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第九話

 その言葉にアルマは──アルマは何も言えぬまま、視線だけが男の横顔を滑り落ちていく。


 今朝の些細な出来事を、よもや覚えているとは思わなかった。心に留める価値があるとも、思っていなかった。


『花は、あまりお好きではありませんか?』

『…すぐに朽ち果てるものを、愛したとて何になる』


 そうだ。いつだってそうだった。この男はアルマの発言を子供の戯言と受け流すどころか、そこに潜む僅かな不安や苛立ちさえも優しく拾い上げてしまう。まるで、そんな感情の発露こそ愛すべきものだと言わんばかりに。


 花。母との思い出を繋ぐもの。死後の寂寥を呼び起こすもの。


 湧き上がる懐古と感傷。母への思慕。男に抱く謝意。霧のように曖昧で波のように無秩序な今の心境をどう表現すべきか、葛藤の中アルマはもがいた。この男の前ではいつも予期せぬ言葉が口を衝くのに、言葉にしたい思いほど口にするのは困難で。


「…母は生前、毎朝庭を散策するのが日課でな。その日一番美しく咲いた花を摘んで、我の部屋に飾ってくれた」


 何ともおぼつかぬ告白を、ぬくもりに満ちた瞳だけがそっと見守っていた。


「ある時、何故毎日そんな面倒な真似をするのかと、母に聞いたことがある」


 指が無意識に刺繍の糸目を辿りだす。昔日の母を、シグナスとの今をなぞるように。


「母は…『私が美しいと思うものをアルマにも見せてあげたいの』と、そう言っていた」


 母が亡くなったのは、アルマが六歳を迎えた秋のことだった。当時のアルマはまだ死というものが人をどこへ連れ去るのか知らずにいたが、葬儀を終えふと部屋の花瓶を目にした時、そこにある枯れ落ちた花の姿を見て、母がこの部屋を訪ねる事はもうないのだと、幼心に理解したのを今でもはっきりと覚えている。


 …この男もまた、アルマに分け与えようとしてくれたのだろうか。自身が愛しく感じたものを。それを目にした幸福を。


「陛下のお母様は、まことお優しい方でいらしたのですね」


 ──そなたのようにな。


 またもや予期せぬ言葉が飛び出しそうになり、アルマは慌てて口を噤んだ。


「今のお話だけでも、お母様がいかに陛下を愛していらっしゃったか、そして陛下がいかにお母様との思い出を大切になされているか…私にも、分かるような気がいたします」

「…ふん」


 未だ乳離れも出来ぬ小娘と言われたも同然であるのに、何故だか、アルマの胸に溢れたのは怒りでも不平でもなく、こそばゆくも満ち足りた感慨であった。


「だが、城の庭にこれ程多くの花が咲いているとは知らなんだ」


 かつて母に貰った花々の姿は、今や淡く揺れる影のように霞んでしまった。母との全てを記憶するには、あまりに幼すぎたのだ。


「ふふ。これでもまだほんの一部でして…昼間庭に出た時など数歩行くごとに新たな花が目に留まり、そのどれもが大変美しいものですから、散策もままなりませんでした」


 そう楽し気に語る男の顔はなんとも無邪気で、ふとアルマの頬も緩んでしまう。


 こと庭に関しては、長年この城に住まうアルマより嫁いで一週間と経たぬシグナスの方がよほど詳しいようである。…致し方あるまい。アルマはかねてから花よりも虫取りや剣の鍛錬を好む気質であったし、公務の合間には専ら球撞きに熱中しているのだから。


 誰ともなしに言い訳を重ねながら、アルマは今一度手元の刺繍に視線を落とす。鮮やかな色糸は互いに競い合うことなく、和やかに調和している。どこか慎ましさすら感じられるその在り方が、目の前の男と重なって見えた。


「我は多忙ゆえ、庭を隈なく見て回る暇もないのだ」


 少しばかり、見栄を張った。ルシャードはあれでも大概アルマに甘い男であるからして、頼み込めば余暇の時間を設けてくれるに違いない。しかし何事にも口実は必要で。


「…これからはそなたが見せてくれるか。この城にある美しいもの全てを、我に。どうせ時間はいくらでもあろう?」


 この男の目に映る世界は、一体どれほどの輝きに満ちているのか。それを見てみたいと思ったのだ。


 アルマの求めを、断りはしまい。そんな確信があった。


「それが、陛下の心の慰めとなるのでしたら──喜んで」


 はにかむように。心満たされたように。今という幸せを噛み締めるように。シグナスは微笑んだ。


 その声のあたたかさに、アルマは思わず息を呑む。夕暮れのやわらかな日差しより、男の瞳が湛える光の方がよほど優しく見えた。


 アルマもまたその微笑みに応えようと──。


 したところで。はたと我に返る。



 …何だ、この甘ったるいやり取りは!?



 あまりの気恥ずかしさに頬はたちまち熱を帯び、腹の奥から焦燥がこみ上げる。


 確かに、ものの数日で夫に幻滅されたとあっては王の威信に傷がつくからして、それとなく気遣う素振りを見せるべきかと考えてはいた。いたが、今しがたの言動は「気遣う」等という範疇を優に超えている。


 これではその、くど、口説き文句と変わらぬではないかっ…!


「陛下…?」

「んあっ!?」


 突如思考の海から引きずり出され、たまらずアルマは飛びのいた。


「す、すまん。どうにも眠気がしてな」


 どうしようもなく杜撰な言い訳であった。その場しのぎの嘘と分かっていように、シグナスはそれを咎めるでも、問い詰めるでもなく、ただ夕凪の如く穏やかに告げた。


「そうでしたか。申し訳ありません。陛下はご公務でお疲れだというのに、長話にお付き合いさせてしまって」

「ああ…いや…うむ…」

「ですがこうして陛下とお話しできたこと、嬉しく思います。夕食までの間、どうぞお休みください」

「ああ…」


 その声音に呆れの色は微塵もなく、むしろ包み込むような温もりすら感じられる。どうにも居たたまれぬが、しかし今だけは安堵が勝った。


 アルマは手にしていた刺繍をそそくさと返すや否や向かいのソファに荒々しく腰掛け勢いよく目を瞑る。だが心中穏やかでない中全てを忘れゆったり寛げる筈もなく、アルマは早々に仮眠を諦めそっとシグナスを伺った。


 男は再び針を手に、黙々と刺繍に取り組んでいた。…恐らくは、アルマの言葉に従って「美しいもの」を縫い上げるために。


 針が布へと潜り込み、少しずつ形を成してゆく。その様子は、まるで目に見えぬ過去の断片をひとつずつ繋ぎ合わせる作業のようにも見えた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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