357 『代行者』
ぬるりと波打つ空間を掻き分けて出てきたのは………女の子? いや、女神が彼と言った。ということは男の子。アザミスみたいに顔立ちだけ見ると女性にしか見えない、とても綺麗な子だった。ただし体格は、細身ではあるけどよくよく見えれば男の子らしい骨格をしていることがわかる。ボディラインのわかりやすい黒い服を着ているおかげだ。例えるなら、フィギュアスケートの衣装から装飾を省いたような服装だ。
「初めまして……? えっと、ライネと申します」
鈴の鳴るような声で言って、彼が頭を下げた。丁寧な挨拶。日本人のそれっぽい。だけどその声音には多分に、困惑も含まれていた。それはきっと私が抱いているものと同種だろう。でも、肩まで伸びている薄青の髪の揺れが収まる頃にはもう、こちらを向いている彼の目に──髪色によく似た青い眼差しに、戸惑いはなかった。ただ静かに私を捉えている。
「ハルコです……あーっと。よろしく?」
「はい。よろしく、お願いします」
お互いにたどたどしく言葉を交わす。でもそれ以上何を言えばいいのかわからず、数秒の間を置いて気まずさに負けた私は振り返って女神に助けを求める。彼女の微笑は常通りに飄々としたものだった。
「何を戸惑うことがありましょうか。わたくしは既に彼、ライネこそが対戦相手であると教えましたよ。ならば自らのすべきが何か、あなたにはおわかりでしょう」
その通り、ルールは聞いた。戦う相手とも見知った。けどそれ以外の疑問が尽きないって言ってんだけどな……いや直接言ってはいないけど、女神には確実に伝わっているはずで、それでも取り合おうとしないってことは女神視点的にはもうそこから先の情報は不要なもの。わざわざ自分が教えてやる意味はないと言っている……いや女神も直接そうは言っていないけど、つまりはそういうわけだと私にも伝わっている。あーはいはい、わかりましたよ。
こういうときの女神には食い下がったところでそれこそ意味がない。なので私は質問する対象を女神から目の前の少年に変えた。
「そちらも『灰』なんだって?」
「灰──ええ、僕のほうでは主に『代行者』と」
「あー、呼び方は色々あるんだっけね」
灰、というのは(女神曰くの)最もポピュラーな神のしもべの呼称であって、どの世界のどの管理者も一律に自身の道具を灰と呼んでいるわけではない。それこそわかりやすく遣いと言ったり彼のように代行者と呼ぶ例だって決して少なくはない……と、女神由来の知識なのか自分が知っているはずのこと以上にわかってしまうのは、もちろんこれも便利ではあるけどちょっと気持ち悪くもある。
気持ち悪い、という感覚を持てるのはまだそれだけ、確かな人間性が残っているってことなのかも。
「あなたも、僕と同じく『試練』を?」
「そうそう、ちゃんと灰として活動するための訓練であり試練……ってことでライネ君と戦わされそうになってるんだけど、そっちも同じって認識でいい?」
「はい。代行者を名乗るための最終試練として、頑張っているところです」
「どこも似たようなもんか……お互い管理者様には苦労させられるね」
「はは、そうみたいです。僕の場合は管理者というより監督役に、ですけど」
「監督役?」
「ええ。そちらにはいませんか?」
少し話を聞けば、どうもライネ君に試練を与えているのは直の上司である管理者──私で言うところの女神ではなく(彼はその存在を『何か』と便宜的に呼んでいるとのことだ)、管理者と同等の位階にいる謎の監督役であるようだった。代行者になるためにああしろこうしとと色々と指示してくるのはその監督役であって、なんと私と同じく「しもべ見習い」の立場にいながらライネ君はまだ一度も管理者と顔を合わせたことがないんだと。
これまたなんだか変な話だな……世界には、というか管理者の中にはそういうタイプもいるのか。誘拐当初にすぐさま私たちの前に立ったうちの女神とはかなりスタンスが違うっぽい? 神様は神様でもやっぱ、多少なりとも人間みたいなそれぞれの個性ってものはあるのかもしれないな。
「大丈夫? その監督役ってのは本当に管理者からライネ君のことを任されてるんだよね?」
「それはまあ、確かだと思います。僕も一時は疑いもしましたけど、なんと言うか。彼女は嘘だけはついていないはずなので」
歳が近そうだってこともあって──あくまで外見上での判断なので実際がどうなのかは知らないけど──ついついお節介な心配をしちゃう私に、彼は苦笑混じりにそう答えた。嘘だけはついていないはず、か。それは私が女神に対して感じていることであり、女神の言うことを聞くための最低保証みたいな部分でもあるために、ライネ君の言いたいことはよくわかった。
にしても、彼女か。監督役っていう響きからなんとなく男性らしい姿を想像していたが、管理者に代わってライネ君を管理しているのは女性なんだな。少なくとも、女性らしい形をした何かだと。
「これが普通かと思ってたけど、意外とうちが珍しいほうだったりするのかな? こんな風に管理者本人が付きっ切りで灰の試練を受けさせるってのは」
言いながら背後の女神を親指で指し示す私だったが、ライネ君は首を動かしてやや大仰にそちらを覗き込むようにしてから。
「ああ、やっぱりそこにいるんですね? 僕には見えませんけど」
「え、見えない?」
「はい。『いる』ことは感じられるんですけど、姿までは」
思わずまた振り返って確かめるが、女神はそこにいるし優雅に微笑んでいる。そして何も言わない。ライネ君には見えないように姿を隠している? なんのためにそんなこと……それとも別世界の灰に対しては管理者違いということで認識の阻害でも起こるのだろうか? それも理のひとつとか。……ま、色々と考えられはするけど、どれだっていいしどうだっていいことだな。
私がこれからやることに影響はしない。あるいはそう考えたのは私ではなく女神のほうだろうか? それもまた、どっちだっていいことだけど。
「あんまり長々と話してもあれだし、早速やろうか。ルールは聞いてる?」
「どちらかが戦えなくなるまで、ですよね」
頷きを返す。そして歩き出す。それに合わせてライネ君も私に向かって歩き出す。そうして女神から少しの距離を置いて、互いに足を止める。
「…………」
「…………」
構えを取る。私は灰になろうとも変わらずいつも通り。やっぱりこれが一番やりやすい。ミニ女神とのバトルでは構えもクソもなく飢えた獣のようにがむしゃらだったので出番はなかったが、この身に染み付いた基本は消えていない。むしろこれまで以上にしっくりくる。それが何だか無性に嬉しかった。
ライネ君は……半身になってオープンスタンスを取っている。けど開き方に対してあまり腰を落としていないし腕の置き方も独特だ。私の常識にはない形だけど、向こうから見れば私の構えも同じようなものだろう。武道とか武術で身につく類いのものじゃなく、闘争の中で。磨いてきた自身の術理によって形成された構え。それは言うなれば剥き出しの闘志。
ピリ、と肌を叩くライネ君の静かな威圧感が、彼が一角以上の実力者であることをはっきりと知らせてくる。
「はじめ」
女神の掛け声を勝負開始の合図とする、とは決めていなかったけど。当然のように女神は合図を発したし、私もライネ君もそれを耳というより機で受け取って動き出していた。
前へ、全速で。奇しくも初手に鏡合わせの選択をした私たちはひと息の間もなく彼我の距離をゼロとして──交錯した。




