359 冷気
◇◇◇
冷気に肌を撫でられる。ライネが神力を解放した途端に彼から漂ってきたそれにハルコが身震いする間もなく、既に彼は目の前にいた。先の踏み込みなど目ではない超速の一歩。神力の補助を受けた途端に跳ね上がった彼の速度に肝を冷やしながらハルコは半ば反射的に打突を送っていた。
見失いかねない程に素早い動きへ咄嗟に拳を合わせる。それができたのはハルコの優れた反射神経だけが理由ではなく、視力のみでなく感覚で彼を追っていたから。その立ち昇る神力の力強さ、放たれるプレッシャーが捉えるまでもなくハルコに脅威とその居場所を知らせたからでもあった。
だが。
「うっ!?」
ライネにも見えている。そして予想通りでもあったのだろう。打突の入りに彼もまた合わせ、それを逸らしながら懐へ。その勢いのまま逸らすために使った腕を畳んで肘を叩きつける。狙ったのはツボで言うところの壇中や中庭の辺り。そこは正面から打てば肋骨や肺などに邪魔されず心臓まで打撃の衝撃が通る人体の急所でもある。無論、自身と同じく神の代行者──「灰」である少女に通り一遍の常識が通用しないことはライネとて存じている。
心臓への徹しが決まったとしても決着とはならない。人であれば致命足り得るそれも灰ならば精々がほんの少し苦しむ程度。そうだ、苦しみはするのだ。いくら人の形のままに人でなくなっていると言っても人の道理から完全に解脱しているわけではない。急所は急所。ただ多少効きにくく、死ににくくなっているというだけ。むしろだからこそライネも遠慮容赦なく肘打を急所へぶつけられたのだ。
灰は死なない。同格の位階を持つ敵との殺し合いであるならまだしも、この条件、この場所での戦いにおいてどちらかの落命は有り得ない。そうとわかっているからこその苛烈な一撃は、打つべき部分へピンポイントで入ったことで成功を強く予感させたが──しかし打った手応えがそれを否定する。
(徹しきれなかった)
ハルコの先手を捌いた後に入れやすかったということで胸間を狙ったが、これは間違いだったかもしれない。服の上からではわかりにくかったがハルコの胸は思いの外にふくよかで打点がズレた。その上でハルコも打たれる瞬間にその部位を強く意識したのだろう、神力の厚み……この場合は質と言ってもいいが、とにかく胸部を守るそれが堅牢になったことで衝撃の通りを邪魔した。
胸はともかく、神力のほうもハルコがどこまで意図的にそうしたのかは不明だが、なんにせよ二重の阻害によって完璧だったはずの返しがそうでなくなったしまった。それだけは咳き込みながらもにやりと笑うハルコにも確実に露呈しており。
「げっほ、やってくれんじゃ──んっ?」
強気な笑みに陰りが差し、反撃のために前に出ようとした足が止まる。ハルコの目は自身の身体に起きている異常に釘付けで、それどころではなくなったのだ。
凍っている。殴られた胸間と逸らされた左腕。どちらもライネの触れた箇所。その両方に霜が張り付き、服の上からでも肌にまで冷気を伝えてくる。当然、その部分は布地が固まり、また筋肉も冷やされて思うようには動かない。なんだこれは、とおかしな現象に呻ると同時に気付きもある。ライネから吹く冷たい風は、自分以上の神力を前にしての悪寒などではなく、極めて物理的なそれであると。
「【氷喚】。それが僕の術の名です。禁じられていますから勿論それは使いませんが……すみません。冷気に関しては神力を使うとどうしても漏れてしまって」
冷気の利用については監督役からも禁止されていないので、使えるものは使わせてもらう。とハッキリとライネは言い切った。謝りつつも譲歩の気を一切見せない彼の言葉にハルコは笑うが、そこには多分に苦々しいものが混じっていた。
(困ったな)
素直に思う。
これはちょっと勝ち目がないかもしれないぞ、と。
何せほんの一瞬触れられただけでこれだ。今はまだ服越しだからいいが、生身の部分で同じことが起きればどうなるかは想像したくもない。そして格闘戦を演じざるを得ない以上、ハルコがこの冷気から逃れる術は実質的に存在しない。それでも糸繰りの使用が許されているならいくらでもやりようはあったろうが……ただしその場合はライネのほうも【氷喚】とやらを好きに使えることになって、結局のところ力関係は変わらなかったかもしれないが。
つまり、格付けは済んでしまった。ライネが上、ハルコが下。冷気混じりの神力は質においても量においてもこちらを上回っており、また身体能力はともかく格闘技量においても向こうに分がある。ということは、だ。
(勝利を目指すには──無茶してかなきゃな!)
思った以上の劣勢にいることを理解し、しかしハルコは怯まなかった。元より女神から授かった才能が遅咲きのそれだったこともあって格上相手との戦いにはもはや慣れたもの。勝機に薄い程度のことで気後れするような殊勝な精神など彼女は持っていない。尚も範囲を広げようとしていく胸と腕の霜を素早く手で叩いて払い、そして前進を再開。右足で踏み込む。
「!」
既に彼女が明かしているようにその足はもう異形のものではない。灰になったことで彼女の体は作り替わり、義足化していた右足は生身のそれに戻っている。なのにハルコが未だに左足を遥かに超える強さを右足から感じているのは何故なのか。そしてそれが思い込みなどではなく確かな差があるのは、どうしてなのか。そこに明瞭な理屈は付けられない。あえて言うならそれがハルコという者の定まった在り方であり、彼女が灰になった故の変化でもあると称する他になく。
だからライネも瞠目させられる。変形機能を失った今のハルコに変形蹴りによる踏み込みという瞬発力をこの上なく高めて接近する例の技法はもう使えるはずもないのに、しかしその右での踏み込みは悠々とライネの反応速度を超えた。無論のこと彼にはハルコの以前と以後の差など知りようも判じようもない。けれどだからこそ、ハルコがどのような行動を起こそうとも対応できるようにと。彼は神力を解放した状態で待ち構えていて。再びの返し技を狙い澄ましてもいた。
先の反省を活かして今度こそ急所へ痛撃を与える。そのつもりでいたし、互いの神力の出力からして目論見の成功率は決して低くはなかったはず──なのに。
「っしゃおらッ!」
「……!」
ハルコが有利・不利の割合を正しく測っているようにライネもまた自身が優勢を取っていることを自覚していた。それは油断や慢心とは異なり至極真っ当な戦力分析に基づく事実でしかなく、そこから導き出される答えはそう易々と覆されるものではない。が、何事にも例外はある。どんな事実にもそれに反するような真実というものも確かにあって。ハルコの場合、それは彼女のアンバランスさから来る振り幅と言うにも大きすぎるその落差にこそあった。
(蹴りだけ。いや、右足を使う時だけ読みが外れる! それに神力にも僕と違って不自然な、極端なまでのムラがある──どこでいきなり爆ぜるかはその時にならないとわからない!)
数々の経験を経て観察力を身に着け、また自身の内部にもその補強をしてくれる存在がいるライネは、誇るべき見る目の確かさ故に見誤ってしまう。技術や膂力、神力の規模から推察される総合的な実力と瞬間的な強度とがハルコはまったく釣り合っていない。そのせいでまたしても返しが返しとならず、連撃を許してしまった。
そこでライネも、結論する。
(自由にさせちゃいけない。多少の無茶をしてでも押し通す──そのために)
薄青の瞳が、その青さを色濃くさせた。




