9嵐の前の心地よさ
昨夜は、ふかふかのベッドでぐっすり寝た。
朝を迎えて、目をこすりながら身体を起こした。
…それだけのことで、感傷に浸ってしまう。
それから今日はビルクさんの当番ということで、朝食を作って貰った。
パンと温かいシチュー。
食べたことのない食材があって、新鮮だった。
「それ、何書いてるんだ?」
「あっ…ええと」
つい胸の奥にじんわりと染みる感慨に浸っていたところで。
私はビルクさんの言葉にはっと息を吸い込んだ。
「ケルベロスの事を調べていて、さっき王都大図書館で借りてきたんです。狩りの方はビルクさんに任せるにしても、ちょっと興味が湧いたので」
ナバナから大図書館までは直ぐで、五分ほどで借りて帰って来れる。丁度朝食を食べた後で行ってきたのだ。戻ってきて私は、カウンターの椅子に腰をかけて、広げた手帳に書き込んでいた。
店頭の端に小さな椅子を置き、ランプを傍に大剣を手入れしていたビルクさんは、布を動かしたまま口を開いた。
「魔物に興味があるのか?」
「あ…はい!昔から昔から魔物を近くで観察するのが好きで、──あの時も」
湧き上がった感情に言葉はゆっくり沈んでいくけど、悪い感じはしなかった。
不謹慎かもしれないけど、寧ろあの“コカトリス”の日があったからこそ、今があるから。
「コカトリスの時もか。逆に今までよく生きてこれたな」
「えへへ…隠れるのは結構得意だったので」
それでもドジをして襲われてしまったのだから、自慢は出来ないけれど。
そんな私をビルクさんは不思議そうに見つめてから、言った。
「それなら、着いていくか?」
「えっ?」
ふいっと私は手帳から顔を上げて、ビルクさんの方を見た。
「着いていくって、どういうことですか?」
「ケルベロスの狩りにだ。絶対に安全とは言い切れないが、今までもそうだったんだろう?」
ビルクさんが目線を大剣に戻し手入れを始めたのを見て、私も考えるようにノートに視線を移した。
視界に、さっきまで書いていた文章が目に入る。
「……私も」
ノートを見ていると、膨れ上がるように気持ちが高まってくる。
私はビルクさんに顔を向けて、言葉を放った。
「私も、着いていって…良いですか?」
「死ぬかもしれないぞ」
「ビルクさんの足手まといになるなら、遠慮しますけど」
「そうか、なら着いてくると良い」
大剣の手入れをしながら淡々と。
自信満々に言い放つビルクさんを見ていると、得も言われぬ安心感があった。
私は頭の中に三ツ首の黒犬を想像した。
人間を一撃で引き裂く鋭利な鈎爪に、鉄をも噛み砕く重厚な牙。
きっと炎の吐息を受けたら一瞬で丸焦げになるだろう。
これから私が会うのは、そんな存在なのだ。
「......楽しそうだな」
「えっ…そ、そうですか?!」
呆れたような顔をするビルクさんに、私は恥ずかしくなって顔を赤くした。
楽しそう…そうかな?
考えていた私の口角は、少しだけ浮いていた。
いや…疑う余地もないのかもしれない、これだけ凶悪性を頭に入れたのに、私の胸に膨らむのは期待と好奇心だけなのだから。
「恐怖はどっかに捨ててきたのか?」
「…怖いよりも、見たいって気持ちが大きいのかもしれません」
なんだろう。自分でもよく分からなくて、他人事みたいな返答になってしまった。
ビルクさんは何とも言えない顔をしてから、また剣に視線を戻した。
私もノートに向き直る。
ビルクさんに頼ると言っても、自分の身はできるだけ自分で守らなければいけない。
ペンを走らせながら、でもだんだんと、手が止まるようになっていった。
借りてきた本だけでは、大した情報が得られなかったからだ。
───そもそも「危険すぎる魔物」はあまり情報が無いんだろう。
載っているのはいつも、冒険者が遭遇しないための「回避の知識」ばかりで。
実際に対峙した者だけが知る、もっと深いところにある知識は、きっと冒険者の頭の中にあるんだろう。
冒険者も商売だし、中々本を書くような人はいないのかもしれない。
「あの......ビルクさん」
「なんだ」
「ケルベロスって、三つの頭で意思の疎通はできるんですか?それとも頭ごとに別々に判断してるんでしょうか」
ビルクさんは少しだけ手を止めた。
「さあな。俺が戦った感覚だと、中央の頭が主導して、左右がそれに引っ張られる感じだったが」
「そういうのって記録しているんですか?その…あったら、見たいと思ったんです」
「記録か…俺はあまり取らないな」
そう言ってビルクさんは、少し考えるように顎を引いた。
「ニィコ、お前は特別書庫という言葉を聞いたことあるか?」
「特別書庫、ですか。…聞いたこと無いです」
「俺も噂を耳にしただけだが、詳しい知識が保管されている特別な書庫があるらしい。そういう場所なら知りたい場所があるかもしれんな。……一般人がお目にかかれるかどうかだが」
「そうですよね…」
短くそう返して、私はノートに視線を落とした。
一般人には見られない記録…か。
いや、今考えても仕方が無い。今日私は死ぬかも知れないんだから。
そう考えると、やけに集中できた。
ペンを握り直して、今わかっていることだけを丁寧に書き足していく。
しばらく、筆を走らせる音と、布が刃を拭う音だけが続いた。
怖いのと、見たいのは別。それは本当のことだ。
でも同時に、こんなにも落ち着いていられるのは、きっとこの人が付いているから。
私はチラリと、横目でビルクさんの方を見た。
ランプの灯りが、白い髪をうっすらと照らしている。
「ビルクさん…その、今日はよろしくお願いします…!」
「ああ」
その低い声に、大きく頷いた。




