その頃の後北条の小田原評定
鷹司の攻撃が始まる前の小田原では月2回の評定に集った者で話し合いが行われていた。
後北条氏は2代目である北条氏綱の家督相続とともに関東管領を名乗り、虎の印判状を用いるようになりその印判がない徴収命令は無効とすることで代官による百姓への違法な搾取を抑止する体制が整えられた。
そして後北条氏は直接惣村の有力者に文書を発給して村への直接支配を進めたのが後北条家とその他の守護大名の最大の違いであった。
守護大名は家臣国人を通じての徴税・軍役を行わせるだけであったのだから、それらの安定の度合いが大きくも出ようというものであった。
また定期的な合議によって政治的軍事的行動方針を決める小田原評定は、後北条氏の結束と領地拡大に大きく寄与した良い制度でもあった。
だがそれが悪い方向にでてしまったのが鷹司に対しての行動であった
関東管領である後北条は関東における公儀であって、中央の公儀の鷹司が関東のことに口をだすべきではないという認識でもあったし京武者などいかなるものぞという国人の風潮もあった。
後北条氏は西の時代や環境の変化に気がついていないものが多かったのだ。
氏康が軍事政治ともにうまく運用し、子である氏政も教養を備えた人物で、後北条は一族の結束も固く決して無能ではなかったはずだがその視野は広いものではなかったのだろう。
そんな中で開かれた評定にて実質的な当主である北条氏康がいう。
「ここ小田原は京からはるかに遠い、故に鷹司が兵を動かしたとしても糧秣の輸送にも苦労するであろう。
ゆえに我らは鷹司など怖れることはない。
更に言えば我らには東海道第一の天険である箱根があり、一族の結束も固く、山中・韮山・足柄の各城は簡単に落ちはせぬ。
攻めあぐねた鷹司が小田原に船で上陸したならば四城の兵にて包み討ちにすれば逃げ帰るであろう。
その上我らは武に熟練した関東武士、今清盛の鷹司の京武者などは恐るに足らぬ。
我ら100騎をもって、1000騎を蹴散らすこともできよう。
はるか昔の源平の合戦において、京よりやってきた平維盛は10万の兵を率いたものの食料不足により富士川にたどり着いた時には4千まで兵は減り、残ったものも関東武士を怖れ、水鳥の羽音を聞いただけで皆逃げ散ったと言うではないか。
近くは上杉憲政と長尾景虎も10万の兵を持って攻めかかってきたが、この小田原城を攻め落とすことはできなかった。
そして小田原には万全な量の兵糧や矢玉もあるのだから、十分な期間籠城できるであろう。
そうなれば、鷹司の兵は士気をくじかれ、兵糧不足となって以前に勝手に撤退していったと聞く佐竹などのように脱落する者が増え結局は鷹司も逃げ帰ろうぞ」
そういう北条氏康も室町殿の中枢にいた伊勢の生まれであるゆえに白粉にお歯黒をしているのだから坂東の国人からすれば都かぶれの余所者としか思われていなかったりするのではあるが。
白粉にお歯黒は室町殿の中枢にいたものはみなしているので、今川義元だけが公家かぶれでやっていたわけではなかったりする。
そこへ北条綱成が待ったをかける。
「確かに京より小田原は遠くございますが、古の平家とは違い鷹司は駿河・甲斐・上野・越後までその勢力圏に組み込んでおります、であれば食糧不足での自滅は考えづらいかと」
氏康が眉をしかめていった。
「ではその方ならばいかがする」
「少数の兵力で多数を抑えるのであれば狭隘な地域に引きずり込み打撃を与えるしかありますまい。
箱根の山中にて鷹司の兵を釘付けにし下田より後方の小荷駄をたたけば兵は山の中で飢えることになろうかと」
「ふむ、では山中、韮山、足柄の三城には最精鋭の兵を集め、その分は徴兵した男子などをあてて小田原は守るべきか」
「北方や東方からも鷹司に従った者たちが押し寄せてくるのは明らかでありますが、鎌倉の玉縄城や鉢形城はそうはやすやすと落ちますまい。
箱根山中で兵を釘付けにし糧道を断つことで持久戦強いて出血を増やせば鷹司も講和に応じるもの思われます」
しかし北条氏邦はそれに否やを唱えた。
「山の中で迎えうつなどといってもこちら側がジリ貧となる可能性が高いのではないか?
ならば古の頼朝公のように、駿河は富士川までうって出て集結が完了する前に叩くべきではないか?」
北条氏邦は次兄の氏照同様に武勇・統治に優れ、北関東の最前線の軍事と統治を任されてはいたが短慮で非常に激しやすい性格であるとも見られていた。
結局は氏邦の意見は取り上げられる事なく箱根の山中で足止めをしつつ、小田原城に籠城して相手の兵糧切れを待って撤退するのを待つのが良かろう、という意見が消極的ながら大勢の支持を得て行動方針は決まった。
それに対し北条氏邦は声を荒げていった。
「守っているだけでは勝てぬというのがわからぬか!」
そう言いながら彼は自らの居城である鉢形城に戻り抗戦の体制を整えるのであった。
「たしかに城にこもっているだけでは勝てぬでしょう。
敵の油断を突いて奇襲や夜襲は行うべきでしょうな」
北条綱成がそういうと氏康もうなずく。
「我らが奮戦すれば関東の国人も鷹司から我らに寝返るものもいよう。
いざといなれば偽装の降伏によって混乱を引き起こすこともできようて」
そうして鷹司の主力は箱根の山中にて足止めしつつ小田原の籠城で鷹司の撤退を待つという方針が決まった。
だが長尾景虎が小田原を攻め落とせなかったのは下野や常陸の大名などは長尾に従っていたとは言えないことや飢饉で兵糧が足りなかったからこそ略奪のために武蔵などを襲った面が強いことなどもあった。
更には長尾には鷹司という脅威が迫っていた。
そのために小田原に籠もって防御に徹せられると、兵糧不足も露呈し勝手に領国へ帰るものなどもでた。
しかし、鷹司に敵対する勢力は後北条以外はほぼ皆無となっていた。
そして鷹司より告げられる当主自らの降伏以外は認めぬという宣言により後北条は策の一つを封じられ、精兵を少数で分散配置した山中、韮山、足柄の三城があっさり陥落したことで山中で兵を釘付けにするという目論見も外れてしまった上に精兵を無駄に戦死降伏させることにもつながった。
この結果、箱根で足止めし攻撃を防ぎながら後方の小荷駄を襲って撤退させるという計画は、瞬時に破綻してしまった。
そもそも山中、韮山、足柄のすべての城はさほど規模の大きな城塞ではなく、万の軍を防ぐ力はなかったのだ。
かろうじて奇襲をかけて多少の損害を出すことには成功したがそれで足止めを出来るほど鷹司主力はやわではなく、さらに木下藤吉郎・藤次郎の二名が江戸などで米を買い付けそれを駿河の江尻や清水の港に米を運ばせ、大豆や矢玉といった軍需物資を買い整えさせたため北条は補給に苦しみ、鷹司は余裕で物資を運用できていた。
これにより後北条が期待した、鷹司の大軍は食糧不足になって軍が撤退するという事態も発生せず武蔵などでの籠城側に不利になっていく状態であったが、更に鷹司により小田原の南西にある笠懸山に附城が築城されはじめた。
更に城の東西北へと諸将が配置されて、もはや後北条は小田原城の中から出ることも、外から入ることも不可能となってしまっていた。
南は島津の水軍により完全に封鎖されこちらも出入り不可能となった。
小田原城は三重に堀がめぐらされ、その中に石垣と塀が築かれ、矢倉が隙間なく建てられた、非常に堅固な要塞で食料弾薬などはまだまだあるがそしてこの時の鷹司の陣営に、ある噂が流れていた。
「九州の畠山義弘が謀反を起こすのではないか」
というものだった。
後北条の風魔による流言だがこれはあまり効果はなかった。
「上杉謙信は養子の家久を傀儡としてそのまま東国を切り取るつもりらしい」
という噂も流れたがこれもあまり効果はなかった。
史実では小牧長久手で対立した徳川家康と織田信雄が秀吉に謀反を起こすのではないか、という噂が流れそれはある程度真実味を持って受け入れられていたが島津の兄弟が今までぶつかったことはないのが大きな違いであったろう。
後はどちらが先にまいるかの根比べになる。
籠城した後北条側はそう思っていた。




