↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/19

綺麗な水が、いい水とは限りませんでした。

「池の水が、透明になったって!」


「…………は?」


 カイトは手を止めた。


「透明?」


「うん!」


「それの何が大変なんだ?」


「知らない!」


「知らないのかよ」


「だってアルベルトのおじさんが、カイトを呼んでこいって!」


「おじさんって呼ぶな」


 小屋の入口から声がした。


「うわっ!」


 ミアが飛び上がる。


 そこにはアルベルトが立っていた。


 昨日までの余裕はない。


「カイト。来てくれ」


「どこへ?」


「私の屋敷だ」


「何があったんです?」


「池がおかしい」


「だから透明に?」


「ああ」


「綺麗になったならいいんじゃないですか?」


 アルベルトは少し黙った。


「……魚が、餌を食べなくなった」


 カイトの表情が変わった。


◇


 アルベルトの屋敷は、想像以上に大きかった。


「でっか……」


 ミアが口を開ける。


「口閉じろ」


「カイトの小屋、何個入るかな」


「比較するな。悲しくなる」


 庭の奥へ進む。


 そこに池があった。


「…………なるほど」


 確かに綺麗だ。


 底の石まで見える。


 透き通った水。


 庭師なら喜びそうな池だった。


 だが。


「魚は?」


「あそこだ」


 アルベルトが指差す。


 数匹の魚が、底の方でじっとしている。


 ミナではない。


 手のひらほどの観賞魚。


 赤や白の模様が入った、美しい魚だった。


「《紅白魚》だ。この国では庭園でよく飼われている」


「前からここに?」


「ああ」


 カイトはしゃがんだ。


「いつから餌を食べなくなったんです?」


「昨日からだ」


「水を替えました?」


「三日前に」


「どれくらい?」


「全部だ」


 カイトが顔を上げた。


「全部?」


「ああ」


「なんでまた」


「池の水が緑色になっていたからだ」


「…………」


 嫌な予感がした。


「臭かった?」


「いや」


「魚が死んでた?」


「いや」


「泡立ってた?」


「いや」


「じゃあ、なんで?」


 アルベルトが眉をひそめる。


「汚かったからだ」


 カイトは池を見る。


 透明な水。


 綺麗だ。


 人間の目には。


「なるほど……」


「何か分かったか?」


「たぶん」


 カイトは水へ手を入れた。


 冷たい。


「入れ替えた水は?」


「井戸水だ」


「汲んですぐ?」


「ああ」


 カイトは頭を掻いた。


 前の世界とは水質も環境も違う。


 同じ常識がそのまま通用するとは限らない。


 だから断言はできない。


 ただ。


「急に環境を変えすぎた可能性があります」


「環境?」


「魚にとって、水は家みたいなもんです」


 アルベルトが池を見る。


「家?」


「人間から見たら、古くて汚い家でも」


 カイトは続ける。


「住んでる本人には、落ち着く場所だったりするでしょう」


「…………」


「それをある日突然、全部壊して、綺麗な家に放り込まれたら」


 ミアが言った。


「びっくりする」


「そういうこと」


 カイトは立ち上がった。


「綺麗に見える水と、魚にとっていい水は、同じじゃない」


 アルベルトは黙っていた。


「戻せるのか?」


「少しずつなら」


「頼む」


「ただし」


 カイトは言った。


「すぐ元気になる保証はありません」


「…………」


「生き物なんで」


 アルベルトはしばらくカイトを見た。


「分かった」


「ミア」


「なに?」


「出番だ」


「え?」


「グリーンウォーター」


 ミアの顔が固まった。


「…………ここで?」


「ああ」


「でも」


 ミアがアルベルトを見る。


「汚いって言われるよ」


 その声は小さかった。


 カイトには分かった。


 学校で笑われたことを思い出している。


「大丈夫」


「…………」


「俺がいる」


 ミアは少し迷ってから、池の前へ立った。


 両手を向ける。


「笑わない?」


 アルベルトが首を傾げる。


「何をだ?」


「私の魔法」


「なぜ笑う必要がある」


「…………」


 ミアは深く息を吸った。


「《汚水》」


 緑色の水が現れた。


 アルベルトの顔が固まる。


「…………」


「ほら!」


 ミアがカイトを見る。


「やっぱり変な顔した!」


「いや、これは俺でもする」


「カイト!」


「冗談だ」


 カイトは笑った。


「少しずつ入れよう」


「これを池に入れるのか?」


 アルベルトが聞く。


「あんなに綺麗にしたのに?」


「だから入れるんです」


「…………」


 アルベルトは納得していない。


 当然だ。


 綺麗な池に、わざわざ緑色の水を入れる。


 普通なら止める。


「信じてもらうしかないですね」


「お前を?」


「いや」


 カイトは魚を指差した。


「こいつらを」


 アルベルトが魚を見る。


「答えを出すのは、俺じゃない」


 カイトは言った。


「魚です」


◇


 その日は、ほんの少しだけ入れた。


 そして翌日。


 また少し。


 三日目。


「カイト!」


「今日は何だよ」


「食べた!」


 ミアが走ってくる。


「魚!」


 池へ向かう。


 アルベルトがすでに立っていた。


「見ろ」


 水面へ餌を落とす。


 一匹。


 ゆっくり上がってくる。


 ぱく。


「あ」


 ミアが笑う。


 もう一匹。


 ぱく。


「食べた!」


「ああ」


 カイトも笑った。


 池は以前より少しだけ緑色になっていた。


 底は見えにくくなった。


 見た目だけなら――。


 三日前より汚い。


「不思議なものだな」


 アルベルトが言った。


「何がです?」


「私はこの池を、綺麗にしたかった」


 水面を見る。


「客人が来た時、底まで見える方が美しいと思った」


「まあ、人間から見ればそうですね」


「だが」


 アルベルトは餌を食べる魚を見ていた。


「魚には、魚の都合がある」


「そうですね」


「私は魚を飼っていたつもりだった」


 少し間を置く。


「だが実際は、庭を飾る物として見ていただけなのかもしれんな」


 カイトは何も言わなかった。


 アルベルトはしゃがむ。


 魚が一匹、近づいてきた。


「……こいつ」


「はい?」


「前からこんな顔だったか?」


「知らないですよ」


「毎日見てるんじゃないんですか?」


 ミアが言った。


「…………」


 アルベルトが黙る。


「見てなかったんだ」


 ミアの一言が刺さった。


「…………そうだな」


 アルベルトは苦笑した。


「見ていなかった」


 しばらく三人で池を眺めた。


 誰も喋らなかった。


 でも、それでよかった。


◇


 帰り道。


「ねえ、カイト」


「ん?」


「綺麗って、何?」


「急に難しいこと聞くなよ」


「だって」


 ミアは振り返った。


 遠くにアルベルトの屋敷が見える。


「透明な水の方が綺麗だったよ?」


「そうだな」


「でも魚は、今の方が元気」


「そうだな」


「じゃあ、どっちが綺麗なの?」


 カイトは少し考えた。


「俺にも分からん」


「またそれ」


「分からないものは分からない」


 二人で歩く。


「でも」


 カイトは言った。


「人間が綺麗だと思うものと、生き物が幸せなものは、同じじゃないのかもな」


「ふーん」


「聞いといて興味なくすなよ」


「難しい」


「俺もだよ」


 ミアが少し先を歩く。


 そして突然、振り返った。


「じゃあ私の《汚水》も」


「ん?」


「汚いけど、悪くない?」


 カイトは笑った。


「最初からそう言ってるだろ」


「そっか」


 ミアは前を向いた。


 その日の夕方。


 アルベルトは一人で池の前に座っていた。


 仕事もせず。


 客人も呼ばず。


 ただ魚を見ていた。


 何時間も。


 そして翌朝。


 屋敷の使用人が、首を傾げることになる。


 池の脇に置かれていた、


《水が濁っておりますので交換します》


 という庭師の札に。


 アルベルト自身の字で、


 一言だけ書き足されていた。


《このままでいい》


 と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。