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第八話

 その後も高速で空回りする思考を力づくで押さえつけ、やっとの思いで公務を終えたアルマは晩餐までの僅かな合間、球撞き(ビリヤード)に興じるべく談話室へと足を向けた。


 普段ならばレオンを誘うところだが、今日は仕事が終わるや否や街へ繰り出したらしく何処にも姿が見当たらない。暇さえあれば城の中庭で素振りをしている男にしては珍しいことだった。まあたまには一人で腕を磨くのも悪くない、と目当ての扉を押し開いたところで先客の姿が目に入る。


 その人影の正体に気付いた瞬間、アルマは手にしていたドアノブを思わず引き戻しそうになった。


「陛下」


 けれども。


 薄暮の光を背にした男が、ただでさえ眩いその顔を一際輝かせて己を呼ぶものだから。


 気付けばアルマは、火を慕う蛾の如き足取りで男の傍へ歩み寄っていた。


「本日のご公務はもうお済みですか」

「…ああ」

「お疲れでしょう。どうぞごゆっくりなさってください」

「…ああ」


 何か一言気の利いた台詞でも、そうは思えどいざ口を開けば出てくるのはありきたりでそっけない相槌ばかり。つくづく己の情けなさが嫌になる。…いやこれでは誤解を招く。別に自分はこの男の機嫌を伺うつもりは毛頭ないのだ。ただ、ガルド人はお喋りもままならぬ退屈な人種と思われては癪だという、それだけの話である。


「そなたは何をしておるのだ」

「私ですか? 私は刺繍をしているところです」

「刺繍?」


 思いも寄らぬシグナスの言葉に、アルマはつい身を乗り出してその手元を覗き込んだ。


「男が刺繍とは珍しいな。それともルナリアでは男も手仕事をするのか?」

「いえ、ルナリアでも刺繍を嗜むのは主に女性かと。私の場合は…お恥ずかしながら、訳あって公職を辞してからというもの他にする事もなく、手慰みにと始めたのがきっかけでして」


 現皇帝のコルバス(シグナスの兄)はよほど無欲な男であるらしい。自分がルナリアの帝位にあれば、あらゆる面倒事の解決をシグナスに押し付ける事だろう。


「そなたの名声は我も耳にしておる。普段人の欠点ばかりあげつらうルシャードも、珍しく手放しに褒めておったわ。そんな人間が暇を持て余すとは、ルナリアはよほどの傑物揃いと見える。まったく羨ましい限りだ」

「ふふ。過分なお言葉、感謝いたします。陛下のご期待に沿えればよいのですが」


 常々感じていたが、この男は自身を軽んじへり下るきらいがある。世の中のありとあらゆる者を見下すルシャードの傲慢さを少しばかり分けてやりたいところであった。


「どれ、見せてみろ」


 アルマの言葉にシグナスは僅かに眉を下げ、躊躇いがちに手元の刺繍を差し出した。──もしかするとこの男、頭は回るが存外不器用なのやもしれぬ。そんな意地の悪い期待を胸に、アルマは手渡された布地を目の前に掲げた。


 …。


 ……。


 分かるかっ…刺繍の良し悪しなど…!


 そもそも刺繍どころか縫い針すら握った事の無い人間が、その出来栄えを評価すること自体、土台無理な話であって。アルマに分かる事と言えば、目の前のそれが大小の花々を円状に描いたものだという、その程度であり。どの花も何となく見覚えがある、気がする。恐らくはどれも城の庭に咲いているものだ。


 花の豊かな色彩を表現するためか、無数の色糸が細やかに縫い込まれている。だが不思議と毳々しさはなく、全ての色合いが静かに溶け合っていた。幼い頃アルマが描いた庭の絵とは大違いである。…具体的に何が違うのかを問われても、答えられはしないが。



 だが、それにしても。


「…美しいな」



 思考が脈絡を失い雑多に渦巻く中、口を衝いたのは何でもない、単純な言葉で。


 ──直後、アルマは襲い来る羞恥と後悔に揉まれながら己の迂闊さを呪った。


 こんな、こんな無防備な賛辞を述べるつもりは無かったのだ。刺繍を手にしたのも、どこかしら粗を見つけ揶揄ってやりたいという、ほんの出来心であったのに。


 ああくそっ、そんな無邪気な顔で笑うでない!


 アルマの思惑とは裏腹に、男はこの上なく軽やかに弾んだ声で礼を述べるものだから、何か言い返してやらねば気が済まず。


「だ、だが庭にいくらでも生えているものを、わざわざ刺繍という形で留め置くとは。その酔狂な感性だけは理解出来んな、うむ」


 それはもはや難癖とも呼べぬ、ただの甘ったれた詭弁でしかなかった。しかし。


「ええ…仰る通り、かと…」


 何を思ったかシグナスは珍しく口籠り、その煌めく双眸をそっと宙に投げ出した。


 …つい先程まで、嫌味なほど隙のないこの男をどうにか揺さぶってやりたい、と。そう願っていた筈なのに。


 今こうして己の言葉に眉を寄せ、言い淀むシグナスの姿を目にすると、無性に胸の奥が疼いてたまらなかった。


 この男を思うとたちまちアルマの心はてんでバラバラに千切れ、自分が何を欲しているのか、その輪郭を見失ってしまうのだ。


 己が招いた沈黙に耐えきれず、シグナスを追いかけるようにアルマの瞳もまた宙を彷徨い出した、その時だった。


「実を、申しますと」


 男は、あたかも祈るような声で。


「陛下に、枯れることのない花をお見せ出来ればと思いまして」


 そう、ぽつりと呟いた。

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