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第二十四話

「何か」

「いや。君は存外、我慢強い子だと思ってね」


 コルバスはいかにも寛いだ様子で背もたれに身を預ける。あたかもそこが男の玉座であるかのように。


「君がそうもしおらしくしているのは、声高に僕を非難したところでお優しいシグナスは心を痛めるだけだと理解しているからだ。だから君は、今も最低限の礼節を保っている。ガルドの猛き姫王…その名によらず中々健気なお嬢さんだ」


 …まったく、なんとも息が詰まる会話だ。だがアルマとて引くつもりは毛頭ない。


「単にその姫王とやらがコルバス殿に盾突く度胸もない、名ばかりの臆病者だという可能性もありましょう」


「ふっ…あまり年長者の見識を侮るものではないよ」


 そう不敵に呟くと男はゆるやかに視線を滑らせシグナスを見やった。


「シグナス」


 囁くような声色に棘を含んだ愉悦が滲む。


「お前は随分と愛されているようだ」


「えっ…ええ。アルマ陛下を始め、城の皆様には大変よくしていただいております」


 それきり口を閉ざしたシグナスを、男は黙したままただ執拗に眺めていた──獲物の傷を確かめる狩人の如き眼差しで。



「相も変わらずお前は不幸ぶるのが得意だね」



 肌に触れる空気が微かに揺れた。


 隣に座るシグナスが息を呑んだのだと気づく。



「昔からお前は何も言わず、何も頼らず、そのくせ誰よりも哀れな存在であるかのように振る舞う。今だってそうだ。お前をしきりに庇おうとする者をよそに自分は一人ぼっちだとでも言いたげに、今にも泣きだしそうな顔をして人の同情を買おうとする」


 それは単なる威圧でも嘲笑でもない──滾るような昏い熱に抱かれた声だった。


 男の胸を焦がすのは、怒りか、侮蔑か、羨望か。恐らくはそのどれもが正しく、されど核心には遠く。


 憎悪と呼ぶにはあまりに悲しく愛と呼ぶにはあまりに歪んだ行き場のない激情が、陰る瞳に鈍く輝いていた。


「王の寵愛だけでは物足りないと? 出来のいい自分にはもっと相応しい舞台があると、そう思っているのかい? 随分わがままになったものだ。彼女に少々甘やかされすぎたかな?」

「コルバス殿──」




「──陛下」




 そっと話を遮る声にアルマは思わず振り向いた。


 窓から差し込む春の日差しに目が眩む。


 白く揺らめく光の中に男の姿が浮き上がる。


 その顔にもはや怯えの色はなく。


 その目は今や天を仰ぐ瑞木《みずき》の如く力強さに満ちていた。


 ぱちり。


 引き合う二つの視線が交わる瞬間、シグナスは──微笑んだ。


 あなたのお陰で私は今、これ程までに幸せなのだと。


 そう、囁くように。


「…兄様の仰る通りです」


 シグナスは凛とコルバスへ向き直る。


「アルマ陛下は、この城の方々は私に多くを与えてくださったというのに、私は…いつかその全てを失うことを恐れ、今という幸せから目を逸らしておりました」


 長い冬を抜け春の中へと踏み出した朗々たる声が部屋を流れる。

    

「兄様。兄様にどのようなお考えがあったにせよ、私とアルマ陛下を巡り合わせてくださったこと…私は深く感謝しております」


 その言葉にコルバスもまた──微笑んだ。


 それは酷く満ち足りた悔しげな笑みだった。


 弟の全てを見下しながら、弟の全てを羨んでいるかのような。


 苦い憧憬を湛えた笑みだった。


「ふっ…」


 それも束の間、男はたちまち澄ました余裕を取り戻し不敵に眉を持ち上げる。


「どのようなお考え、ね…君は疑問に思ったことはないかい、アルマ。なぜこんな辺鄙な田舎に才知に長けたルナリアの皇子が送り込まれたか。この婚姻はルナリアがガルドを手にするための足掛かりに過ぎぬのだと、そうは思わないのかい」


 冷ややかな口ぶりとは裏腹にその目は確かな期待を抱いていた。


 ──君ならばこの程度で揺るぎはしまい。


 そんな声無き挑発にアルマも負けじと前を見据える。


「…我は若輩者なれど、このガルドを治める王として国の現状をよく理解しているつもりだ。ルナリア程の大国が策を弄してまで手にするだけの価値があるなどと、思い上がってはおりませぬ」


「そうかな。この国は暖かく肥沃な土地に恵まれている。どれだけ金を積もうとルナリアでは決して得られぬものばかりだ」


「単に穀倉地帯を望むならリティク、オリュザ、ソーヤ…候補はいくらでもありましょう。山河に隔てられ行き来すらままならぬ辺境に手を出すほどコルバス殿も愚かではない筈だ。それに…」


 そう口にしながらふと遠い記憶が蘇る。


 あれは二年前、初陣を控えた夜のこと。


「もし仮にシグナスが我を欺き玉座を手にしたとて、それは我に王たる素質がなく人を見る目に欠けていたという、ただそれだけのこと。その時は笑い者にしてくださればよい」


 あの時も。例えこの戦に負けようと、それは単に自分のような小娘に王は務まらぬと民衆が判断した、ただそれだけのことだと。


 そんなひねた諦観を抱きながら眠りについたのを覚えている。



 それでも──負けるつもりはなかった。


 昔も、そして今も。


 何一つ諦めるつもりはなかった。



「ふっ…ふふふっ…はははっ」


 突如部屋を揺らした笑い声にアルマはたまらず面食らう。


「おっと、失礼。何も君を馬鹿にしたい訳じゃない。ただ…君は随分、若いと思ってね」


 ふっ、と一つ息を吐きコルバスは僅かに目を伏せる。


「君のような子には想像もつかぬ事だろうが…大人になるというのは、かつての勇敢さを忘れ臆病になることなのさ」


 何故だか。


 そう語る男の目もまた、どこか遠い過去を見つめているように思えた。


「今手にしている全てを、この先手にする筈だった全てをいつか失うことになるのではと恐れることだ。…僕やシグナスのようにね」


 深い寂寥に沈む声が春の光に溶けていく。


「君は若く傲慢だ。常に最悪の事態を想定しながら、自分ならば最良の未来を掴めると信じている。僕のような大人には、時折…その傲慢さが眩しく映る」


 男はそのまま暫しアルマを見つめていた。



 愛しげに。



 切なげに。



 寂しげに。



 ただ、静かに。



「…おや、僕としたことがついお喋りがすぎたようだ」


 どれ程そうしていたことか。


 男は椅子の背から身を起こし再度カップを手に取った。そのまま中身を静かに飲み干すと軽やかな足取りで立ち上がる。


「今日のところはこれにて失礼するよ。いずれまた、お目にかかろう」

「お見送りを──」

「結構」


 男は一人扉へ向かい歩き出す。うららかな春の陽光が去りゆく影を追いかける。


「ああ、最後に」


 部屋の扉を目の前に、コルバスはふと振り返る。


「君のその若さが、どうか永遠に失われぬことを願っているよ──アルマ」

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