綺麗な水が、いい水とは限りませんでした。
「池の水が、透明になったって!」
「…………は?」
カイトは手を止めた。
「透明?」
「うん!」
「それの何が大変なんだ?」
「知らない!」
「知らないのかよ」
「だってアルベルトのおじさんが、カイトを呼んでこいって!」
「おじさんって呼ぶな」
小屋の入口から声がした。
「うわっ!」
ミアが飛び上がる。
そこにはアルベルトが立っていた。
昨日までの余裕はない。
「カイト。来てくれ」
「どこへ?」
「私の屋敷だ」
「何があったんです?」
「池がおかしい」
「だから透明に?」
「ああ」
「綺麗になったならいいんじゃないですか?」
アルベルトは少し黙った。
「……魚が、餌を食べなくなった」
カイトの表情が変わった。
◇
アルベルトの屋敷は、想像以上に大きかった。
「でっか……」
ミアが口を開ける。
「口閉じろ」
「カイトの小屋、何個入るかな」
「比較するな。悲しくなる」
庭の奥へ進む。
そこに池があった。
「…………なるほど」
確かに綺麗だ。
底の石まで見える。
透き通った水。
庭師なら喜びそうな池だった。
だが。
「魚は?」
「あそこだ」
アルベルトが指差す。
数匹の魚が、底の方でじっとしている。
ミナではない。
手のひらほどの観賞魚。
赤や白の模様が入った、美しい魚だった。
「《紅白魚》だ。この国では庭園でよく飼われている」
「前からここに?」
「ああ」
カイトはしゃがんだ。
「いつから餌を食べなくなったんです?」
「昨日からだ」
「水を替えました?」
「三日前に」
「どれくらい?」
「全部だ」
カイトが顔を上げた。
「全部?」
「ああ」
「なんでまた」
「池の水が緑色になっていたからだ」
「…………」
嫌な予感がした。
「臭かった?」
「いや」
「魚が死んでた?」
「いや」
「泡立ってた?」
「いや」
「じゃあ、なんで?」
アルベルトが眉をひそめる。
「汚かったからだ」
カイトは池を見る。
透明な水。
綺麗だ。
人間の目には。
「なるほど……」
「何か分かったか?」
「たぶん」
カイトは水へ手を入れた。
冷たい。
「入れ替えた水は?」
「井戸水だ」
「汲んですぐ?」
「ああ」
カイトは頭を掻いた。
前の世界とは水質も環境も違う。
同じ常識がそのまま通用するとは限らない。
だから断言はできない。
ただ。
「急に環境を変えすぎた可能性があります」
「環境?」
「魚にとって、水は家みたいなもんです」
アルベルトが池を見る。
「家?」
「人間から見たら、古くて汚い家でも」
カイトは続ける。
「住んでる本人には、落ち着く場所だったりするでしょう」
「…………」
「それをある日突然、全部壊して、綺麗な家に放り込まれたら」
ミアが言った。
「びっくりする」
「そういうこと」
カイトは立ち上がった。
「綺麗に見える水と、魚にとっていい水は、同じじゃない」
アルベルトは黙っていた。
「戻せるのか?」
「少しずつなら」
「頼む」
「ただし」
カイトは言った。
「すぐ元気になる保証はありません」
「…………」
「生き物なんで」
アルベルトはしばらくカイトを見た。
「分かった」
「ミア」
「なに?」
「出番だ」
「え?」
「グリーンウォーター」
ミアの顔が固まった。
「…………ここで?」
「ああ」
「でも」
ミアがアルベルトを見る。
「汚いって言われるよ」
その声は小さかった。
カイトには分かった。
学校で笑われたことを思い出している。
「大丈夫」
「…………」
「俺がいる」
ミアは少し迷ってから、池の前へ立った。
両手を向ける。
「笑わない?」
アルベルトが首を傾げる。
「何をだ?」
「私の魔法」
「なぜ笑う必要がある」
「…………」
ミアは深く息を吸った。
「《汚水》」
緑色の水が現れた。
アルベルトの顔が固まる。
「…………」
「ほら!」
ミアがカイトを見る。
「やっぱり変な顔した!」
「いや、これは俺でもする」
「カイト!」
「冗談だ」
カイトは笑った。
「少しずつ入れよう」
「これを池に入れるのか?」
アルベルトが聞く。
「あんなに綺麗にしたのに?」
「だから入れるんです」
「…………」
アルベルトは納得していない。
当然だ。
綺麗な池に、わざわざ緑色の水を入れる。
普通なら止める。
「信じてもらうしかないですね」
「お前を?」
「いや」
カイトは魚を指差した。
「こいつらを」
アルベルトが魚を見る。
「答えを出すのは、俺じゃない」
カイトは言った。
「魚です」
◇
その日は、ほんの少しだけ入れた。
そして翌日。
また少し。
三日目。
「カイト!」
「今日は何だよ」
「食べた!」
ミアが走ってくる。
「魚!」
池へ向かう。
アルベルトがすでに立っていた。
「見ろ」
水面へ餌を落とす。
一匹。
ゆっくり上がってくる。
ぱく。
「あ」
ミアが笑う。
もう一匹。
ぱく。
「食べた!」
「ああ」
カイトも笑った。
池は以前より少しだけ緑色になっていた。
底は見えにくくなった。
見た目だけなら――。
三日前より汚い。
「不思議なものだな」
アルベルトが言った。
「何がです?」
「私はこの池を、綺麗にしたかった」
水面を見る。
「客人が来た時、底まで見える方が美しいと思った」
「まあ、人間から見ればそうですね」
「だが」
アルベルトは餌を食べる魚を見ていた。
「魚には、魚の都合がある」
「そうですね」
「私は魚を飼っていたつもりだった」
少し間を置く。
「だが実際は、庭を飾る物として見ていただけなのかもしれんな」
カイトは何も言わなかった。
アルベルトはしゃがむ。
魚が一匹、近づいてきた。
「……こいつ」
「はい?」
「前からこんな顔だったか?」
「知らないですよ」
「毎日見てるんじゃないんですか?」
ミアが言った。
「…………」
アルベルトが黙る。
「見てなかったんだ」
ミアの一言が刺さった。
「…………そうだな」
アルベルトは苦笑した。
「見ていなかった」
しばらく三人で池を眺めた。
誰も喋らなかった。
でも、それでよかった。
◇
帰り道。
「ねえ、カイト」
「ん?」
「綺麗って、何?」
「急に難しいこと聞くなよ」
「だって」
ミアは振り返った。
遠くにアルベルトの屋敷が見える。
「透明な水の方が綺麗だったよ?」
「そうだな」
「でも魚は、今の方が元気」
「そうだな」
「じゃあ、どっちが綺麗なの?」
カイトは少し考えた。
「俺にも分からん」
「またそれ」
「分からないものは分からない」
二人で歩く。
「でも」
カイトは言った。
「人間が綺麗だと思うものと、生き物が幸せなものは、同じじゃないのかもな」
「ふーん」
「聞いといて興味なくすなよ」
「難しい」
「俺もだよ」
ミアが少し先を歩く。
そして突然、振り返った。
「じゃあ私の《汚水》も」
「ん?」
「汚いけど、悪くない?」
カイトは笑った。
「最初からそう言ってるだろ」
「そっか」
ミアは前を向いた。
その日の夕方。
アルベルトは一人で池の前に座っていた。
仕事もせず。
客人も呼ばず。
ただ魚を見ていた。
何時間も。
そして翌朝。
屋敷の使用人が、首を傾げることになる。
池の脇に置かれていた、
《水が濁っておりますので交換します》
という庭師の札に。
アルベルト自身の字で、
一言だけ書き足されていた。
《このままでいい》
と。




