421 因果は通じている
ただし、終わらせるのは自分だ。
言葉を続けられるまでもなく女神の言いたいことを悟ったハルコは素早く動く。なんの作為も感じさせない動作で、その実常人には目にも留まらぬ速度で伸びてきた女神の手を逆に彼女から掴み、捻ることで極めながらその体勢を崩させる。
「!」
「あんただって何度もやってんだから、やり返されもするってね!」
しかしここは地上ではなく空の上、足場がないからには崩しの効果も半減する。実際に女神は自身の高度を下げつつ捻られたほうへと回ることで極められた腕の解放を目論んだ──が、そうくることくらいはハルコも予想済み。空中戦に移行してからというもの女神が極めを使おうとしてこなかったのはそもそもこうやって脱しやすいから。そうなるとむしろ極めた側が返す刀に遅れて反撃を貰いやすく、不利になってしまうから……ということも理解しつつ、けれどハルコには、神にはない人だからこその工夫がある。
「逃がす、かっての!」
女神が捕まった腕を外すために回ったのに合わせてハルコもまた回る。レスリングのように女神の身体に覆い被さるようにしながら追いかけたそれは、無理に極めを外そうとする相手を逃さないための寝技への移行の技術。言わずもがなこれも人対人の、つまりは地上戦での技術ではあるが、しかしこの一瞬の掴み合いを制するためであればたとえその場が空の上だろうと有効である。
ワルツでも踊るように回転しながら女神の片腕を封じつつその懐へと入ったハルコは、その豊満な胸元へ顔を埋める程に密着し──握り拳を宛がう。
「噴ッ!!」
「っ!」
寸勁。拳の加速を経ないままに打撃力を対象へぶつける特異な打術。特筆すべきは打ち込むというより流し込むその威力の伝え方。超至近距離でも繰り出せる上に肉体の硬い部位に当ててもそれなり以上のダメージが見込める高難度の技を、ハルコは初めて成功させた。そう、生まれて初めてである。妹に見せてもらって自分でも食らって懸命に真似をして、けれどついぞ我が物とはできなかった技術。本物の天才であり鬼才である妹とは違う己では決して「手の届かないもの」のひとつ──だったはずが、届いた。届くことを疑いもせず体が動くままに、本能が導くままに従ったハルコの選択は正しかった。
思いの外に自分は自分を正確にわかっているのかもしれない。何がなんだかわからぬままに、ただ力ある限りに戦っているだけとしか思っていなかったが、ひょっとしたら。頭で考えているよりもずっと今の自分には限度なんてないのかもしれないと、くの字に身体を曲げた女神の下がった頭部。初めて見下ろすそれを見つめながら、手の内にある打ち抜いた確かな感触を握り締めながらハルコはそう──、
「うッ?!」
前兆もなく振り上げられた腕。突きというよりも鞭のようなしなりで通り過ぎたそれにハルコはゾッとさせられる。間一髪、運良く躱せたが。もう少し深く感慨に耽っているか、あるいはもう少し距離が近ければ間違いなく食らっていた。食らって、顎を潰されていただろう。鼻の辺りまで下顎を押し上げられて無惨に変形した自分の顔がまざまざと幻視できてしまえるくらいには、それは実感の伴った予想だった。
追撃を警戒し下がって距離を作るハルコ。しかしそちらはの予想は裏切られ、女神はすぐに襲いかかる様子もなく。ゆらゆらと波打つようにゆっくりと上げた腕を下ろし、そして下げていた頭を上げる。
「……、」
そこにある表情は変わらず笑顔だった。なのにハルコがより強く警戒したのは、これまでの無垢なそれとも違う、どこか異質なものを感じたからだった。神の如き悠然とした微笑から、人の如き剥き出しの笑みに変わり、そこからまた……そうまるで、神と人が混ざり合ったような。混然一体となったような、なんとも言えない笑顔がそこにはあった。
ハルコはもうこれを不気味などとは思わない。ただ、一個の確信があった。女神は更に強く手強くなった。そして今まさに自分が向かい合っているのが、この試練の「終わり」であると。
「その通り。この空間内でわたくしが至れる最高点が、『これ』。これ以上の段階へ上がることはできません。それは神であろうとも──否、神だからこそにどうあっても破れない不文律。わたくしが設けた使い切りの異相界だとしても、その畳み方には注意が必要なのです」
「あー……まあ、小難しい理屈はともかく何が言いたいかはなんとなくわかるよ。神様は何をするにもいちいち制限がかかるって話でしょ? 大変だね、自分の部下を鍛えるのにもそういうのがあるなんてさ」
「ええ、ですが仕方ありません。限りなく間接的ではありますが、因果は通じている。世界に影響を与えるための道具である灰をその持ち主である神が鍛え上げるという行為もまた、世界に影響を与えることに他ならない……と、理にはそう判断されるのです」
直接に世界へ触れる干渉と比べれば、間に灰を挟んでいる以上は神自身が与える影響も微々たるもの。よって融通の利かせやすさもまるで変ってくるが、それでも限界はある。女神はその限界を超えない範囲で、しかし最大限を見越して──そこで遠慮をする理由もないために──ハルコたちを導く試練の場として世界とは異なる相にあるこの空間を設けた。多層に分けて一人一人を別世界の灰と競わせるというそれなり以上に負荷のかかる手段も選べる程度には頑強かつ柔軟。言わば情報処理能力に長けた空間だったのだが。けれどそれを誇れるのも用法が本来の範疇内で完結していればだ。
作り主である神自身がその内側で際限なく力を高めていったとなれば、高度いっぱいに設定した天井にもあっという間に到達してしまうのも道理でしかない。無論、元々はどんな試練でも空間が耐えられるようにとむしろ欲張った、灰の見習いを導く範囲で言えば過剰とも言えるくらいの設定である。最初から最後の試練は女神当人が相手をするつもりだったとはいえ「ここまで」の事態は何度も述べている通りに彼女にとってもまったくの想定外。空間限界など訪れるはずもなかったのだ──が、事実としてそれはこうして訪れている。
「教えてくれてありがとう。わかりやすくて助かる」
「わかりやすい?」
「そ。今のあんたをぶっ飛ばせれば勝ち、ってことでしょ。簡単じゃん」
それは複雑さがないという意味での簡単。だが、ハルコの言葉。その意気込みの裏にある含みを感じ取れない女神ではなかった。
笑みが深まる。
「知っていましたよ。わたくしの目には映らぬもの。概算も演算も及ばぬ人が持つ特異なるもの──それこそが『愛』。あなた方を繋ぐ力とは別の楔にして鎖。業であり、そして可能性でもあるその輝きを。どうかわたくしに余さず見せてください。あなたが望む通り、悔いなど欠片も残らぬように」
「はん……お互いに、ね」
空中に立つハルコが取る構えはやはりいつも通りのそれ。対する女神もハルコの構えを鏡映しにしたような、しかしそのどこかに僅かな違いもある、女神独自の構えを取った。そのことにぴくりとハルコの目元が反応したのを受けて、くすりと女神の口から楽しげな吐息が漏れて──始まる。これ以上のない、これ以下の訪れない最終激突。
幕開けは一足飛びの蹴り同士の衝突。ギン、と鍔ぜり合うように脚と脚を押し合う二人の眼差しが濃密に絡まる。その交わりに、世界は強引に形を変えられていた。




