白い地獄
世界は白一色に塗り潰されていた。
天も地もなく、ただ狂ったように吹き荒れる風と雪だけが、そこにあった。
義経一行が樺太に上陸してから、三ヶ月が過ぎようとしていた。
彼らは今、島の中心部を貫く山脈の麓で、猛吹雪に閉じ込められていた。
雪洞――積もった雪を掘り進めて作った即席の隠れ家の中で、男たちは身を寄せ合っていた。
外の気温は、吐いた息が瞬時に凍りつくほどに下がっている。だが、雪洞の中は、彼らの体温と小さな灯火のおかげで、かろうじて凍死を免れる温度に保たれていた。
「……食い物は、あとどれくらいだ」
義経の低い声が、狭い空間に響いた。
常陸坊海尊が、荷物を改める。その手つきは慎重で、まるで宝石を扱うかのようだった。
「干し肉が三切れ。木の実が一掴み。……以上です」
沈黙が落ちた。
八人の大男が生き延びるには、あまりにも少なすぎる量だった。
ここ数日、まともな食事はしていない。雪を溶かした湯で空腹を紛らわせているが、限界は近かった。
隅の方で、荒い息遣いが聞こえる。
藤原秀安だった。
彼は数日前に高熱を出し、衰弱しきっていた。頬はこけ、目は落ち窪み、かつての精悍な武者の面影はない。
「……時衡、様……」
秀安が、かすれた声で呼んだ。
藤原時衡が、すぐに駆け寄る。
「ここにおります、秀安殿」
「……私を、置いていってください」
その言葉に、全員の視線が集まった。
時衡の顔が強張る。
「何を仰るのです」
「足手まといだ……。私がいては、皆……共倒れになる……」
秀安は、震える手で懐から短刀を取り出そうとした。だが、その力さえ残っていないようで、短刀は雪の床に転がり落ちた。
「武士として……最期くらいは……潔く……」
「馬鹿なことを言うな!」
時衡が叫んだ。普段の冷静な彼からは想像もできない激昂だった。
彼は秀安の胸倉を掴み、引き寄せた。
「平泉を出る時、誓ったはずだ! 何があっても、共に生き抜くと! 父上との約束を忘れたか!」
「しかし……食い扶持が……」
「お前の分は、私がどうにかする! 私の肉を削いででも、お前を生かしてみせる!」
時衡の目から、涙が溢れ出した。
理性的で、常に感情を抑えてきた時衡が、初めて見せた激情だった。
秀安は、時衡の涙を見て、言葉を失った。
その様子を、義経は冷ややかな目で見つめていた。
感情に流されている場合ではない。
大将として、決断を下さねばならない。
「海尊」
義経が呼んだ。
「残りの食料を、すべて出せ」
海尊は一瞬ためらったが、無言で干し肉と木の実を並べた。
義経は小刀を抜き、干し肉を切り分けた。
等分ではない。
極端に大きさが違う。
「一番大きな肉は、秀安に食わせろ」
義経が命じた。
「殿、しかし……」
亀井六郎が口を挟もうとしたが、義経の鋭い視線に射抜かれて黙り込んだ。
「病人を抱えて移動はできん。秀安が回復せねば、我々はここで全滅だ。これは情けではない。合理的な判断だ」
義経は、自分には一番小さな欠片を取った。
そして、残りを他の者たちに配った。
「食ったら、寝ろ。体力を温存しろ」
そう言って、義経は立ち上がった。
弓と矢筒を手に取る。
「殿、どちらへ?」
弁慶が驚いて尋ねた。
「狩りだ」
義経は短く答えた。
「この吹雪の中でですか!? 自殺行為です!」
駿河次郎が止めに入ろうとする。
外は、一寸先も見えぬ猛吹雪に閉ざされていた。一歩踏み出せば、二度と戻ってこれないかもしれない。
「座して死を待つよりはマシだ」
義経は、毛皮の外套をきつく締め直した。
「それに、この悪天候なら、獣たちも油断しているかもしれん」
それは、あまりにも無謀な賭けだった。
だが、義経の瞳には、揺るぎない光が宿っていた。
かつて一ノ谷で、断崖絶壁を駆け下りた時の目だ。
常識や恐怖を飛び越え、不可能を可能にする狂気。
「お供します」
片岡常春が立ち上がった。
彼の指は、まだ凍傷の痕が残っていたが、弓を持つ手は確かだった。
「足手まといになるなよ」
義経は不敵な笑みを浮かべ、雪洞の入り口を閉ざす雪壁を突き崩した。
猛烈な風雪が吹き込み、中の空気を一瞬で凍らせる。
義経と片岡は、白い闇の中へと消えていった。
外の世界は、まさに地獄だった。
風が四方八方から殴りつけてくる。雪が目に入り、開けていられない。
義経は、腰に結んだ命綱を頼りに、慎重に進んだ。
綱の端は、雪洞の入り口の杭に結びつけられている。
感覚を研ぎ澄ませる。
視覚は役に立たない。聴覚と、肌で感じる空気の流れだけが頼りだ。
獣の気配を探る。
だが、感じるのは死の気配だけだ。
(ここには、何もないのか……)
絶望が頭をよぎる。
その時、風の音が変わった。
ヒュオオオオ……という高い音の中に、低く唸るような音が混じっている。
義経は足を止めた。
片岡も気付いたようで、義経の肩を叩き、風下を指差した。
雪煙の向こうに、巨大な黒い影が揺らめいていた。
羆だ。
冬籠りし損ねたのか、あるいは飢えで目覚めたのか。
寝床となる穴を持たぬ、最も危険な荒熊だ。
義経は息を飲んだ。
距離は十間(約18メートル)ほど。
弓の射程内だが、この強風の中では矢が流される。
もっと近づかねばならない。
義経は片岡に合図を送った。
――俺が囮になる。お前は風を読んで射ろ。
片岡は一瞬躊躇したが、すぐに頷き、矢をつがえた。
義経は、風上へと回り込むように動いた。
自分の匂いを熊に気付かせるためだ。
熊が鼻を動かし、義経の方を向いた。
その目は赤く充血し、殺気に満ちていた。
グオオオオッ!
熊が咆哮し、突進してきた。
雪を蹴散らし、凄まじい速さで迫る。
義経は動かない。
ギリギリまで引きつける。
五間、三間、二間……。
熊が立ち上がり、巨大な爪を振り上げた瞬間。
ヒュッ!
風を切り裂き、一本の矢が飛んだ。
矢は熊の右目に深々と突き刺さった。
片岡の神業だった。
熊が苦悶の声を上げ、のけぞる。
その隙を、義経は見逃さなかった。
彼は懐に飛び込み、腰の太刀を抜き放った。
逆手に持ち、熊の心臓めがけて突き上げる。
ズブリッ!
厚い毛皮と筋肉を貫き、刃が深々と埋まる。
熱い血が噴き出し、義経の顔を濡らした。
熊は断末魔の叫びを上げ、義経を押し潰すように倒れた。
義経は雪の中に埋もれながら、熊の鼓動が止まるのを感じていた。
勝った。
生きた。
全身の力が抜け、激しい震えが襲ってきた。寒さのためか、興奮のためか。
雪洞に戻った二人は、英雄として迎えられた。
血まみれの熊の肉は、彼らにとって黄金よりも価値のあるものだった。
海尊が手早く解体し、鍋にする。
肉の焼ける匂いが充満すると、死にかけていた秀安の目にも生気が戻った。
全員が無言で肉を貪り食った。
生きる力が、体の底から湧き上がってくる。
「……殿」
時衡が、秀安に肉を食べさせながら言った。
「感謝いたします」
義経は、熊の毛皮にくるまりながら、短く答えた。
「礼なら片岡に言え。あいつの矢がなければ、俺が熊の餌になっていた」
片岡は照れくさそうに鼻をこすった。
その夜、吹雪は止んだ。
雲の切れ間から、満天の星空が覗いた。
義経は一人、雪洞の入り口に座り、星を見上げていた。
北極星が、冷たく輝いている。
(俺は、まだ死なない)
義経は確信した。
この過酷な大地が、自分を試している。
王となる資格があるか、否か。
ならば、受けて立とう。
どんな試練も、乗り越えてみせる。
数日後、秀安の体調が回復し、一行は移動を再開した。
時衡は、まだ足元の覚束ない秀安を背負って歩いた。
その背中は、以前よりも大きく、逞しく見えた。
義経たちの顔つきも変わっていた。
飢えと寒さ、そして死の恐怖を乗り越えた者だけが持つ、凄みのようなものが漂っていた。
彼らはもはや、単なる逃亡者ではなかった。
運命に抗い、自らの力で道を切り開く、強靭な群れとなっていた。
やがて、風の中に微かな春の匂いが混じり始めた。
雪解け水がせせらぎを作り、黒い土が顔を出す。
長い冬の終わり。
そして、北への旅の終わりが近づいていた。
彼らの視線の先には、海峡を隔てて横たわる、巨大な影が見え始めていた。
北の大陸だ。
海を越えた先にあるという、無限の荒野。
そこには、己の武を試すべき新たな戦が待っているはずだった。
義経は、目を細めてその影を見つめた。
胸の奥で、何かが疼いた。
それは、まだ名付けようのない、野心という名の種火だった。




