役立たずの魔法に、名前はありませんでした。
第2章 名前のない水 スタートです。
「この水を作ったのは、誰ですか?」
銀髪の女性は、もう一度聞いた。
視線の先にあるのはクロではない。
昨日、魔光が発現した稚魚でもない。
小屋の隅に置かれた桶。
その中の、緑色の水だった。
「…………」
ミアが黙っている。
いつもなら。
『私!』
くらい言いそうなのに。
「俺じゃないです」
カイトが答えた。
「では、誰が?」
「ミアです」
「カイト!」
「なんだよ」
「なんで言うの!」
「なんでって……」
ミアがカイトの後ろに隠れた。
銀髪の女性が少し眉を上げる。
「あなたが?」
「…………はい」
「どのように?」
「魔法……です」
「水属性魔法ですか?」
「たぶん……」
「たぶん?」
ミアがますます小さくなる。
「《汚水》っていう魔法で……」
「汚水?」
女性の表情が変わった。
ミアの肩が小さく動く。
カイトは気づいた。
たぶん。
この顔を、ミアは何度も見てきたのだ。
『汚水?』
『そんな魔法、何に使うんだ?』
『普通の水も出せないのか?』
そんな顔。
「やっぱり変ですよね」
ミアが小さな声で言った。
「学校でも言われました」
「…………」
「《ウォーター》なら普通の水が出るのに、これは緑色で」
「ミア」
「臭くはないんです。でも、見た目が汚いから――」
「少し待ってください」
女性がしゃがんだ。
緑色の水を覗き込む。
そして。
水面の上に手をかざした。
指先に淡い青色の光が集まる。
「何してるんです?」
「魔力の流れを見ています」
「そんなことできるんだ」
「初歩的な解析魔法です」
「俺、魔法使えないんで」
「そうですか」
「興味ない?」
「今は水の方が重要です」
「はい」
ちょっと冷たい。
女性はそのまま黙り込んだ。
十秒。
二十秒。
一分。
「…………」
「…………」
「…………」
長い。
ミアがカイトの服を引っ張る。
「怒ってる?」
「知らん」
「爆発したりしない?」
「水が?」
「魔法が」
「俺に聞くなよ」
ようやく。
女性が手を下ろした。
「分かりません」
「え?」
カイトとミアの声が重なった。
「分からない?」
「はい」
「そんな堂々と?」
「分からないものを、分かると言う方が問題でしょう」
「それはそうですけど」
女性は立ち上がった。
「申し遅れました」
服についた埃を払う。
「私はセレナ。王立魔法研究院で水属性魔法を研究しています」
「王立魔法研究院……」
カイトには、その肩書きがどれほどすごいのか分からない。
だが。
ミアの顔を見る限り。
「すごい人?」
「すっごい人!」
「なるほど」
「あなた、知らないのですか?」
「最近こっちに来たんで」
「どこから?」
「そこ説明すると長いです」
「では後で聞きます」
「聞くんだ」
セレナは再び緑色の水を見る。
「少なくとも、私はこの水を知りません」
ミアが俯いた。
「やっぱり……変な魔法なんだ」
「はい」
「…………」
「極めて変です」
「ほら!」
「俺に怒るなよ」
「ただし」
セレナが続けた。
「変であることと、価値がないことは別です」
「…………え?」
ミアが顔を上げる。
「むしろ逆です」
セレナの目が少しだけ輝いていた。
「既存の魔法体系に分類できない水属性魔法など、私は初めて見ました」
「でも」
ミアが緑色の水を見る。
「《汚水》ですよ?」
「それです」
「え?」
「《汚水》という魔法についても、私は知りません」
「…………」
「少なくとも王立魔法研究院が分類している水属性魔法の中に、その名称はありません」
「でも学校で……」
「誰がその名前をつけたのですか?」
「先生」
「術式を調べて?」
「…………」
ミアが考える。
「私がこれを出したら」
少し間を置いて。
「『なんだその汚水は』って」
「…………」
セレナが黙った。
カイトも黙った。
「それ」
カイトが言った。
「魔法の名前じゃなくない?」
「…………」
「ただの悪口じゃん」
「…………」
ミアの顔が赤くなる。
「うるさい!」
「俺、悪くないだろ!」
「ずっと《汚水》って呼んでた!」
「お前がそう言ったからだろ!」
「カイトも言ってた!」
「だから名前だと思ってたんだよ!」
「二人とも」
セレナが冷静に割って入る。
「うるさいです」
「はい」
「はい……」
セレナが緑色の水を見る。
「つまり」
静かに言った。
「この魔法には、まだ名前がない可能性があります」
「名前が……ない」
ミアが呟いた。
「はい」
「じゃあ」
少しだけ不安そうに。
「これ、本当は《汚水》じゃないの?」
「少なくとも私は、そう呼ぶ理由を知りません」
「…………」
「あなたは?」
「え?」
「なぜ自分の魔法を《汚水》と呼んでいるのです?」
「だって」
ミアは緑色の水を見る。
「みんながそう言うから」
「そうですか」
セレナはそれ以上、何も言わなかった。
ただ。
もう一度、水に手をかざす。
「私は」
淡い光が水面を照らした。
「美しいと思います」
「…………え?」
「この水が?」
「はい」
「緑なのに?」
「緑色だと美しくないのですか?」
「だって汚いし」
「何を基準に?」
「…………」
ミアが困る。
「透明な方が綺麗じゃん」
それを聞いて。
カイトは少し笑った。
「アルベルトも同じこと言ってたな」
「あ」
綺麗にしようとして。
池の水を全部替えて。
魚の調子を崩した。
「人間って透明な水好きだよな」
「魚は違うの?」
「場合による」
「またそれ」
「生き物に絶対はないって言っただろ」
セレナがカイトを見る。
「あなたは、この水について何か知っているのですか?」
「似たものなら」
「教えてください」
「俺のいた世界では、グリーンウォーターって呼んでました」
「グリーン……ウォーター」
「緑の水。そのまんまです」
「用途は?」
「メダカの飼育です。特に小さい稚魚なんかには使うことがあります」
「なぜ?」
「そこ説明すると――」
「長くても構いません」
「食いつくなあ」
セレナは本当に研究者らしい。
「ただ」
カイトは緑色の水を見る。
「俺の知ってるグリーンウォーターと、ミアの魔法が同じものかは分かりません」
「なぜです?」
「ここは俺のいた世界じゃないからです」
「…………」
「似てるからって、同じとは限らない」
カイトは言った。
「だから俺も、まだ試してる途中です」
セレナが少しだけ目を細めた。
「意外ですね」
「何が?」
「もっと断言する人かと思いました」
「魚飼ってたら、断言できないことばっかりですよ」
「…………」
「昨日まで元気だったやつが、急に調子崩すこともある」
原因が分かることもある。
最後まで分からないこともある。
「だから」
カイトは桶を見る。
「見るしかない」
「見る?」
「毎日」
その時だった。
「カイトー!」
外から声がした。
「あ?」
小さな男の子が走ってくる。
昨日。
普通の野生型のミナを買っていった子だ。
「どうした?」
「食べた!」
「…………何が?」
「メダカ!」
「何を?」
「エサ!」
「…………」
カイトはしばらく男の子を見る。
「それだけ?」
「うん!」
「それ言いに来たの?」
「うん!」
「わざわざ?」
「うん!」
満面の笑みだった。
「そっか」
カイトも笑った。
「よかったな」
「うん!」
「ちゃんと少しだけにしたか?」
「した!」
「水は?」
「替えてない!」
「よし」
「じゃあね!」
「もう帰るのかよ」
「お母さん待ってる!」
男の子は走っていった。
「転ぶなよー!」
「はーい!」
静かになった。
「…………」
セレナが外を見ている。
「今の子は?」
「昨日、ここでミナを買ってくれた子です」
「ミナを?」
「はい」
「どのような個体です?」
「普通の野生型」
「特別な特徴は?」
「ないです」
「魔光は?」
「ない」
「珍しい色は?」
「普通」
「では、なぜ?」
「何がです?」
「あれほど嬉しそうなのです?」
「…………」
カイトは少し考えた。
「自分のメダカだからじゃないですか」
「自分の……」
「たぶん」
初めて飼った一匹。
餌を食べただけで嬉しい。
泳いでいるだけで気になる。
朝起きたら見る。
家に帰ったら見る。
カイトにも覚えがある。
「珍しいとか」
カイトは言った。
「高いとか」
「…………」
「そういうの知る前って、あんな感じなんですよ」
セレナは何も言わなかった。
「まあ」
カイトは笑う。
「知った後も面白いですけどね」
「あなたは?」
「え?」
「なぜミナを?」
「…………」
少し考える。
なぜだろう。
最初は。
暇だったからだ。
家にいる時間が増えて。
なんとなく飼い始めた。
それだけだった。
「分かりません」
「分からない?」
「気づいたら増えてました」
「魚が?」
「容器が」
「…………」
「魚飼ってる人にはよくあることです」
「そうなのですか?」
「たぶん」
ミアが笑った。
◇
夕方。
セレナが帰る時間になった。
「また来ます」
「やっぱり来るんだ」
「当然です」
セレナは緑色の桶を見る。
「これを調べたい」
ミアが少し不安そうな顔をした。
「持っていくの?」
「いいえ」
セレナは首を振った。
「ここで調べます」
「なんで?」
「あなたの魔法ですから」
「…………」
「それに」
セレナがカイトを見る。
「飼育環境ごと観察した方がいい」
「分かってるじゃないですか」
「研究者ですから」
「さすが」
セレナが帰っていく。
ミアはその背中を見送っていた。
「カイト」
「ん?」
「私の魔法」
「うん」
「本当に変じゃないのかな」
「変だろ」
「…………」
「痛っ!」
蹴られた。
「最後まで聞けよ!」
「変って言った!」
「変だから面白いって話だよ!」
「先に言って!」
「無茶言うな」
ミアは頬を膨らませる。
しばらくして。
緑色の桶を見る。
「名前」
「ん?」
「本当は何ていうのかな」
「さあな」
「カイト、知らない?」
「俺が知ってるのはグリーンウォーター。でも、それがこいつの本当の名前かは分からない」
「そっか」
「調べればいい」
「誰が?」
「俺たちで」
「…………」
「セレナもいるし」
ミアが少し笑った。
「うん」
夕日が小屋に差し込む。
クロが泳いでいる。
シロが泳いでいる。
その隣では。
百匹近い子供たちが、小さな体で水を切っている。
その中には。
昨日、ミアが見つけた一匹。
《微弱魔光》を受け継いだ子もいる。
そして。
緑色の水。
名前のない魔法。
カイトはそれらを眺めた。
異世界に来た時。
何もなかった。
金も。
家も。
剣も。
魔法も。
あったのは。
川を泳ぐ、価値のない小魚だけだった。
今は。
クロがいる。
シロがいる。
子供たちがいる。
ミアがいる。
変な研究者まで来た。
「…………」
「どうしたの?」
「いや」
カイトは小屋の入口を見る。
そこには。
少し曲がった木の板が掛かっている。
『メダカ屋』
「始まったなと思って」
「何が?」
「メダカ屋」
ミアが首を傾げる。
「もう始まってるよ?」
「そうだな」
「昨日メダカ売れたし」
「そうだった」
「忘れたの?」
「忘れてないよ」
「怪しい」
「うるさい」
二人で笑った。
銅貨一枚にもならないと言われた魚を。
欲しいと言う人が現れた。
役に立たないと言われた魔法を。
美しいと言う人が現れた。
魚も。
水も。
昨日から何も変わっていない。
変わったのは。
それを見る人だった。
カイトはクロを見る。
黒い小さな魚が。
夕日の中で。
一瞬だけ金色に光った。
「ミア」
「なに?」
「明日も見るぞ」
「何を?」
「全部」
「百匹?」
「百匹」
「また?」
「当たり前だろ」
「大変だね」
「楽しいぞ」
「変なの」
「お前に言われたくない」
異世界の小さなメダカ屋。
客はまだ、ほとんどいない。
看板だって曲がっている。
それでも。
ここから始めよう。
誰も知らない魚を。
誰も知らない水を。
まだ誰も知らない、この世界のメダカを。




