25 自覚
その日、王都から正式な招待状が届いた。内容は想定していた通り、王太子フレデリックの婚礼への列席命令だ。
「来ましたわね」
「ああ」
アメリアとユリシスは静かに目を見交わした。覚悟していたことだ。きっとエドマンドやカイルも、王都でうまく立ち回ってくれているのだろう。
近頃は商人たちの出入りが活発になり、リュストアの町にも活気が戻ってきた。信頼できる使用人が増え、布団工房も盛況だ。先日はリーナのレース編みがアルジェント商会の目に留まり、次なる特産品にと話が動き始めたらしい。
「ユリシス様。騎士団の方々が、このところいつもより早くから動いておられるようですけれど、何かございましたの?」
こうして言葉を交わすのも、随分と久しぶりに思える。互いに多忙で、なかなか時間が取れずにいた。
アメリアが尋ねると、ユリシスの表情がわずかに翳った。
「実は、国境のあたりの動きが怪しいんだ。十分に備えているところだ」
「……まあ」
穏やかな日々に忘れかけていたが、ここは辺境の地だ。痩せた土地であれば誰の目も引かなかっただろうに、豊かになれば、それだけ狙われもする。
「大丈夫だ。アメリアとこの地は、私が命に代えても守る」
瞳の奥の畏れを感じ取ったのか、ユリシスが真っ直ぐにこちらを見据えた。それに対して、アメリアはふるふると首を振る。
「わたくしは、ユリシス様にも無事でいてほしいのです」
自分を犠牲にするような真似はしてほしくない。胸の奥からせり上がる思いを、そのまま声に乗せた。
「ユリシス様。明日からは執務の一部をわたくしが引き受けますので、どうか騎士団に専念なさってくださいませ。簡単なものは片付けて、ユリシス様のご判断が要るものだけ、別に分けておきます」
「……そうか、助かる。ありがとう、アメリア」
ユリシスは言葉を詰まらせ、ふいに視線を窓の外へ流した。
(きっと、国境の心配事が尽きないのね。わたくしがしっかり執務を支えなくては)
「ではユリシス様。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、アメリア。よい夢を」
部屋に戻り、寝台に身を横たえて天井を見上げる。これからのことを思いながら、アメリアは静かに目を閉じた。
***
「奥様! 本日はよろしくお願いします!」
カイルの代わりに側近として仕えることになったのは、まだ二十歳になったばかりの生真面目で礼儀正しい若い騎士だ。
身の回りのことはロザリーがしてくれるが、さすがに彼女に護衛までさせることはできない。
「ええ、よろしくね」
書類の束を抱え直し、アメリアは午後の廊下へ足を踏み入れた。背後からは、きっちり一定の間隔を保った足音がついてくる。
「奥様。その書類、自分がお持ちいたします!」
「ありがとう。でも、これくらいなら平気よ」
「で、ですが……!」
振り返ると、青年は今にも泣き出しそうな顔で両手を差し出していた。役目を果たさねばと気負っているのが、ひしひしと伝わってくる。その懸命さに、アメリアはつい口元をゆるめた。
「では、半分だけお願いできる?」
青年の表情がぱっと明るくなり、差し出された腕に書類の山が丁寧に分けられる。肩の荷が軽くなったぶん、アメリアの足取りもいくらか軽くなった。
その時だった。爪先が絨毯の端に引っかかり、アメリアの視界がぐらりと傾いた。
「……っ!」
「奥様!」
体が前のめりになった瞬間、傍らの若い騎士がとっさに腕を掴んで支える。
「だ、大丈夫ですか?」
「ありがとう、助かりましたわ」
アメリアが礼を言ったところで、廊下の気配が変わる。
ゆっくりと振り返ると、少し離れた場所にユリシスが立ち尽くしている。書類を手にしたまま、金の瞳が若い騎士へと据えられていた。
その眼光が凄まじい。怒りとも威圧ともつかない熱を孕んだまなざしに、廊下の空気がぴりりと引き締まった。
「あ、自分、騎士団での用事を思い出しました……! 奥様、失礼いたします!」
若い騎士は青ざめ、深々と一礼するなり脱兎のごとく駆けていった。その足の速さときたら、見事なものだ。きょとんとしたまま、アメリアは歩み寄ってくるユリシスを見上げた。
「ユリシス様、どうかなさいましたか?」
「足はひねっていないか」
言い終わるか終わらないかのうちに、アメリアの体がふわりと宙に浮く。
「ゆ、ユリシス様……!」
「誰も見ていない」
咎める間もなく、ユリシスはしれっとそう言って、横抱きにしたアメリアをずんずんと運び始める。表情はいたって真剣そのものだ。
「あ、あの、わたくし歩けますけれど……!」
「足に負担をかけてはいけない」
執務室の扉を肩で押し開け、ユリシスが中へ入る。後ろ手に扉が閉まった。ようやく長椅子に降ろされたアメリアは、驚きのあまり身を硬くする。
ユリシスは床に片膝をつき、アメリアの足首から爪先へと視線を走らせていた。
殿方に足を見せるなど、大変に恥ずかしい。もう夫婦であろうと、相手がユリシスであろうと、それはそれとして困ってしまう。
こちらの動揺など聞こえていないのか、ユリシスは黙々と確認を続けている。頬に血が上るのを感じながら、アメリアはただされるがままだ。
(これは……困りますわ……!)
「爪先が少し赤い。手当てをする」
「い、いえ、本当に平気ですので」
「平気ではない」
有無を言わさぬ口ぶりで、ユリシスは棚から布を取り出すと、丁寧に巻きつけていく。
「これでいい。……アメリア?」
処置を終えたユリシスが、満足げに顔を上げた。当のアメリアは、羞恥で頭が沸き立ちそうだというのに。
じとりと見つめ返すと、ユリシスは一度だけ目を瞬かせ、それからアメリアの足首にそっと唇を落とした。くちびるを、おとしたのだ。あしに。
「ゆっ、ユリシス様⁉︎」
「お飾りでも、私は君の夫だろう」
たじろぐアメリアをよそに、ユリシスが下から見上げてくる。
「先ほども、私が君を助けたかった」
静かな声だった。躓いたときのことを言っているのだろう。転んだところで大した怪我もしなかったはずだ。それでも。
(また呪いのことを気にしていらっしゃるのね)
目の前で誰かが傷つけば、この人はきっと自分を責める。だから余計に気を揉ませてしまったのだ。
「大丈夫ですわ、ユリシス様。呪いなんてありませんもの」
励ますように言うと、ユリシスはアメリアをじっと見据えたまま、首を横に振った。
「呪いとは関係ない。君に触れるのは、私だけがいい」
低く静かな声に、アメリアは小さく息を詰めた。ユリシスのまなざしは、こちらに注がれたまま動かない。暖炉で薪がはぜ、その音だけが部屋に響く。
「痛みはないか」
「は、はい。平気ですわ」
慌てて答えたものの、胸の鼓動はまだ鎮まらない。それを誤魔化すように、アメリアは話を変えた。
「そういえばユリシス様。王太子殿下の婚礼ですけれど」
「ああ」
「もう少し先とはいえ、色々と支度をしておかなければなりませんね」
ユリシスとアメリアが揃って出席すれば、嫌でも視線を集めることになる。抜かりなく備えておかねば。そう考えるうちに鼓動もようやく落ち着いてきて、アメリアはふとユリシスを見た。その眉間には、皺が寄っている。
「アメリア」
名を呼ぶ声は、低く静かだった。
「その場では、もう偽らなくてもいいだろうか。君をきちんとエスコートしたい」
まっすぐな目だった。アメリアは、今度はうまく息ができない。それから、ゆっくりと頷く。
(……わたくしも、そうあれたらと、思って)
うまく言葉にならない。頷くだけで精一杯のアメリアをよそに、ユリシスの面差しがわかりやすく晴れていく。
「王都で、君の隣に立つ栄誉を得られるのは、嬉しい」
ユリシスが、アメリアの手の甲にゆっくりと口付ける。触れられたところから、熱がじんわりと染みてきた。
手は、まだ繋がれたままだ。どうしてだか、アメリアは泣きそうになる。こんな気持ちは、知らない。
「……申し訳ありません。旦那様、そちらにアメリア様はいらっしゃいますか?」
「!」
扉が叩かれ、向こうからロザリーの声がした。二人は弾かれたように手を離す。ユリシスは立ち上がり、アメリアを見やると、またもその体をすくい上げた。
「ゆ、ユリシス様、今度こそ歩けますわ」
「足に布を巻いている」
「それはそうですが……!」
ユリシスはアメリアを抱えたまま扉を開けた。廊下に立っていたロザリーが、目を丸くする。
「アメリアを部屋まで送る。先に行っていてくれ」
「は、はい。承知しました!」
何かを察したらしいロザリーは、素早く駆けて行く。
アメリアの部屋の前まで来ると、ユリシスはそっと彼女を降ろした。扉を開けて中をあらため、それから振り返る。
「……また、夜に」
「はい」
アメリアが頷くと、ユリシスは満足したようにして踵を返した。
その背が廊下の角を曲がって消えてから、アメリアはようやく大きく息をつく。胸の奥は、まだ騒がしいままだ。
「アメリア様」
部屋の中から、ロザリーが声をかけてきた。先回りしていたらしい。
「おみ足を怪我なさったのですか? ……お顔が、真っ赤でございますね」
「……あの、ロザリー」
アメリアはしばし迷い、それからおそるおそる口を開いた。
「わたくしの勘違いでなければ……ユリシス様は、わたくしのことを、好ましく思ってくださっているのかしら」
ただの政略結婚の相手や、お飾りとしてではなく。恋愛とは縁遠い暮らしをしてきたアメリアにとって、この胸の高鳴りは、何もかもが予想の外にあった。
婚約を破棄され、クラリッサとフレデリックが寄り添う姿を見ても、心が乱れることはなかった。それが侯爵令嬢としての務めだと、信じて疑わなかったから。
「アメリア様、いえ……お嬢様……」
久しく聞いていない呼び方だった。どうしたのかと顔を向ければ、姉のように寄り添ってきたその人が、これ以上ないというほど呆れた目をしていた。




