その汚水、捨てちゃダメでした。
「この水、絶対に捨てるな」
「…………え?」
ミアが目を丸くした。
古びた桶の中には、緑色に濁った水。
ミアが《汚水》と呼んだ魔法で出したものだ。
「なんで?」
「ちょっと待ってくれ」
カイトは桶を持ち上げ、日の光が当たる場所へ移動した。
もう一度見る。
緑色。
透明度は低い。
底までは見えない。
見た目だけなら、確かに綺麗な水とは言えない。
だが――。
「似てる」
「何に?」
「グリーンウォーター」
「ぐりーん……?」
「グリーンウォーター」
「なにそれ」
カイトは腕を組んだ。
「簡単に言えば、植物プランクトンなんかが増えて緑色になった水だ」
「しょくぶつ……ぷら……」
「まあ、緑色の飼育水だと思えばいい」
「じゃあ汚い水じゃん」
「違うんだよ」
「緑だよ?」
「緑だからいい場合もある」
「?」
ミアはまったく納得していない。
無理もない。
前の世界でも、初めて見た人なら同じ反応をする。
綺麗な透明な水。
濁った緑色の水。
どちらで魚を飼いたいかと聞かれれば、大抵の人は透明な水を選ぶだろう。
「特に小さい稚魚を育てるときなんかは、こういう水が役立つことがある」
「赤ちゃん?」
「ああ」
「この汚い水が?」
「だから汚いって決めつけるなって」
カイトは笑った。
「見た目だけじゃ分からないんだよ」
「魚と一緒?」
カイトがミアを見る。
「……そうだな」
少し驚いた。
「よく分かったじゃん」
「だってカイト、ずっとそんなこと言ってるし」
いつの間にか「おじさん」が取れている。
カイトは気づいたが、あえて触れなかった。
「でもな」
もう一度、緑色の水を見る。
「普通のグリーンウォーターなら、こんな一瞬ではできない」
「そうなの?」
「ああ」
そこがおかしい。
ミアは魔法を使った。
そして、その瞬間から水は緑色だった。
「そもそも本当にグリーンウォーターなのかも分からない」
「じゃあやっぱり汚水じゃん」
「それを今から調べる」
「どうやって?」
「魚を入れて――」
そこまで言って、カイトは止まった。
「いや」
「?」
「いきなりクロでは試さない」
どんな水か分からない。
もし毒性があったら終わりだ。
気になるからといって、大切な親魚をいきなり入れる。
そんなことはできない。
「川へ行くぞ」
「また?」
「実験する」
「実験?」
「そう」
カイトは笑った。
「本当に魚に使える水なのか、確かめる」
◇
二人は再び川へ向かった。
「今日はいっぱい捕るの?」
「数匹だけ」
野生のミナを数匹捕まえる。
状態は《選別眼》で確認した。
すべて健康。
特別な特徴はない。
「まず二つに分ける」
一つの容器には普通の川の水。
もう一つには、ミアの《汚水》を少量混ぜた。
「全部それにしないの?」
「比較できないだろ」
「ひかく?」
「どっちがどうなるか比べるんだよ」
「なるほど」
ミアが少し楽しそうになってきた。
「私、研究者みたい」
「まだ水出しただけだけどな」
「むっ」
ミアが頬を膨らませる。
カイトは笑いながら、二つの容器を日当たりのいい場所へ置いた。
「これでしばらく様子を見る」
「今日分かんないの?」
「生き物なんだから、そんなすぐには――」
カイトが言葉を止めた。
「…………ん?」
《汚水》を入れた方。
ミナたちが、水面近くに集まっている。
「どうしたの?」
「いや……」
苦しそうではない。
むしろ逆だ。
何かをついばんでいる。
「食べてる?」
「エサ入れてないよ?」
「分かってる」
カイトが水面へ顔を近づける。
ミナたちは盛んに口を動かしている。
「まさか……」
普通のグリーンウォーターなら、微細な生物などが存在し、稚魚の育成環境として利用されることがある。
だが。
「早すぎるだろ」
魔法で出して、まだほとんど時間が経っていない。
「カイト?」
「ミア。もう一回出せるか?」
「汚水?」
「ああ」
「出せるよ」
ミアが空の器へ手を向けた。
「《汚水》」
ぽちゃん。
また緑色の水が現れる。
「何回くらい使える?」
「分かんない」
「魔力は?」
「ほとんど減らないよ」
「…………マジか」
「だって役に立たない魔法だもん」
カイトは黙った。
もしこれが本当に、グリーンウォーターに近い性質を持っているなら。
いつでも。
ほとんど魔力を使わず。
必要な量を作れる。
「それ……前の世界のメダカ屋が聞いたら欲しがるぞ」
「こんなのを?」
「ああ」
ミアは疑うような顔をしている。
そのときだった。
《条件を満たしました》
「ん?」
カイトの目の前に文字が浮かんだ。
《固有能力・選別眼に補助機能が追加されます》
《飼育環境解析》
「……増えた?」
「何が?」
「ちょっと待って」
カイトは緑色の水を見る。
意識を集中させた。
《名称:???》
《分類:特殊飼育水》
《水質:良好》
《毒性:なし》
《微小生命反応:極大》
《生命活性:SSS》
《魔力濃度:測定不能》
《希少度――》
そこで表示が止まった。
「……おい」
文字が一度消える。
そして。
《希少度:LEGEND》
「…………」
「カイト?」
ミアが顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「…………ミア」
「なに?」
「この魔法のこと、誰かに話したことある?」
「あるよ」
「誰に?」
「学校のみんな」
「…………」
「先生も知ってる」
「なんて言われた?」
ミアは少しだけ目を伏せた。
「役に立たないって」
「…………」
「水を汚すだけだから」
カイトは緑色の水を見る。
生命活性、SSS。
希少度、LEGEND。
役に立たない。
どう考えても話が合わない。
「この世界の人たち……」
「?」
「見る目なさすぎだろ」
「え?」
カイトは笑った。
そして思った。
価値がないと言われていたミナ。
役に立たないと言われていた魔法。
どちらも同じだ。
誰も、ちゃんと見ていなかっただけ。
「ミア」
「なに?」
「これから、その《汚水》――」
カイトは緑色の水を指さした。
「俺以外の前で、あんまり使うな」
「なんで?」
「たぶんこれ……」
一度言葉を止める。
「この世界が思ってるような魔法じゃない」
ミアは首を傾げた。
「でも汚水だよ?」
「だから」
カイトは笑った。
「それ、名前変えようぜ」
「名前?」
「ああ」
前の世界なら、呼び方は決まっている。
緑色の水。
小さな生命を育てる水。
カイトは桶を持ち上げた。
「今日からこれは――」
少し間を置く。
「グリーンウォーターだ」
「ぐりーんうぉーたー……」
ミアが呟く。
「なんかカッコいい!」
「だろ?」
ミアが初めて、自分の《汚水》を見て笑った。
その横で。
緑色の水の中を、一匹のミナが泳いでいた。
まだ誰も気づいていない。
その魚の尾びれの先に――。
ほんのわずかな光が宿り始めていた。




