぞる。

 その隙を、義経は見逃さなかった。

 彼は懐に飛び込み、腰の太刀を抜き放った。

 逆手さかてに持ち、熊の心臓めがけて突き上げる。

 ズブリッ!

 厚い毛皮と筋肉を貫き、刃が深々と埋まる。

 熱い血が噴き出し、義経の顔を濡らした。

 熊は断末魔の叫びを上げ、義経を押し潰すように倒れた。

 義経は雪の中に埋もれながら、熊の鼓動が止まるのを感じていた。

 勝った。

 生きた。

 全身の力が抜け、激しい震えが襲ってきた。寒さのためか、興奮のためか。


 雪洞に戻った二人は、英雄として迎えられた。

 血まみれの熊の肉は、彼らにとって黄金よりも価値のあるものだった。

 海尊が手早く解体し、鍋にする。

 肉の焼ける匂いが充満すると、死にかけていた秀安の目にも生気が戻った。

 全員が無言で肉をむさぼり食った。

 生きる力が、体の底から湧き上がってくる。

「……殿」

 時衡が、秀安に肉を食べさせながら言った。

「感謝いたします」

 義経は、熊の毛皮にくるまりながら、短く答えた。

「礼なら片岡に言え。あいつの矢がなければ、俺が熊の餌になっていた」

 片岡は照れくさそうに鼻をこすった。

 その夜、吹雪は止んだ。

 雲の切れ間から、満天の星空が覗いた。

 義経は一人、雪洞の入り口に座り、星を見上げていた。

 北極星が、冷たく輝いている。

(俺は、まだ死なない)

 義経は確信した。

 この過酷な大地が、自分を試している。

 王となる資格があるか、否か。

 ならば、受けて立とう。

 どんな試練も、乗り越えてみせる。


 数日後、秀安の体調が回復し、一行は移動を再開した。

 時衡は、まだ足元の覚束ない秀安を背負って歩いた。

 その背中は、以前よりも大きく、たくましく見えた。

 義経たちの顔つきも変わっていた。

 飢えと寒さ、そして死の恐怖を乗り越えた者だけが持つ、凄みのようなものが漂っていた。

 彼らはもはや、単なる逃亡者ではなかった。

 運命に抗い、自らの力で道を切り開く、強靭な群れとなっていた。


 やがて、風の中に微かな春の匂いが混じり始めた。

 雪解け水がせせらぎを作り、黒い土が顔を出す。

 長い冬の終わり。

 そして、北への旅の終わりが近づいていた。

 彼らの視線の先には、海峡を隔てて横たわる、巨大な影が見え始めていた。

 北の大陸だ。

 海を越えた先にあるという、無限の荒野。  

 そこには、己の武を試すべき新たないくさが待っているはずだった。  

 義経は、目を細めてその影を見つめた。

 胸の奥で、何かがうずいた。

 それは、まだ名付けようのない、野心という名の種火だった。

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