昨日まで、元気に泳いでいました。
男の子が来なくなって、三日が経った。
「今日も来ないね」
ミアが言った。
「そうだな」
カイトは稚魚の容器を覗きながら答えた。
「毎日来る必要ないだろ」
「でも、最初の日は来たよ」
『エサ食べた!』
それだけを報告するために。
わざわざ走ってきた。
「家で元気にしてるんじゃないか」
「そっか」
「そうだよ」
カイトはそう答えた。
でも。
なぜか少しだけ気になった。
◇
四日目。
セレナが来た。
相変わらずクロより先に、緑色の水を見る。
「魚も見てくださいよ」
「後で見ます」
「うち、メダカ屋なんだけど」
「私は水を調べに来ています」
「知ってます」
セレナが桶の前にしゃがむ。
手をかざす。
淡い光。
「どう?」
ミアが聞いた。
「分かりません」
「今日も?」
「今日もです」
「研究者なのに?」
「研究者だから、分からないものを調べるのです」
「ふーん」
ミアにはよく分からなかったらしい。
カイトには少し分かった。
メダカも同じだった。
分からないから見る。
分からないから掛ける。
分からないから次の世代を待つ。
最初から答えが分かっていたら。
たぶん、こんなに夢中にはならなかった。
◇
昼を過ぎた頃。
小屋の前に。
小さな影が立った。
「あ」
ミアが最初に気づいた。
「来た!」
あの男の子だった。
でも。
走ってこなかった。
いつもの笑顔もない。
一人ではなかった。
母親が隣にいる。
「こんにちは」
母親が頭を下げた。
「こんにちは」
カイトも返す。
男の子は黙っている。
「どうした?」
「…………」
「メダカ、元気か?」
聞いた瞬間。
母親が少しだけ目を伏せた。
カイトは分かった。
「あ……」
男の子が小さな声で言った。
「死んじゃった」
「…………」
ミアの笑顔が消えた。
「昨日の朝まで」
男の子が言う。
「泳いでた」
「うん」
「エサも食べた」
「うん」
「でも学校から帰ったら」
そこで言葉が止まった。
「動かなくなってた」
「…………」
「カイト」
ミアがカイトを見る。
カイトは答えなかった。
「なんで?」
男の子が聞いた。
「俺、エサいっぱいあげてないよ」
「うん」
「水も全部替えてない」
「うん」
「毎日見たよ」
「うん」
「言われた通りにした」
「…………」
「なのに」
男の子が顔を上げた。
「なんで死んだの?」
カイトは。
すぐには答えられなかった。
水温。
水質。
病気。
環境の変化。
考えれば、いくつも理由は浮かぶ。
でも。
魚を見ていない。
水も見ていない。
今ここで答えを出すことはできない。
「分からない」
「…………」
「ごめんな」
「カイトでも?」
「ああ」
「選別眼あるのに?」
ミアが小さく聞いた。
「あれは」
カイトは答える。
「今いるメダカを見る力だからな」
もういない魚は。
見ることができない。
「それに」
少し間を置いた。
「見えたからって、全部助けられるわけじゃない」
男の子が俯いた。
「俺が悪かった?」
「それも分からない」
「…………」
「でも」
カイトはしゃがんだ。
「毎日見たんだろ?」
「うん」
「エサ食べたの、嬉しかった?」
「うん」
「名前つけた?」
「…………つけた」
「なんて?」
「チビ」
「小さいから?」
「うん」
「そっか」
カイトは笑った。
「いい名前だな」
男の子は笑わなかった。
でも。
少しだけ顔を上げた。
◇
「新しいメダカ、渡さないの?」
男の子たちが帰ったあと。
ミアが聞いた。
「なんで?」
「だって死んじゃったから」
「…………」
「もう一匹あげればいいじゃん」
カイトは少し考えた。
「それは俺が決めることじゃない」
「どうして?」
「チビの代わりはいないから」
「…………」
「同じ野生型を渡すことはできる」
「うん」
「似た魚だっている」
「うん」
「でも」
カイトは空になった桶を見る。
「それはチビじゃない」
ミアが黙った。
「欲しくなったら」
カイトは言った。
「また自分で選びに来ればいい」
「来るかな」
「分からん」
「またそれ」
「分からないものは分からない」
ミアが小さく笑った。
◇
その日の夕方。
カイトは一人で容器を見ていた。
クロ。
シロ。
F1。
いつも通り泳いでいる。
ふと。
前の世界のことを思い出した。
仕事が忙しかった日。
一匹だけ。
泳ぎ方がおかしいメダカがいた。
『帰ったら見るか』
そう思った。
そのまま仕事を始めた。
会議。
メール。
資料。
気づけば夜だった。
容器を見ると。
そのメダカは底に沈んでいた。
原因は。
最後まで分からなかった。
「…………」
『朝、もっと見ておけばよかった』
何度も思った。
でも。
時間は戻らなかった。
「カイト」
いつの間にかミアが隣にいた。
「何?」
「なんでもない」
「嘘」
「なんで分かる」
「顔」
「顔か」
昨日の男の子と同じだ。
「ミア」
「なに?」
「俺もあるよ」
「何が?」
「死なせたこと」
ミアが黙る。
「いっぱいある」
「カイトでも?」
「ああ」
「メダカ詳しいのに?」
「詳しくても死ぬ時はある」
「…………」
「だから」
カイトは泳ぐ魚を見る。
「今いるやつを見る」
「毎日?」
「毎日」
「百匹?」
「百匹」
「大変だね」
「ああ」
「でも楽しい?」
カイトは少し考えた。
「楽しいよ」
それだけ答えた。
◇
翌日。
昼過ぎ。
「こんにちは」
男の子が来た。
一人だった。
「お」
カイトはそれ以上何も言わなかった。
男の子は並んだ容器を見る。
クロを見る。
稚魚を見る。
普通の野生型を見る。
長い時間。
ただ見ていた。
「カイト」
「ん?」
「今日は買わない」
「そっか」
「見るだけ」
「いいよ」
しばらくして。
男の子が一匹を指差した。
「こいつ」
「ん?」
「チビにちょっと似てる」
カイトも見る。
「そうか?」
「顔が」
「また顔か」
「うん」
「そっか」
男の子は笑った。
ほんの少しだけ。
その日は。
何も売れなかった。
新しい品種も生まれなかった。
魔法の謎も解けなかった。
クロの光も強くならなかった。
ただ。
一人の子供が。
もう一度、メダカを見に来た。
それだけの日だった。
でもカイトは。
こういう日を。
たぶん忘れないだろうと思った。




