平和な状態を維持するための政治は大変だ
さて、義弘と交代して日ノ本に戻り、今まではお祖父様に丸投げしていた政治を執り行っている。
そもそも政治は何かといえば、自分の権力の及ぶ範囲の人間の意見を聞いてそれぞれの利害調整をし、可能な限り多くの者の不満をなくすというものだと思う。
なので基本的には政治というのはとても地味なものだ。
「決まり事が多すぎても少なすぎても駄目だし、規則を破ったものに対しての罰が強すぎても弱すぎても駄目だしなかなか難しいものだな」
江戸幕府の家康と秀忠は親藩や譜代大名の権力を削ぎつつ、外様大名でも瑕疵のあると思われる家はどんどん改易していったわけだが、これらは鎌倉幕府や室町幕府の将軍たちが側近たちの権力が強すぎてほとんど権力をもてなかったことを反面教師としているようだ。
そして、これにはいろいろ見習うべきことがある。
「あまりも問題の多い家は、やはり改易するべきであろうな」
徳川幕府は改易を多く行ってそれが島原の乱につながったわけでもあるが、そもそも改易になった家は定められた規則を破ったりした問題のある家であって、もともと徳川が定めた規則を破ったりしたことが問題だったりしたのだ。
ある程度薩摩や大隅の平定が進んだ時点で薩州法度を定めたのも、そもそもこの頃は村同士の山や水の権利さえお互いが武力で争って決める”自力救済”が当然となっているのを変えなくてはならなかったからだ。
自力救済というのは本来は民事法の概念で、誰かが何らかの権利を侵害されたばあいに、それを司法の手続によらず、実力をもって権利の回復をはたすことをいう。
そして、そもそも日本では、旧石器から縄文・弥生・古墳時代に至るまで統一した権力がなく、当然司法制度もないために自力救済で決着を付けるのが普通だったようだ。
奈良時代に律令制が定められたときも行政と司法は明確に分けられておらず、その管轄や刑罰の軽重などもかなり曖昧であった
だが、平安時代に律令国家から実質的な王朝国家へ転換した後は更に官庁の存在そのものが有名無実になっていくことで司法の場というものが京の都を除きほぼ消滅していった。
そして鎌倉幕府が成立する頃には朝廷や寺社と武家の幕府などがそれぞれの範囲で掌握している集団の訴訟をそれぞれが受け持って行うことになり、建武の新政で武家の領地を公家が権力を持って奪ったが、その後武力で武家が土地を奪い返していく事になったことが、土地問題などの紛争の解決のために軍事的暴力的な手段で解決する世の中に突き進んでいき、応仁の乱によりそれが頂点に達したと言える。
そういった自力救済を無制限に認めると統治が事実上不可能でもあったので大名は分国法を定めて、そういった行為を制限していったわけだが、問題は最終的には武力で解決するという思考がそう簡単になくなるわけでもない。
なので問注所つまり訴訟を受け付ける司法機関をつくったり、侍所つまり治安維持のための巡回警備を行う組織を作らせたり、消防のための火消所を作らせたりしたわけだ。
現代では裁判所や警察署、消防署はあるのが当たり前だけど戦国時代はそうではないからな。
施薬院と療病院つまり入院が可能な病院や悲田院のような養護施設をつくったのも同じだ。
もっともこのあたりはキリスト教がやっているからというのもあったが。
というわけで現在大坂の町でそれらの施設を改築して見た目を立派にしているところだ。
やはりお膝元の町の住民の不満が大きいようでは困るからな。
「まあそれに見た目は大事だしな」
徳川幕府も幕府の権威の箔付けには苦労していたようだ。
そして平和になるほど訴訟案件が増えるのは頭がいたいところではあるんだが地道に解決していくしかないな。
徳川幕府は町奉行のような司法官や与力や同心のような治安維持要員が少なすぎて、法令を定めてもなかなか浸透しないところもあった。
それはそれで必ずしも悪いことばかりではないのだが、やはりある程度は司法官や治安維持要員の数を揃え、なおかつ十分な俸給を支払うのは重要であろう。




