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418 治天法

 流血・・。神の身より神の血を流させ、失わせること。それは試練の終わりを女神に告げさせるための条件。つまりはこれで合格クリアか。息をするのも忘れて人間と同じく真っ赤なその血を見つめ、見守る。床へ落ちんとするのを目で追いかけて──そして息を飲む。


 落下からの上昇。まるで映像の逆再生だった。床につきかけた一滴が自身の辿った道をなぞるように戻っていく。それは女神の腕の傷も同じで、広がっていた罅割れのようなそれが端から修復されて治っていく。最後には殴打を受けた中心へと赤い雫が吸い込まれて、傷が完全に塞がり、女神の腕は白く美しい元の様子を取り戻す。そこに今の今まで怪我があったなどとはもう信じられない。幻でも見せられていたのかと傷を付けた当人であるハルコさえもそう疑いかける。


 しかし幻でも見間違いでもない。そこに確かに傷はあった。女神は負傷したのだ。それも、今までに与えてきたような小さなものではなく、明確に血が流れ落ちる程の大きな傷が刻まれた。だというのに。


「──なかったことにしたわけ? それズルっこじゃん」

「ふふ……ええ、確かに仰る通り。流血を条件としておきながらいざとなれば傷諸共にその事実を消してしまう。あなたからすれば不義にも思えるでしょう。ですが、地に落ちる前に我が血は舞い戻った。それは血が失われなかったのと同義。つまり流血という条件をあなたは満たせなかった、ということです」

「屁理屈……だけどまあ、わかったよ。すぐには治せないくらいのもんをぶち込んでやらなくちゃいけないってことだ。いいよそれでも。どっちみち、あんな小さな一滴くらいで決着が付くんじゃ私も消化不良だしね」

「よくぞ言いました。そんなあなただから、わたくしも終わらせてしまうに忍びなかったのです」


 構え直すハルコに女神もハルコのそれを真似たような構えを取る。ただ佇むだけの無の構えこそが女神の構えだったはずだが、そこにも変化が生じている。遊んでいる、とハルコは感じる。ただし単なる遊びではなく、本気だ。女神はこれまでの遠慮や取り繕い──「女神らしく」相手取ろうとしていた管理者としての良識・・を捨てて、無邪気に全力で楽しもうとしている。


 だからこそ、怖い。加減を知らない子どもがおもちゃを壊してしまうような、そういう類いの危うさを今の女神は放っている。無論、この場合のおもちゃとは自分ハルコを指す。


「やれやれだ」


 どこまでも一筋縄ではいかない自身の主となった存在を前にハルコは内心の嘆息を隠しもせずに呟き、されどその口元には相も変わらずに笑みを作っている。「望むところだ」とその表情が語っている。常の通りに、常以上の意気軒昂。荒々しく闘気を迸らせるハルコに対して女神は朗らかだった。


それ・・の名称は治天法。我意鎮静の清閑と心身合致の合一、そして神効という神力の高効率運用術。それら神の技術と術を併用ではなく合算・・させることで至るもうひとつ上の──いえ、奥の神術です。勿論、あなたが使っている神効はあくまで様々な技術を用いての模倣であって真なる神術ではない以上、その治天法も本物と言えない『もどき』ではありますが」


 しかしだとしても力は充分。その実感をハルコ自身も得ていることだろう。


 ただの技術である清閑や合一よりも神術である神効は神業として上。であるが故に、それらの合算である治天法のベースはやはり神効にこそある。なので合算というよりも神効を土台に積み上げる、あるいは併呑の如くに神効へ取り込ませるといった表現のほうがいくらか適切だ。


 そしてハルコはその土台である神効をそれっぽい「もどき」として再現しているだけに過ぎない。なので治天法という新たな領域もまた「もどき」をベースにした「もどき」の範疇にしかない。神が使うオリジナルに比べれば程度の差は歴然たるものだ……が、ここで何よりも恐ろしい事実はたとえハルコの使う治天法がもどきであっても彼女の武器としては強力なものになっている、などという表面的なそれにあらず。


 女神がまだ「治天法を使用していない」。にもかかわらずにハルコが神の技法を再現してみせた。それこそが最も重要なポイントだった。


 清閑や合一へ知らず知らずに辿り着くのとは訳が違う。灰であり神力を得ているからには手解きを受けずとも神の技術を体得する可能性は低くとも決して皆無ゼロではない。五人で一個の関係性による同調と相乗、女神が意図して設定したその在り方に引き上げられた結果、特性によって最も女神の神力と「馴染んだ」ハルコが率先するようにその領域へ足を踏み入れたのは、成長の早さに驚きこそすれただそれだけの兆しに過ぎなかった。


 しかし、これは、行き過ぎているし出来過ぎている。神効もどきとて女神が用いた本物の神効からの逆算であり、またそれの下地になっているのもやはり仲間から託された力によるもの。どこまで行っても「そこ」がハルコの限界であり可能性であったはずだが、今の彼女はそれだけでは確実に起こり得ないことを。起こり得るはずのない奇跡を、その身に体現させている。


 女神はまだ段階を上げていない。それを拒否するために流血だけでなく傷の存在さえも許さなかったところだ。しかしてハルコはそれよりも前に見ず知らずを再現した。ひとつ上の、ひとつ奥の段階に位置する治天法を──神ならぬ身には何があろうと辿り着けないはずの神術という「絶対の力」を、その手に掴んだ。


「あくまでも『もどき』。とはいえ──」


 来たものを打ち捌く。だが解体バラしきれない威力、それに伴う純度が高いとは言えない神威が女神に降りかかる。神効を震わせて咆哮を起こしそれらを十把一絡げに払いのけながら突き上げた蹴り足を、スレスレを舐めるような近さでハルコが潜り抜けて接近。入り身の肘に再び神効もどきが集い、治天法もどきによって強化されたそれが「一の神格」を持つ者にしか宿らないはずの神威となって──神威もどきとなって女神を打ち抜く。


 どうっ、と黒い閃光が白い空間を引き裂き、その修繕が起きる間にも女神とハルコはそこを歪みよりも速く駆けていく。


「──それでも神業の真似。魂の格こそ育ち切っておらずとも今のあなたなら異界の『灰らしい灰』とも互角以上に戦えるでしょう」


 それそのものは掛け値なしに喜ばしいことだが、ハルコの「これ」は一時的なものに過ぎない。あるいは仲間四人が同じように倒れ伏してハルコ一人にその全てを与えれば、仮にそれがハルコでなく他の誰か一人であったとしても、この高みに達せるかもしれないが。いちいちそういった状況にならないと完成できないのではそれは灰の持つ強みと言えない。奥の手とするのさえも憚られるまさしくの奇跡でしかない。それは女神が彼女たちに求めるものではない……間違っても管理者が己の手足に望む力ではない。


 不自由な神に代わり動く道具へ求められるは一にも二にも万能性、そして利便性だ。適切に、的確に、過不足なく働く。そこにピーキーさはいらない、あってはならない。安定した出力。それを与えるために急ぎ「灰らしい灰」へ成り上がらせたくて、女神はこうも無理くりな試練を始めた。他の糸ではまず見られないやり方でしもべの急成長を促した。……想定越えの段階の上がり方は言わば、女神の期待にこの上なく少女たちが応えた結果とも言えるが。しかし行き着いた先がまったく望んだものとは別の強さを発揮するハルコとは、少々皮肉が効き過ぎているようにも思えた。


「──ふふ」


 その誤算も含めて女神は笑うのだ。無垢に、そして純粋に。

 試すのではなく楽しむために。



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