後世の評価:ウイキペディアより
感想にて後世のウィキが見たいとのことだったので書いてみました
島津義久(鷹司義久)
島津義久
Yoshihisa shimadzu
時代 戦国時代から大坂時代
生誕 1533年3月4日
死没 1623年3月5日
改名 虎寿丸(幼名)→忠良→義辰→義久、
別名 又三郎
神号 大国豊知主命
戒名 妙谷寺殿貫明存忠庵主
墓所 鹿児島市池之上町の福昌寺
官位 正一位関白太政大臣、天下大将軍
幕府 室町幕府・鷹司幕府
主君 足利義輝
氏族 島津氏
父:島津貴久
母:入来院重聡の娘・雪窓夫人
兄弟 義久、義弘、歳久、家久
妻:島津忠良の娘・花舜夫人
子 平(娘)、仁久
島津義久もしくは鷹司義久は、戦国時代から大坂時代にかけての武将、薩摩国の守護大名・戦国大名で島津氏第16代当主。
大坂幕府の創設者にて日ノ本連邦の創設者でもある。
島津氏の家督を継ぎ、優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて日本を制圧する。
その後、大坂に幕府を開きつつ太平洋全域・南シナ海・インド洋・そして地中海に影響の及ぶ日ノ本連邦を創設し、それは太平洋戦争で各地の連邦国家が独立を果たすまで長い間繁栄した。
生涯
幼少時
天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。
幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待し学問や兵法、教養などを厳しく叩き込んだという。
天文14年(1545年)元服前に叔父の島津尚久とともに船に乗り込み、琉球・明の広州・高山国・ルソン・マラッカ・アユタヤなどに赴いて貿易の重要さを知ったというあたりに彼の非凡さが垣間見れる。
天文15年(1546年)元服した直後は祖父と同じ忠良を諱とし、通称は又三郎と名乗った。
この頃から南方で手に入れた薩摩芋をシラス台地で栽培しつつ、高山国の開拓も行い食糧生産力を大きく向上させている。
三州統一
天文18年(1549年)高山国から薩摩への帰還した彼はフランシスコ・ザビエル達を皆殺しにするという暴挙に出たが、これは彼がマラッカの実態を知っていたからと言われる。
黒川崎の戦いにて肝付兼演とその助勢に駆けつけた蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏を打ち破り、翌年の天文19年(1550年)には薩州統一と家督相続を行い花舜夫人と結婚をしている。
そして初上洛と今上帝への謁見4千貫の寄進を行い、御剣と天盃を授けられ、そして修理大夫兼薩摩守兼大隅守の官位、室町幕府とは三好長慶・松永久秀との対面を行い九州探題及び薩摩大隅守護を与えられている。
義久は尾張へ向かっているがその真意は不明である。
そのときに戦場稼ぎをしていた中々村の日吉との出会い彼が召し抱えられており、雑賀の鈴木を味方につけているので交易路の拡張を考えていたのではないかと推測されている。
天文20年(1551年)島津氏は薩摩の統一が成る前より、薩隅日肥が接する要衝である真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と対峙していた。伊東義祐の重臣・伊東祐安(加賀守)を総大将に、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、伊東祐青(修理亮)らを大将にした3,000人の軍勢が島津領への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟・島津義弘が迎え撃った。義弘は木崎原にて伏兵などを駆使して伊東軍を壊滅させた。
並行して大隅国の統一も果たしている。
そして翌年天文21年(1552年)五ヶ瀬川の戦いの勝利による日向の完全平定が行われ三州統一が果たされることになる。
九州統一
天文20年(1551年)菊池義武が薩摩に逃げ込んできたが、義久は彼を迎え入れて菊池と大友の争いに介入した。
冷遇されていた大友の他姓衆を調略しつつ、天文21年(1552年)には四国の土佐一条氏と伊予西園寺氏を勢力下に入れた。
町資将・西園寺実充・一条兼定・一条房通と言った公家とともに再び上洛すると 、弟義弘には修理亮及び日向守の位を、義久には室町幕府の将軍が将軍職に就任する時に朝廷から与えられる官位とほぼ同じ、正四位下参議・近衛中将並びに肥後守・伊予権守・土佐権守ならびに ”征西大将軍”の称号を授けられており、朝廷からは足利幕府に変わる武家の棟梁と認識されはじめていたようだ。
また将軍足利義輝からは”義”の文字を偏諱され義久と名乗ることになった。
その他に島津には五七の桐花紋、屋形号及び裏書御免の使用が認められ、薩摩・大隅に加えて日向・肥後・豊後・筑後・土佐・伊予の守護職を与えられた。
これは室町幕府将軍としても島津の勢いを無視できない状況になっていたのであろう。
義輝は征夷副将軍の地位も与えようとしたがそれは朝廷がゆるさなかったようである。
このときに近衛・九条・一条・西園寺から島津四兄弟の嫁を取ることになりそして京から貧乏公家の若い男女を引き連れて戻り、薩摩法度により設置された問注所や侍所の運営にかかわらせた。
天文22年(1553年)大友の本拠地である丹生島城を水軍の大砲によって攻略、本拠地を大宰府・博多に移し、壱岐・対馬、肥前の制圧も進め九州を統一した。
この年に正室であるお平が無事に男子を産んだ。
また農民から刀を買い上げて刃金の鍬を作らせ農作業効率も上昇させようとしている。
同時にキリスト教の禁教を朝廷に奏上しつつ明との外交の許可を貰っている。
中国地方への侵攻、紀伊半島の一向一揆への対処
天文23年(1554年)正月評定・撰銭法度の制定、元服式などを行いつつ、毛利を傘下に加え、大内や陶と山口での決戦に勝利しつつ土佐では本山の反乱に対して容赦のない土佐蹂躙戦を行わせている。
その後で本拠地を山口に移動させ山口の街の発展のため治水工事なども行っている。
この年では武田包囲網が敷かれて武田が滅亡し 、三好の本願寺への一向一揆要請により一向一揆が大規模に蜂起している。
天文24年、弘治元年(1555年)紀伊大和へ弟を派遣し紀伊や大和へ侵入した一向一揆勢を殲滅。
尼子の本拠地である月山富田城への兵糧攻めも同時に開始している。
明がポルトガル人をマカオなどの自国領土から追放し、李氏朝鮮が朝貢を求めてきたがそれを拒否。
それにより李氏朝鮮が対馬を占拠しようと兵を派遣するが海上で迎撃しそれを返り討ちにしている。
弘治2年(1556年)尼子が降伏した、李氏朝鮮に対して国内分断作を仕掛け、朝鮮半島は内乱状態におちいった。
この歳彼の二人の妻が無事懐妊したので盛大に安産祈願を行っている。
そして翌年弘治3年(1557年)には九州地方の諸勢力をすべて傘下に入れている。
この年は三好長慶と伊勢貞孝が宴の最中に殺され、将軍義輝も二条御所で自刃し室町幕府は事実上政権運営能力をほぼ喪失した。
日本統一
永禄元年(1558年)上洛戦を開始したが結果的には戦にならずに入京。
比叡山の強訴に対して、義久は宇喜多直家を用いて、廃寺で毒飯を食わせ毒酒をたらふく飲ませて殺害し比叡山の権威を大きく低下させた。
永禄2年(1559年)には美濃・南信濃・三河・遠江・近江を制圧。
その頃の関東では長尾景虎が上杉政虎に名前を変えて関東管領を引き継いだ。
義久は惣無事令を出し、越前朝倉や関東の後北条は惣無事令に従ったが、加賀周辺の一向一揆は従わなかった。
永禄4年(1561年)、越前加賀で10万の一向宗が根切りにされ一向一揆はほぼ消滅した。
能登・越中なども支配下に入れ、越後の上杉を降伏させ上洛もさせた。
永禄5年(1562年)正月行事のお爆竹の馬揃えを派手に行い、北条が国府台合戦の後上総に攻め込んだのを名目に後北条の征伐が行われ、後北条は滅亡、その後東北地方も制圧して日本を統一した。
このとき伊達などは樺太に送られている。
大坂幕府の創設、そして世界へ
永禄6年(1563年)東宮を天下大元帥として義久は天下大将軍の正式な宣旨を受けた。
その後は高山国からルソン島やボルネオ島を制圧しつつ、ミゲル・ロペス・デ・レガスピのスペイン艦隊と交戦してこれを拿捕、その後のヨーロッパはカトリックとプロテスタントの間で大戦争となった。
更にシンガポール、マラッカを制圧、弟である義弘がセイロン島を制圧し日ノ本連邦の基礎を築いた。
日本に戻った義久は法整備を推し進めつつ、海軍、陸軍の組織を制定していった。
最終的には北アメリカ大陸の殆ど、オーストラリアとその周辺の島なども日ノ本連邦の統治地域にし、太平洋における長い間の繁栄の基礎を築いた。
その繁栄は1941年に始まった太平洋戦争によって傘下の連邦国家が独立を果たすまで続いた。
その後
その後は義久の嫡男である虎寿丸が元服するとほぼ同じ時期に祖父である島津日新斎は見届けるべきことは全て見たとばかりに高齢と病によりこの世を去った。
そして虎寿丸は鷹司仁久と名乗り名目上従三位権大納言左馬頭として武家の次期頭領であることを明確にさせて、その後天下大将軍の座を引き継ぐことになる。
義久は伏見に屋敷を建ててそこに移り住んだが名目上隠居したもののその後も実権は握っていたという。
そして上杉謙信を説得し陸軍トップに据えて東西の大名の融和を図りつつ、大名に対しての天下普請などの負担により徐々に軍役よりも納税を選ぶ大名を増やしつつ、天下普請で見せる能力で軍の階級を昇格もしくは降格させたり改易を行ったりすることで、日本国内では封建的制度を徐々に弱めていくことになる。
1623年3月5日に伏見の屋敷にて家族に看取られながら病没した。
人物
いにしえの楠木正成に勝るとも劣らない采配ぶりであると言われる戦闘での無類の強さを誇りながらもその本質的な強さは海外との交易や高山国での農地開発など経済的な面であるといわれている。
弟や子などの一族とは終生仲が良く、太平洋戦争で解体されるまで大坂幕府が存在した最大の理由はその結束の強さゆえであると言われる。
日本史上最高の戦術家であり商売・交易の神としても現在でも祀られ大きな人気を誇る。




