360 少しくらい慢心してくれたって
こちらから殴るぶんには、ダメージを与えられる上に接触も最低限で済む。それでもライネの身に触れる度に冷気が移り霜が発生するが、それが広がりを見せる前に打撃そのものの勢いを利用して振り払う。そうすることで腕が完全に動かなくなることを抑制しながら一方的に損害を与え続ける。ただ我武者羅にしか思えないハルコの吶喊攻撃はそれでいて実に利に適った、彼女が取れる最善手に他ならなかったが。
しかしライネも然る者。自身が格下と見るや形振り構わない猛攻に打って出たハルコの思い切りの良さと気迫に押されて後手には回ったものの、それに動じてそのままズルズルと追い込まれるような下手を彼は打たなかった。息つく間もなく繰り出される連撃の全てを防ぎ、弾き、逸らしていく。回避や退避を選ばずに受けの姿勢を取るのは冷気の蓄積を目論んでのことだ。
いくらハルコが努力しようとも冷気の影響から脱却することはできない。接触回数が増せば増す程に少しずつ霜も増えていき、衣服ごとの凍結によって彼女の動作性を鈍らせ、それによって更に凍結が進行する。即ちこの猛攻は長く続かない。突破口を自ら切り開かずとも守りに徹してさえいれば遠からずハルコは隙を晒す、それをライネは待っていた。待っている、つもりだった。
しかし一向にその時が訪れない。ハルコの連打は未だ衰え知らず、恐るべき体力で攻め続けている。攻め手と受け手の応酬が都合で百を超えた辺りでライネもいい加減に気付いた。ハルコの神力のムラ。大きく揺蕩う水面のように不安定なそれが自分の目も目測も狂わせていることに。
瞬間的な増幅が攻めだけでなく守りにも転じている。接触箇所にこびり付いた冷気の拡大・浸透が神力によって防がれている。遮断されてこそいないがそのせいでライネの想定よりも遥かにハルコの動きの鈍りが遅い。ともすればこのままではこれ以上の進展もないかもしれない。ハルコがどれだけ意図的にやっているかやはりライネには判断が付かないが、意図していようといなかろうと神力の出力次第で彼女の攻勢は終わりを迎えることなく継続する。
それこそ、ライネを殴り倒すまで。勿論そんな展開にさせる気はない──ライネはハルコを自由にさせてはいけないと、己もまた彼女に倣って少々の無理を押し通すことにした。
「ふぅー……」
彼の瞳の色味の変化。その目に見える異変を見つけるよりも先にハルコの背筋に冷たいものが走る。雰囲気が変わった。打ち込む狭間の刹那に本能が警報を鳴らす。持ち前の勘だけでなく、同格以上の敵が剥いた牙を同じく神力を持つ者として鋭敏に察知したハルコは、素直にそれに従って次の打撃を送り込むのを中断。横へ飛び込むような必死の回避行動を取った──そしてそれは正しかった。
「うそぉ!?」
ライネがやったのはハルコが自分のペースへ持ち込むためにやったことと同じ。即ち被弾覚悟の強気の攻め。連撃の処理を完全に捨て反撃を目的に突き出された彼の掌打は、空を切る音から打撃自体の威力も然ることながら、しかしハルコに吃驚の声を上げさせたのは掌打それ自体ではなく。
その放たれた掌、腕全体から振り撒かれる凄まじいまでの冷気。掌打の圧そのままに空気も床面も凍り付いていく異様な光景にこそハルコはゾッとさせられた。
冗談ではない。これでは冷気が漏れ出るどころではなくもはや立派なそういう術ではないか。無論ハルコとてライネが禁止事項を破ったなどとは思っていない。思っていないが、結果として禁じられている術相当の強みが出てしまうならそれはもう戦っている彼女にとっては禁止事項を破られているのと同じだった。
こんな極端なまでの冷気の噴出に晒されては、接触箇所に霜が張る程度では到底済むはずがない。二、三発も食らえば全身が凍らされる。それも打撃だけでなくそこから拡散する冷気からも逃れなくてはならない。
(直撃じゃなければ少しはマシか──いやでもどこかが凍った時点で次がもう危うい。一発も貰っちゃいけない、掠ってもいけない。いよいよ困ったな!)
内心では慌てふためきながらもハルコの行動は的確だった。避け様にしっかりと確認した冷気の範囲を覚え、射程となる距離の二倍以上を取って構え直す。ここからなら冷気だけを届かせようとしても無意味。攻めようとすればライネは接近しなければならず、それを待つ姿勢を取った彼女は付け入る隙を見つけ出さんとギラギラとした目で相手の全身をつぶさに観察している。
どれだけ胸中で冷や汗をかきまくっていようと外身のそれは熱く闘志を燃やしながらも冷静沈着に事を運ぶ歴戦の戦士そのものである。ハルコが「戦う者」として優秀だということはライネにとってもはや疑いようもない。その感服を敬意に表して彼はあえて言った。
「この状態は僕のとっておきのひとつです。神力と併用するのはまだ不慣れで監督役にも使用を推奨されていないんですが……ハルコさんに勝つにはこれくらいの無茶をしないといけないと思ったので、使わせてもらいました」
これ以上の説明ができなくてすみません、と言えない制約でもあるのか単純に言ったところでハルコにはわからないものなのか。とにかく、やはりどこまでも律義に自分がどういう状態にあるのかまで明かしてくる彼にハルコは苦笑染みた愛想笑いしか返せなかった。
彼女からすればライネはそれこそ疑いようもなく格上であり、自分は懸命になって食らいついている側だ。チャンピオンとチャレンジャーのようなもの。だというのに、何故かチャンピオンはいたくチャレンジャーを高評価している。優勢を一度だって崩さないままに最大限の力を発揮しようとしている──マジで冗談じゃない。ハルコは天を仰ぎたい気分だった。
(そんだけ強いんだから少しくらい慢心してくれたっていいんじゃないの? なんで逆にフルスロットルになってんのよ、やってらんないよ)
今のところハルコの攻撃は全て防がれている。通ったのは一発だってない。対するハルコもクリーンヒットを貰ったのは一度だけだが、小さな被弾はいくつもしているし、何より攻防を繰り返すだけで動きが制限されていくのだ。この時点でどう切り返せばいいのか悩ましいというのに、ここから更にライネのギアが上がるとなったら本気でどうしようもない。少なくとも今のハルコに打つ手はひとつも思い浮かばなかった。
せめて自分にも、ライネの冷気のように神力にプラスαで何かしら武器になる特性のようなものがあれば話も違ったかもしれないが……しかしライネのそれは彼が得意とする術からの派生であり、何もいきなり神力から未知の力が生えてきたわけではなさそうだ。ということな、術なんて糸繰りくらいしか覚えのない自分にも突然新しい力が降って湧いてくるなんて奇跡は起こらない。起こりようがない、と結論付けたハルコは。
「…………」
ライネに向けていた笑みを消す。そしてジリジリと距離を詰めてくる彼に合わせてゆっくりと立ち位置を変えながら意識を先鋭化させていく。
力量差についてあれこれと考えたって仕方がない。埋まらないものは埋まらないのだ。であるなら悩むことさえ無駄。限りあるリソースを意味のない行為に費やす余裕などないのだから今はとにかく「考えない」。ライネの出方に合わせて先以上の賢明さで頑張る。それ以外には、ない。
思考を放棄したようなやけくそめいた答え。だが打開策のない現状において少しでも勝負を続けるために、敗北から遠ざかるための最善手を、やはりハルコは的確に選ぶことができていた。
──油断ならない人だ。
その落ち着きようにライネもまた集中力を高め、足に力を込めた。
「行きます」




