価値ゼロの小魚、飼うことにしました。
「メダカ屋」
カイトは小さく笑った。
「異世界で、もう一回始めてみるか」
――とは言ったものの。
「金がない」
カイトは市場の端に座り込み、自分の懐を確認した。
何度確認しても何も出てこない。
銅貨一枚すらない。
当然、家もない。
飼育容器もない。
網もない。
エサもない。
あるのは前世の知識と、さっき手に入れた《選別眼》だけ。
「……店どころじゃないな」
まず、自分が生きなければならない。
◇
「兄ちゃん、仕事探してんのか?」
声をかけてきたのは、荷車の横に立っていた大柄な男だった。
「ああ。今日からでも働ける仕事ってある?」
「力仕事でいいなら、いくらでもあるぞ」
「お願いします」
カイトが任されたのは、市場へ届いた荷物を倉庫まで運ぶ仕事だった。
木箱。
麻袋。
樽。
「重っ……!」
魔法で身体能力が上がっている――。
なんてことはなかった。
普通に重い。
「転生特典、選別眼だけかよ……」
「何か言ったか?」
「いや、何でもないです!」
ひたすら運んだ。
昼を過ぎても運んだ。
腕が痛くなっても運んだ。
メダカの水が入った容器を何個も運んでいた経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
夕方。
「ほら、今日の分だ」
男から渡されたのは、銅貨八枚。
「おお……」
異世界で初めて稼いだ金。
カイトは手のひらの銅貨を眺めた。
「飯なら向こうの屋台が安いぞ」
「ありがとう」
男と別れる。
腹は減っている。
かなり減っている。
だが――。
カイトの足が向かったのは、食べ物を売る店ではなかった。
◇
「これ、いくらですか?」
「銅貨三枚だ」
「高っ」
「嫌なら買うな」
カイトが手にしていたのは、古びた木桶だった。
ところどころ傷はある。
だが、水を入れるには問題なさそうだ。
「……二枚にならない?」
「三枚」
「そこをなんとか」
「三枚」
「…………」
異世界でも値切りは難しい。
「買います」
銅貨三枚。
残り五枚。
次に買ったのは、小さな網。
銅貨二枚。
残り三枚。
「飯代……」
一瞬迷った。
さすがに今日は食べなければまずい。
銅貨一枚で硬いパンとスープを買った。
残り二枚。
食事を終えたカイトは、木桶と網を抱えて町を出た。
向かう場所は決まっている。
◇
「いた」
昨日の川。
日が沈む少し前。
十数匹のミナが、昨日と同じように浅瀬を泳いでいる。
「頼むから、まだいてくれよ……」
カイトはしゃがみ込んだ。
一匹ずつ見る。
普通。
普通。
普通。
「違う」
さらに探す。
そして――。
「……いた」
黒い。
間違いない。
昨日の個体だ。
カイトは《選別眼》を使った。
《ミナ》
系統:黒系統
性別:♂
状態:良好
特徴:黒色素・強
特性:微弱魔光
希少度:E
「よし」
まず木桶に川の水を入れる。
それから網を手にした。
「一発でいきたいな」
追い回さない。
進行方向を見る。
ゆっくり網を水へ入れる。
黒い個体が方向を変えた。
「そっちじゃない……」
逃げる。
もう一度。
「おいおい」
三回目。
網を魚の前へ回す。
黒い個体が入った。
「よし!」
すぐに木桶へ移す。
カイトは水面を覗いた。
「…………」
泳いでいる。
問題なさそうだ。
「やっと捕まえた」
たった一匹。
この世界では、銅貨一枚にもならない小魚。
それなのに。
異世界で初めて金を稼いだときより、嬉しかった。
「お前、今日からクロな」
黒いからクロ。
「ネーミングセンスないな、俺」
クロは当然、何も答えない。
カイトは笑った。
「よろしくな」
◇
問題はここからだった。
クロは手に入れた。
だが、泊まる場所がない。
「さすがに木桶抱えて宿屋は……」
そもそも残金は銅貨二枚。
宿など無理だ。
町の外れを歩いていると、一軒の古びた小屋が目に入った。
屋根はある。
壁もある。
ただし、かなりボロい。
「……人、住んでないよな?」
近くにいた老人へ聞いてみる。
「あの小屋ですか?」
「ああ。昔は物置だったが、今は誰も使っとらんよ」
「借りられたりします?」
老人がカイトを見る。
そして木桶を見る。
「何をする気だ?」
「魚を飼いたくて」
「魚?」
「はい」
「…………」
また、この顔だ。
この世界に来てから何度目だろう。
「変わった若者だな」
老人は笑った。
「掃除してくれるなら、しばらく使って構わん」
「本当に?」
「ただし壊したら直せよ」
「ありがとうございます!」
こうしてカイトは、異世界で最初の拠点を手に入れた。
◇
小屋の裏には、小さな井戸があった。
日の当たる場所もある。
「悪くない」
むしろ、メダカを飼うならかなりいい。
カイトは木桶を置いた。
クロが静かに泳いでいる。
「次はメスだな」
魚屋にいた個体を思い出す。
あのメスを手に入れる。
そこから繁殖を始める。
「あとは容器も増やさないとな……」
すでに頭の中では配置を考えている。
ここに一つ。
こっちにも一つ。
稚魚用。
親用。
選別した個体用。
「…………」
カイトは我に返った。
「また容器増やそうとしてるよ、俺」
前世と何も変わっていない。
そのとき。
「ねえ」
「ん?」
後ろから声がした。
振り返る。
そこには、十二歳くらいの少女が立っていた。
明るい茶色の髪。
大きな瞳。
少女は木桶を覗き込む。
「何してるの?」
「魚を飼ってる」
「魚?」
「ああ」
少女はクロを見る。
数秒。
そして――。
「…………それだけ?」
「それだけって?」
「だって」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「そんな小さい魚、何が面白いの?」
「…………」
カイトはクロを見る。
少女を見る。
もう一度、クロを見る。
そして少し笑った。
「それを今から見せてやるよ」
「?」
「この一匹から――」
カイトは黒い小魚を指さした。
「誰も見たことのないメダカを作る」
少女は目をぱちぱちさせる。
「メダカ?」
「ああ」
「ミナでしょ?」
「俺のいた世界じゃ、メダカっていうんだよ」
「ふーん……」
少女はもう一度、クロを覗き込んだ。
「変なの」
「よく言われる」
「名前は?」
「クロ」
「魚じゃなくて、おじさんの」
「…………おじさん?」
「うん」
「俺、三十二なんだけど」
「おじさんじゃん」
「…………」
異世界に転生して三日目。
カイトは初めて――。
元の世界に帰りたいと思った。
少女の名前は、ミア。
この出会いが後に、この世界のメダカ文化を大きく変えることになる。
もちろん、このときの二人は――。
そんなことを知るはずもなかった。




