閑話 城のささやき
この城の使用人たちは、お人好しだ。特に、最近になって雇い入れられた、侯爵家ゆかりの使用人たち。
彼女はそれを、ずっと前から知っていた。
朝の廊下を掃き清めながら耳を澄ませば、あちこちから囁き声が聞こえてくる。
「ねえ、最近気づいた? 奥様と旦那様、廊下で顔を合わせても目も合わせないのよ」
「そういえば……朝食も別々になったわ。以前はあんなに仲よくされていたのに」
「いろいろな事故のせいかしら。奥様、あんなに頑張っていらしたのに……」
使用人たちは眉を寄せ、心配そうに顔を見合わせている。
(ご苦労なことね)
彼女は箒を動かしながら、口元が緩むのをこらえた。
「心配ね」とも付け加えてみる。
ユリシスとアメリアの間に何かあったのは、火を見るよりも明らかだった。
先日の朝食の席では、ユリシスがアメリアを待たずに一人で食堂を出ていった。廊下ですれ違った時も、二人は互いに軽く頷いただけで言葉を交わさなかった。アメリアが執務室に向かう時も、ユリシスは書類を抱えたまま別の方向へ歩いていく。
かつての仲睦まじかった様子が、嘘のように消えている。
昼には、厨房の前でこんな声も聞こえた。
「旦那様、最近また表情が険しくなられた気がして……」
「奥様もどこか疲れたようなお顔をされていたわ。大丈夫かしら」
「きっと、色々と無理をされているのよ。わたしたちにできることがあればいいのだけど」
誰もが本気で案じている。この城の使用人たちはみな、素直で真っ直ぐで、だから使いやすい。
(あの方たちの思い通りだわ)
夕刻、自室に戻った彼女は文机の前に腰を下ろした。引き出しから便箋を取り出し、羽ペンを手に取る。窓の外では北風が唸っている。インクが乾くのを待ちながら、ゆっくりと書き進めた。
《順調に進んでおります。公爵夫妻の仲は冷え切っており、城内の者たちもそれを憂いております。奥方様はここ最近、執務に追われてお疲れのご様子。旦那様も城を空けることが多く、二人の間に会話はほとんど見られません。ご安心ください。あとは時間の問題かと》
封をして、灯りを吹き消す。
そもそも最初から、うまくいくはずがなかったのだ。呪われた公爵と、没落寸前の侯爵家の令嬢。王命で無理やり結びつけたところで、所詮は砂上の楼閣だ。誰もがそう思っていた。一時仲良くなったように見えたのは、ただの気の迷いだったに違いない。
(きっと、お褒めの言葉をいただけるわね)
使用人は満足げに便箋を引き出しの奥にしまい、寝台へと向かう。
先に露見した者たちのことは、愚かだと思っていた。
リーナとかいう小間使いは町へ送り返されたらしい。他の何人かは城に留め置かれたものの、下女に格下げになったとか。笑えない話だ。頭を使えば、こんな結末にはならなかっただろうに。
(まあ、もともと大した期待もしていなかったけれど)
前の領主のもとでも、彼女は長くこの城に仕えてきた。あの頃の暮らしは、今よりずっと息が詰まった。領主は気まぐれで、機嫌が悪い日には使用人に当たり散らした。メイドの中には手を出された者もいた。夜中に泣き声が聞こえることもあった。誰も何も言わなかった。言えるはずがなかった。
偉い人の顔色を慮るのが、仕える者の宿命なのだと思っていた。領主が変わっても、それは変わらない。新しい顔色を覚え直して、また機嫌を損ねないように生きていく。呪われた公爵が赴任してこようが、さして関係のない話だった。
『呪い』の触れ込みに最初は身構えもしたが、公爵が来ても特に何も起こらなかったのは肩透かしだった。
だから、持ちかけられた話を聞いた時、最初は迷った。けれど、王妃様直々の依頼だと知って、気が変わった。その後ろ盾があれば、万が一の時にも逃げ道があるはずだ。先払いされた報酬は、これまで何年分もの給金に相当した。
この案件が終われば、王都に移住できる。好きな場所に住んで、好きなように暮らせる。もう誰かの顔色を慮る必要はない。
(いい気味だわ)
どうやら、呪いがどうとかいうのも、全て王妃様の采配次第のようだ。王族も面倒そう。
美しく、何もかもを持っている貴族令嬢アメリア。彼女を困らせると、胸がすく思いがした。
(ラドウィック伯爵からの次の指示を待たなくてはね)
歪んだ達成感に満たされながら、その女はゆっくりと瞼を閉じた。




