365 険しい道のり
大きく背後へ仰け反ったところに落ちてきた拳底。思い切り打ちのめされて床に沈み込んだハルコは、ライネが貫き手を躱されることまで織り込んで鉄槌打ちの用意をしていたと知る。そうでなければ躱したと同時に別の攻撃を食らうなんてことは起きない。読まれたし、そうなるように誘導もされた。それは如何にもここまでさんざと見せつけられてきたライネらしい戦い方であったが、問題なのはそれが「今の自分」にもまんまと通用してしまっていること。ライネがあっさりと誘導を成してしまったことだった。
(っ、これだけ勢い付いてたってまだ──まだまだ足りてないってか!?)
謎解きをやめた。ハルコの強みを上手に解きほぐすのではなく叩き壊す方針へと切り替えた。そして、迂遠なまでの慎重さを捨てて純粋なパワーとスピードを発揮し始めたライネは、これだけ強い。なくなりかけていたはずの力量差が、しかして最後のひと息を決して詰め切れないだけの「絶対的な僅かな差」となって彼とハルコを分け隔てている。それがこの一打で浮き彫りとなった。
「ちぃっ!」
脚を振り上げて離れながら跳ね起きる。自ら倒れかけていたことで拳底には打たれたというより押された形に近い。派手にすっ転ばされはしたが足を止める程のダメージは受けていない。それを証明するように体勢を立て直したハルコの視界から、ライネが消えていた。
「氷楼」
「ッッ!」
何もない場所から。見渡す限りに白しかない風景のなんでもない一点から、突如としてライネが姿を現した。
──冷気で空気に幕を下ろしての隠密! ハルコのそれはライネのような観察力の賜物というよりもやはり直感と想像力だけを頼りに打ち立てた仮定だったが、偶々なのかそうでないのか的を射たものではあった。けれど、それがわかったところで不意打ちそのものには対応が間に合わない。すぐ傍にいると悟った瞬間にもう打撃が眼前へ迫っているのだ。さしものハルコの即応反射とでも言うべき思考を介さない戦い方であっても反射が行動へ反映される時間がほぼゼロであればどうしようもなかった。
顔面に浴びたのは速度優先のいずれも軽い三発。けれど無防備に急所へ貰ったからにはどんなに軽い拳でも致命足り得る。パパパン、とリズミカルなまでに小気味よく命中した三連撃は明るい音色とは裏腹にハルコを前後不覚へ陥らせるに充分な威力を伴っており、彼女の足元をまるでスポンジの足場にでも立っているかのような極端に不安定なものへと仕立てた。
真っ直ぐ立つことすら覚束ない上に鼻根という目と目の間を打たれたことで視力まで一時的な明滅で麻痺してしまっているハルコは、言わずもがな隙だらけだ。氷礫という冷気を利用した視界封じとは違って純然たる打撃による目潰しはハルコの体質でも「食らって解決」とはならず、それは平衡感覚の錯乱も同様である。
そしてそこへ襲いかかるのは当然に、速度ではなく破壊力を重視した本域の一撃!
「ハァッ!!」
「ッ……!!」
目が回っているも同然のハルコは、しかし本能によってか攻撃の来るタイミングで辛うじて防御態勢らしきものを取りはした。が、言わずもがなその程度で守り切れるわけもなく。重い衝撃が庇った腕ごと腹部を突き抜けていき、ハルコは面白いように吹っ飛んでいった。それを追いかけるライネ。落下地点へ急ぎ、彼女が身を起こす前に追撃をかけようという意図が明らかなその行動は、けれど彼の足がピタリと止まったことで中断される。
原因は、ハルコが落下しなかったから。宙でくるりと回ってしっかりと着地を取ったのだ。姿勢を入れ変えたその瞬間にはそれがわかった──つまりハルコの意識レベルがまったくの正常にあることを見て取ったライネは迂闊な接近・攻撃が反撃を貰う切っ掛けになり得ると悟ってそれを取りやめたのだ。
ごぽ、とハルコの口から少なくない量の血が漏れる。意識を飛ばしこそしなかったものの先の一打はやはり痛烈、打たれた箇所が箇所なだけに筋肉や骨だけでなく内臓も傷めてしまっているのだろう。ダメージは深刻だ。それでもハルコはもう身構えている。ライネが速攻を継続すると踏んでそれに備えようとしていたのだろう。いくらダメージがあろうとその様子を見ればライネも自身の判断の正当性を疑わない。ハルコならばきっと反撃を間に合わせていたことだろう──積極性を見せ始めはしても慎重さを完全になくしたりなどしていない彼はどこまでも冷静だった。
対するハルコ。慎重さなどかなぐり捨てて一欠けらさえも持っていない彼女だが、けれどこうして構えたまますぐに動こうとしないのは少しでもダメージを回復させたいという計算。それからライネの徹底された戦闘巧者ぶりに感心を通り越してもはや呆れてやまない思いとが、今この時ばかりは彼女から勢いを奪っていた。
ほとほとに感嘆する。冷気の吸収をどうにか掻い潜れないものかと試している間も、手を変え品を変え実に様々な創意工夫とそれを実現させられるだけの高い技量を見せつけてきたものだが……その時点でハルコからすれば驚嘆しかないが、無効化そのものを突破することを一度諦めたならば、そこからもまた彼は凄まじい。
ハルコの身に直接作用させようとしなければ有効。無効化されることはないと検証を終えていた彼は、冷気で空気に層を作っての即席光学迷彩を実行。ハルコが自分を見失っているのを確認した上で不意打ちに乗り出し、そこからは打力のみで攻撃を成立させた。吸収されてハルコの利とならないように冷気もカットされた「拳での目潰し」もまた有効。置かれた状況への回答として満点とも言えるものを迷いなく導き出せるその戦いの巧さは、格闘技量が突出していたシュリトウやとにかくひたすらに強いだけのアンラマリーゼともまた異なるライネ独自の強みと凄みをハルコにひしひしと感じさせていた。
自分と同じ立場の灰。人間から採り立てられた神の代行者の、見習い。数多くの戦闘を、経験を積んできたのだろう。数多くの強者を下してきたのだろう──これだけの巧者にならなければ生き残れなかったくらいに厳しく激しい戦いを幾度となく繰り返してきた。実力からの逆算で見える彼の険しい道のりには頭が下がる思いだった。ライネに抱く感心はそこも踏まえてのもの。
ただし険しい道のりを通ってきたのは彼だけでなく、こちらとて同じ。様々な強者と死に物狂いの戦いをして艱難辛苦を乗り越えてきた。ライネとの間には隔絶した技量差があるとはいえ、それはハルコが辿ってきた道を貶めたりするものではないはずだ。どちらが優秀だとか大変だったとか、そんな比較が成立するものでは断じてない。ライネにはライネの、ハルコにはハルコの進んできた道があり、進むべき道がある。比べられるのはそれらが交わったこの瞬間での互いの強度のみ。それ以外の一切は天秤に乗らない。
だからハルコも感心こそすれど劣等感や引け目など持たない。明白に自身よりも「完成度」において優れている灰を前にも、技量ではともかく精神で後れを取ることはない。そんな弱気はなんの意味もないもので、己が足を引っ張るだけの重荷にしかならないと彼女はわかっている。故に。
ライネも積極的に攻めるようになったと言っても、やはり、先んじて仕掛けるのはハルコのほうだった。
「行くぞ、ライネ!!」
「!!」
大きく削られた直後だというのにむしろ気迫が増し、駆け出すその足は力強く迷いがない。これは単なるやせ我慢のヤケクソか。それとも新たなる兆しなのか。我知らず口元に笑みを作ったライネもそれに応じるべく前へ出る。
何度目かの正面からの激突。そして──。




