侍女ロザリー③
リュストア城での暮らしは、拍子抜けするほど穏やかに始まった。
ロザリーに与えられた部屋は侍女用とは思えないほど広く、寝具は上等だった。使用人にまでこの待遇。城の主の人柄が、こんなところにも透けて見える。
「おはようございます、アメリア様。朝のお支度をお手伝いしますね」
「おはよう、ロザリー。とってもよく眠れたわ」
「それは何よりです。やはり、お城の寝具は上等ですね。羽毛がふかふかでございました」
鏡台の前で銀の髪をほどきながら、ロザリーは主の顔色を確かめる。血色がいい。よく眠れたというのは本当らしい。
使用人棟の寝具も驚くほどふかふかだった。雲の上にいるのはこんな心地なのかもしれない、と思ってしまったほどだ。
「ユリシス様はどうされているか、ロザリーは知っているかしら」
「旦那様は、すでに鍛錬場へ向かわれました」
アメリア様の問いに、ロザリーは即座に応える。
主人の要望は全て叶えるのがロザリーの仕事だ。知りたいことも、把握しておきたい。
「こんなに朝早くから鍛錬をしているのね」
「はい。カイル様の話によると、毎朝欠かさず騎士団の皆と体を鍛えておられるそうです」
情報の出どころは、例の騎士だった。カイルは聞けばなんでも教えてくれる。
ユリシス様の日課、城の間取り、騎士団の顔ぶれ。おかげでロザリーの城内図は日ごとに精度を増していた。
新参者にそんなに話してしまっていいのかと、ロザリーの方が気後れしてしまったくらいだ。なんとも不思議な人である。
「アメリア様、なんだかご機嫌ですね」
「……そうかしら? そうね。確かにわたくし、なんだかワクワクしているわ」
鏡の中の主は、王都にいた頃よりずっとやわらかい顔をしていた。あの場所でのアメリア様は、いつも完璧な微笑みという鎧を着ていた。今のこの顔は、鎧を脱いだ素顔に近い。
「左様でございますか。アメリア様が楽しそうで、私も嬉しいです」
心からの言葉だった。
変わったのは、主だけではない。ユリシス様もだ。
到着した日、食卓を共にすることすら遠慮がちだったあの方が、今ではアメリア様の淹れた茶を前に、ぽつりぽつりと言葉を交わすようになった。表情の変化は乏しい。乏しいが、アメリア様が笑うと、あの金の瞳の温度が上がる。給仕をしながら見ていれば、わかる。
(呪われた公爵などと、誰が言い出したのでしょうね)
あの噂の出どころを、ロザリーは考えるようになっていた。
——この城の全てが穏やかなわけではないことに、気づき始めていたからだ。
使用人たちの中に、目を合わせない者たちがいる。
アメリア様が挨拶をしても、少し会釈をして足早に去っていく。廊下の陰で囁き交わす声がある。呪い、という言葉が聞こえた気がして振り向くと、話は途切れている。
新参の女主人への様子見か。あるいは、もっと質の悪い何かか。
気がかりは他にもあった。廊下の拭き掃除をしていた、リーナというあの小さな侍女だ。
「リーナ、あなた顔色が悪いわ。ちゃんと食べている?」
「だ、大丈夫です……」
消え入りそうな声で答える少女の指先は、真っ赤にかじかんで、薄く血がにじんでいた。アメリア様はハンカチでその手を包み、内緒よ、と悪戯っぽく笑ってみせた。
「ロザリー、あとでリーナがちゃんと休んでいるか確認してね」
「承知しました、アメリア様」
言いつけ通り、ロザリーは夕刻、使用人棟を訪ねた。
リーナは休んでいなかった。洗濯場で、山のような敷布を前にひとりで働いていた。
「あなた、休むように言われていたはずですが」
「や、休みます! これが終わったら、すぐ」
「これは、あなたひとりの仕事ですか?」
ロザリーが問うと、リーナの目が泳いだ。それだけで十分だった。誰かの仕事が、この子に押し付けられている。
「奥様には……言わないでください。あたしが、余計なご心配をおかけしたくなくて」
「……今日は私が手伝います。きちんと休むのですよ」
深くは聞かず、ロザリーは洗濯を半分手伝って戻った。告げ口をすれば、この子の立場はかえって悪くなる。まずは、城の中の力の流れを知ることだ。誰が仕事を割り振り、誰が楽をして、誰が割を食っているのか。
(この城には、何かが渦巻いています)
呪いなどという曖昧なものではない。もっと人間くさい、悪意の匂いだ。
王都でそれを、散々見てきたからわかる。ロザリーは気を引き締めた。
***
そんな日々の中でも、カイルとのやりとりは続いていた。
「ロザリーさん、おはようございます! 本日もよろしくお願いします」
「……おはようございます、カイル様」
驚いた。完璧な挨拶だ。
ロザリーが呆気に取られていると、カイルは真面目そうな顔からすぐに破顔する。
「今、ちゃんとしてたっすよね!? 俺、成長したっすよね!?」
「二秒で戻りましたけれど」
「あー!」
どうやら、意識すれば直せるようになってきたらしい。ただ、気が緩んだ瞬間と興奮した瞬間には必ず出る。本人いわく「素が出ちゃうんすよね〜」とのことだった。それはつまり、普段ロザリーに向けているのは素だということで——なんだか悪い気はしなかった。
正直に言えば、ロザリーは騎士団のことをまだ測りかねていた。彼らはアメリア様に対して屈託がない。あまりに屈託がなさすぎて、かえって疑わしいくらいだった。あの気安さの底に、女主人への軽んじが混じっていないと言い切れるか。
その答えを、ロザリーは思いがけない形で拾うことになる。
繕い物の糸を取りに、使用人棟への廊下を歩いていた時だった。角の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「にしてもさ、あのロザリーって侍女、きつくないか? カイル、毎日注意されてるじゃん」
足が止まった。
「そうか?」
カイルの声だった。ロザリーは廊下の陰で動けなくなった。盗み聞きの趣味はない。ないが、この状況で角を曲がるのはあまりに気まずい。
「そうだよ! 毎回びしっと注意してくるじゃないか。なんか怖いっていうか……お前、大変だよな」
自分の噂は、聞いていて心地よいものではない。けれど、事実ではあった。きつい、怖い。王都の屋敷でもたまに陰でそう言われていたことを知っている。
けれど、侍女が主を守るには嫌われ役を引き受けるのが早い。とうに割り切ったことだ。
「うーん、そうかなあ」
カイルの声は、いつもと同じ調子だった。
「彼女は彼女の仕事を全うしてるだけっすよ。夫人の立場もあるし、そもそも俺の言葉遣いが直んないのは事実っすから! ちゃんとしてる人なんすよ、ロザリーさん」
「……お前、変なとこで真面目だよな」
「え、そうすか? でも、心配してくれて嬉しいっす!」
「わ、バカ暑苦しいからひっつくな! あと言葉遣い直ってねーじゃんか!」
「え〜」
からりと笑う声が、遠ざかっていく。
ロザリーはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
——彼女は彼女の仕事を全うしているだけ。
本人に聞かせるつもりなど欠片もない、ただの世間話だ。取り繕う必要も、機嫌を取る理由もない場所での言葉。だからこそ、それは本心だった。
(あの方は、陰で人を悪く言わないのですね)
それどころか、自分の非をあっさり認めて、そのうえで人を立てる。
思い返せば、カイルはいつもそうだった。注意されても不貞腐れない。教えれば喜ぶ。ユリシス様の話をする時は、自分のことのように胸を張る。裏と表というものが、あの人にはたぶん、ない。
(アメリア様への態度も、ということは)
あの屈託のなさは軽んじではなく、ただのありのままだったのだ。騎士団の面々は、呪いの噂にも、没落した家の令嬢だったことにも頓着せず、目の前の人をそのまま見ている。
測りかねていたものの正体が、すとんと腑に落ちた。
(いい人たち、なのですね)
糸を取りに行くのを忘れて廊下を戻りながら、ロザリーは気づいた。口元が、ゆるんでいる。
慌てて引き締めた。侍女が、廊下でにやけているわけにはいかない。
——警戒すべきは、城の内側に潜む別の悪意だ。
それからロザリーは、この城の中で起きていることについてアメリアから説明を受けることとなった。
お読みいただきありがとうございます!
あと1話か2話で終わると思います。
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