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12/19

昨日まで、元気に泳いでいました。

男の子が来なくなって、三日が経った。


「今日も来ないね」


 ミアが言った。


「そうだな」


 カイトは稚魚の容器を覗きながら答えた。


「毎日来る必要ないだろ」


「でも、最初の日は来たよ」


『エサ食べた!』


 それだけを報告するために。


 わざわざ走ってきた。


「家で元気にしてるんじゃないか」


「そっか」


「そうだよ」


 カイトはそう答えた。


 でも。


 なぜか少しだけ気になった。


◇


 四日目。


 セレナが来た。


 相変わらずクロより先に、緑色の水を見る。


「魚も見てくださいよ」


「後で見ます」


「うち、メダカ屋なんだけど」


「私は水を調べに来ています」


「知ってます」


 セレナが桶の前にしゃがむ。


 手をかざす。


 淡い光。


「どう?」


 ミアが聞いた。


「分かりません」


「今日も?」


「今日もです」


「研究者なのに?」


「研究者だから、分からないものを調べるのです」


「ふーん」


 ミアにはよく分からなかったらしい。


 カイトには少し分かった。


 メダカも同じだった。


 分からないから見る。


 分からないから掛ける。


 分からないから次の世代を待つ。


 最初から答えが分かっていたら。


 たぶん、こんなに夢中にはならなかった。


◇


 昼を過ぎた頃。


 小屋の前に。


 小さな影が立った。


「あ」


 ミアが最初に気づいた。


「来た!」


 あの男の子だった。


 でも。


 走ってこなかった。


 いつもの笑顔もない。


 一人ではなかった。


 母親が隣にいる。


「こんにちは」


 母親が頭を下げた。


「こんにちは」


 カイトも返す。


 男の子は黙っている。


「どうした?」


「…………」


「メダカ、元気か?」


 聞いた瞬間。


 母親が少しだけ目を伏せた。


 カイトは分かった。


「あ……」


 男の子が小さな声で言った。


「死んじゃった」


「…………」


 ミアの笑顔が消えた。


「昨日の朝まで」


 男の子が言う。


「泳いでた」


「うん」


「エサも食べた」


「うん」


「でも学校から帰ったら」


 そこで言葉が止まった。


「動かなくなってた」


「…………」


「カイト」


 ミアがカイトを見る。


 カイトは答えなかった。


「なんで?」


 男の子が聞いた。


「俺、エサいっぱいあげてないよ」


「うん」


「水も全部替えてない」


「うん」


「毎日見たよ」


「うん」


「言われた通りにした」


「…………」


「なのに」


 男の子が顔を上げた。


「なんで死んだの?」


 カイトは。


 すぐには答えられなかった。


 水温。


 水質。


 病気。


 環境の変化。


 考えれば、いくつも理由は浮かぶ。


 でも。


 魚を見ていない。


 水も見ていない。


 今ここで答えを出すことはできない。


「分からない」


「…………」


「ごめんな」


「カイトでも?」


「ああ」


「選別眼あるのに?」


 ミアが小さく聞いた。


「あれは」


 カイトは答える。


「今いるメダカを見る力だからな」


 もういない魚は。


 見ることができない。


「それに」


 少し間を置いた。


「見えたからって、全部助けられるわけじゃない」


 男の子が俯いた。


「俺が悪かった?」


「それも分からない」


「…………」


「でも」


 カイトはしゃがんだ。


「毎日見たんだろ?」


「うん」


「エサ食べたの、嬉しかった?」


「うん」


「名前つけた?」


「…………つけた」


「なんて?」


「チビ」


「小さいから?」


「うん」


「そっか」


 カイトは笑った。


「いい名前だな」


 男の子は笑わなかった。


 でも。


 少しだけ顔を上げた。


◇


「新しいメダカ、渡さないの?」


 男の子たちが帰ったあと。


 ミアが聞いた。


「なんで?」


「だって死んじゃったから」


「…………」


「もう一匹あげればいいじゃん」


 カイトは少し考えた。


「それは俺が決めることじゃない」


「どうして?」


「チビの代わりはいないから」


「…………」


「同じ野生型を渡すことはできる」


「うん」


「似た魚だっている」


「うん」


「でも」


 カイトは空になった桶を見る。


「それはチビじゃない」


 ミアが黙った。


「欲しくなったら」


 カイトは言った。


「また自分で選びに来ればいい」


「来るかな」


「分からん」


「またそれ」


「分からないものは分からない」


 ミアが小さく笑った。


◇


 その日の夕方。


 カイトは一人で容器を見ていた。


 クロ。


 シロ。


 F1。


 いつも通り泳いでいる。


 ふと。


 前の世界のことを思い出した。


 仕事が忙しかった日。


 一匹だけ。


 泳ぎ方がおかしいメダカがいた。


『帰ったら見るか』


 そう思った。


 そのまま仕事を始めた。


 会議。


 メール。


 資料。


 気づけば夜だった。


 容器を見ると。


 そのメダカは底に沈んでいた。


 原因は。


 最後まで分からなかった。


「…………」


『朝、もっと見ておけばよかった』


 何度も思った。


 でも。


 時間は戻らなかった。


「カイト」


 いつの間にかミアが隣にいた。


「何?」


「なんでもない」


「嘘」


「なんで分かる」


「顔」


「顔か」


 昨日の男の子と同じだ。


「ミア」


「なに?」


「俺もあるよ」


「何が?」


「死なせたこと」


 ミアが黙る。


「いっぱいある」


「カイトでも?」


「ああ」


「メダカ詳しいのに?」


「詳しくても死ぬ時はある」


「…………」


「だから」


 カイトは泳ぐ魚を見る。


「今いるやつを見る」


「毎日?」


「毎日」


「百匹?」


「百匹」


「大変だね」


「ああ」


「でも楽しい?」


 カイトは少し考えた。


「楽しいよ」


 それだけ答えた。


◇


 翌日。


 昼過ぎ。


「こんにちは」


 男の子が来た。


 一人だった。


「お」


 カイトはそれ以上何も言わなかった。


 男の子は並んだ容器を見る。


 クロを見る。


 稚魚を見る。


 普通の野生型を見る。


 長い時間。


 ただ見ていた。


「カイト」


「ん?」


「今日は買わない」


「そっか」


「見るだけ」


「いいよ」


 しばらくして。


 男の子が一匹を指差した。


「こいつ」


「ん?」


「チビにちょっと似てる」


 カイトも見る。


「そうか?」


「顔が」


「また顔か」


「うん」


「そっか」


 男の子は笑った。


 ほんの少しだけ。


 その日は。


 何も売れなかった。


 新しい品種も生まれなかった。


 魔法の謎も解けなかった。


 クロの光も強くならなかった。


 ただ。


 一人の子供が。


 もう一度、メダカを見に来た。


 それだけの日だった。


 でもカイトは。


 こういう日を。


 たぶん忘れないだろうと思った。

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