361 面白いじゃん
拳の交錯は初撃のそれよりも遥かに強く、鋭かった。どちらが先に打ち出したのか互いにもわからない程の刹那の応酬の最中で、しかしハルコとライネは共に相手の打撃に合わせて自らの動きを変えてもいた。結果として双方共に打点が逸れて直撃とはならず。
「くっ──」
「ッ……、」
ライネの頬がざっくりと裂けて鮮血が舞う。ハルコも振り抜いた腕をなぞるように刻まれた拳線から血を滲ませている。自分以上の神力越しにダメージを与えたハルコが上か、それを躱しながらその腕を貰おうとしたライネが上か、この攻防に限って言えばどちらが上回ったかの判断は非常に難しい──が、受けた被害で言えばハルコのほうが深刻。その点については論ずるまでもないだろう。
傷の深さと出血量で言えばライネが負わされた頬の裂傷の方が随分と重い。ハルコの腕は広範囲に裂けてこそいるが薄皮一枚の浅い傷でしかない……が、傷そのものではなく傷が出来る程の決して軽くはない接触をしてしまったことこそが彼女にとって何より問題だった。
浅い傷を覆い尽くすように。血が固まるのなんて待っていられないとばかりに霜が張っていく。あっという間に赤白い色味で彼女の腕は彩られた。
「ハッ!」
「!」
ビキリと一部が凍り始めている腕をハルコはあえて武器とした。無事なもう一方の腕を警戒していたライネの意表を突いた同腕での連打は彼に防御の体勢を取らせ、その打ち込みの終わりと同時にハルコは一旦距離を取り直すことに成功する。
ライネから目を離さないままに腕の様子を確かめる──うむ、確かめるまでもなく酷い。既に傷口から凍傷になりかけている。本来ならなんてことない程度の小さな傷だろうと今のライネに負わされると即、身体に害を為す凶悪なものに変わってしまう。冷気の出力が上がったことによる脅威度の上昇はどうやらハルコの想定を超えているようだった。甘く見積もったつもりはなかったが、それでも甘かった。このままでは遠からず右腕全体が使い物にならなくなる。
対してライネの傷は、白く厚く張り付いた冷気が塞いでしまっている。凍ってこそいるが自分のように凍傷に苦しんでいるようには見えない。おそらく、ライネ自身は己の冷気で害を受けることがないのだろう。止血という恩恵だけに預かれている、というわけだ。痛みを消す効果もあるのかもしれない。いずれにしろ、たった一撃の交換で彼我の立場は明確となって、有利不利がより強調されたと言えるだろう。
勝機に薄い。どころではなく、勝機が存在していない。そう言い切ってしまっても決して過言ではなかった。
(このままなら、間違いなくそうだ。だから──)
だから今、強くなる。それしかない。無茶を通すことさえできない程の実力差があるのならその実力差を少しでも小さくしなければならない。考えても無駄だと断じたことを、無茶以上の無茶を、しかしハルコは真剣に画策していた。ただしそれは思考ではなく、限りなく脊髄的な行動と選択。強くなるためにどうすればいいのかを考えるよりも先にハルコの肉体は答えに飛び込んでいた。
「おっ──らァ!」
確保した距離を自らゼロとする。ライネが接近し直そうとするよりも先に自分から飛び込んでいったハルコは、再び凍り付いた腕で攻撃を仕掛ける。二度目ともなればライネも予想できていたのだろう、機先を制されたことへのリアクションもそこそこに突きを丁寧に捌く。逸らすというより円回転で絡め取るその動きはハルコの土壇場での出力上昇──つまりはムラっ気の更なる極端化を考慮してのものであると同時に、よりしっかりと触れ合うことで凍結を加速させようという狙いもあった。
「うっ、ぐ」
右腕の状態が悪化。そして打撃が流されたことで追撃が行えず、今度はライネの短く突き上げる縦拳がハルコの顎を叩いた。二度目のクリーンヒット。衝撃も冷気も充分に通った。ハルコの重心は後方へ、打たれた顎はパキパキと薄氷に覆われていく。冷気の拡散については神力の増幅によって防がれ顎以外にまで被害が広がることはないが、先の拳の交錯によってそれは既に起きていたこと。だからこそ注意深く念入りに、神経質なまでの丁寧さを防御にも反撃にも心掛けた。
彼の用心は功を奏した──確かにこの時点では、全てがライネの思い描いた通りだった。だが。
「な、んのっ──」
「!?」
「──これしきぃ!!」
胎動。自身のそれより規模において控え目なそれの、しかして一瞬の出力だけはその比ではない神力の、これまでで最高の波が起こる。上を向きかていたハルコの顔が引き戻され、重心も前へ。そして顎も右腕も、まるで殻を破るようにしてそこを覆う氷が剥がれ落ちていき、赤々しい生命本来の色が戻ってくる。そうしてそのまま振るわれる拳。口元から垂れる血も腕から舞う血も、まるで燃えているかのような。彼女の闘志が形となって溢れ出しているようだと、ライネは感じた。
不味い。これを食らってはいけない、と我に返った彼の反射的な行動もまた素早く的確で。
「おっらぁ!!」
「ッッ……!」
ハルコがやったのは、なんてこともない。ただ全力で殴り抜いただけだ。ただのそれだけを全力を超えた全力でやった。現在の壁を乗り越えた先でありったけの力を、神力も含めて自分の出せる全てを注ぎ込んで思い切り殴った。
拡上の灰という強敵が一切の加減なく自分を仕留めようとしてくる、その危機へ対抗するために成長を遂げた。言葉にすればこれ以上なく易く、けれど実行するにこれ以上なく難い、まさしく土壇場での爆発的な出力上昇を果たして、自身を害する不調共々に敵を吹っ飛ばした。というのが、今起きたありのままだった。
神力は理屈で操るものではない。それを操った結果もまた理屈に沿うものではない。よってこれはなんらの不思議もないことだった。一打を放る前と後での劇的な進化。相手を倒せるレベルまで強引に己を引き上げる異常もそれが灰によるものならば異常とはなり得ず。
それだけの一打を受けて尚、敵が倒れていないのもまた──彼が灰であるからには何も不思議ではなかった。
「……!」
「危なかった。今のは、直に食らっていれば負けていたかもしれない」
伏せた瞳をハルコに向け直し、床についた手を静かに離して立ち上がる。拳が迫ったその時に冷気でハルコではなく自らの身を覆い、わざと凍ることで即席の防具とし、かつ防御の姿勢を取りながら後ろへ跳んだ。あの瞬き程の短い時間で、ハルコの急激という言葉でも足りないような変化に瞠目しながら、しかし彼はそれだけのことをしていた。十全の対策を取っていたのだ。
なので、派手に吹き飛ばされたように見えたのも形だけ。ライネは上手く威力が我が身に留まらないよう逃がしていた。そして身に届いた衝撃も両腕とその上から覆う氷の鎧とで、完全に守った。それでも僅か以上に腕に残る痛みにライネは慄きながらも感心しているようだったが、ハルコからすれば慄きたいのは自分のほうだった。
大逆転の一手足り得る一撃だった。その自信が彼女にはあったし、仮にこれで勝負を決められなくても優勢を取れる。初めてライネ相手に有利を作れるという確信もあった。けれど蓋を開けてみればどうだ。ライネは殆どダメージなど受けておらず、自分はこうして極度の疲労を抱えてしまっている。
兆しは、見えた。その感触も覚えた。しかしそれをこの勝負中に本当の意味で物にできるかは別問題。ライネに通用してくれるかどうかは、まったくの未知数だった。
「……面白いじゃん」
口元の血を拭って放たれたその言葉が本心からのものかただの強がりか、ハルコ自身にもわからなかった。




