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最終話

 その晩。アルマはシーツにくるまりながら一人部屋の扉を見つめていた。待ちわびる影はまだ訪れず。それでも不思議と心は穏やかだった。


 元より待つことは苦手だった。寂しさは悲観と後悔を連れてくる。けれど今は、この孤独も静けさも誰かを──シグナスを迎えるための余白なのだと、そう思えた。


 月光が眠る世界を銀に染め、吐息さえも夜に交わり溶けてゆく。


 やがて。



 ──カチャ、リ。



 慎ましい音が静寂を微かに揺らす。僅かに開いた扉の奥で儚い瞳がそっとこちらを窺っていた。男はアルマの姿を認めると足を止め、小さく息を呑む。細い指先が扉の縁を躊躇いがちに掴んでいた。


 アルマは何も言わぬまま寝台の隣を二度、軽く叩く。それは命令であり、懇願でもあった。


 男は瞳を揺らしながらも扉をゆっくり押し開けた。淡い銀の光の中に焦がれし影が立ち昇る。



 ──美しい男だ。


 佇まいから爪の先に至るまで。


 内に抱く、心さえも。




 シグナスは尚もアルマの顔を窺いながら寝台へそろり歩み寄る。


 一歩、また一歩。


 男が足を踏み出すたびに二人を隔てる夜が縮まる。


 その足がとうとう寝台の傍らに辿り着き、震える指先がそっとシーツを撫でた。これは夢ではないのだと、そう確かめるように。


 しゅるり。


 シグナスはそのまま静かに身を横たえた。シーツがゆるやかに波を打ち、二つの視線が再び交わる。


 それはもはや特別ではない、されど掛け替えのないいつもの夜。いつもの景色。


 けれど何かがまだ足りない。


 互いの呼吸が触れ合う距離にありながらまだ冷たくて、寂しいままで。


「シグナス、手を」


 心のままにアルマがその手を差し出せば、シグナスの目に躊躇いと──堪えきれぬ歓喜が滲む。宙を彷徨う白い手を、アルマはそっと捕まえた。


 絡める指に力を込める。もう二度と手放すことのないように。


「…へい、かは」


 ぽつり。


 掠れた声が夜に落ちる。


「なぜ、こんなにも…わたしに、やさしくしてくださるのですか」


『陛下はなぜ、これ程までに私の事を気に掛けてくださるのですか?』


 …今にして思えば。シグナスを初めて目にしたあの日から、自分はずっとその"なぜ"から逃げ続けていたのだ。


 その輝きに、その優しさに向き合うのが怖かった。


 その温もりに触れるたび、世界はぐらりと目を回し心の在り処を見失う。


 理屈の通じぬ本能に吞み込まれるのが怖かった。


 だが──臆病ゆえに逸らす目が、その笑みを曇らせるならば。



「そなたの寂しげな顔を見ていると、どうにも胸が騒ぐのだ」



 見栄を理由に偽る声が、心に亀裂を広げるならば。



「そなたが何の憂いもなく日々を笑って過ごせるよう、出来る限りのことをしてやりたい、と…そう思う」



 もう何も恐れはしない。



「なぜ、わたしのためにそこまで…?」



 アルマは静かに息を吸う。



「そなたを」



 繋ぐその手にもう一度、力を込める。



「そなたの全てを」



 世の何物も抗えぬ、この身を焦がす渇望を 



「──愛しているからだ」



 人は恋と呼ぶのだろう。



 二人を隔てる最後の夜が今ほどけ、後には互いを結ぶ温もりだけが満ちてゆく。


 細い指が震えながらもやおらアルマの手を握る。夢のように優しく、けれど決して離さぬように。


 潤む瞳は眩い光を湛えてただひたすらにアルマを、アルマだけを見つめていた。やがて一筋の涙が頬を伝う。ゆるやかにこぼれ落ちた淡い雫を拭ってやれば、男の口から小さな嗚咽が漏れた。


「…何を泣くことがある」


 シグナスはやわく首を振りながら、繋ぐ手を引き寄せ胸に抱く。


「嬉しい、のです」


 これまで堪え続けてきたものがにわかに溢れ出すかの如く、その眦《まなじり》からまた一つ涙がこぼれた。


「ずっと、陛下のお役に立ちたいと、そう思っておりました。夫として、年上の男として、少しでもお力になれればと…けれど実際は何もできぬまま、いつも陛下の優しさに救われてばかりで…」


 泣き咽《むせ》ぶか細い声が深く一途に想いを語る。


「これ以上求めてはならないと、望んではならないと…分かっていた筈なのに。それでも、あなたに惹かれていく自分を…止められなかった」


 空に掛かりし銀月が果てなき陰を遍く照らす。


 夜を行きし者たちが、互いを見失わずにすむように。


「陛下、私は──」

「──我の名は『陛下』ではない。『アルマ』だ」


 アルマは乞う。王ではなく、ただ一人の人間として。


「我を愛しく思うなら、構わずその名を呼べばいい。…前にそなたがそうしたように」


 濡ればむ瞳がゆらり揺らめき新たな雫を生み落とす。


 やがて目の前の唇がゆっくりと開かれた。




「アルマ」




 世界中のどんな陽だまりだって敵わない、あったかくて優しい声がアルマの心を力いっぱい抱きしめる。


「アルマ、私もあなたが…好き、なのです。自分でもどうしようもない程に、あなたの全てが欲しいと、そう願ってしまうほどに…」


「もとより我の全てはそなたのものだ。そなたの全てが我のものであるように」


 尽きることなき幸福にどちらともなく笑い合う。


 ああ。ほんの半時前までは、この男が部屋に来てさえくれたならもうそれ以上何も望むまいと、そう思っていたのに。


 吐息の交わる距離に身を置けば、心と心が繋がれば、さらなる欲がこみ上げる。


 その熱をもっと近くで感じたい。これは夢ではないのだと、確かめたくてたまらない。


「シグナス」


 本能の赴くままに顔を寄せれば、シグナスが息を呑むのが分かった。


 そのまま、星が大地に引かれるように。



 二人の唇が重なる──────────────────


 ──────────────────────────


 ───────────────────────はずが。



 むぎゅっ。



「……」

「……」


 憐れアルマの企みは無粋な手の平により阻まれた。


「あの、へい…こほん。アルマ」

「…なんだ」

「その、つかぬことをお聞きしますが…一体何をなさろうと…?」

「この状況ですることなど、口づけ以外にあるまい」

「…………いっ」

「い?」


「いけませんっっっ!!!!!!」


 シグナスは城中の人間を叩き起こさんばかりの声を張り上げて、繋いだ手と手はそのままに空いた右手でぐいとアルマを押し返す。その器用さにほとほと感心しながらアルマは渋々身を引いた。


「なっ、何を考えておられるのですか! あなたはまだ成人もされていないのに、く、口づけなどっ…早すぎます!」


 今しがた愛を告げたその口で説教をかます男を前に自ずとアルマの眉間に皺が寄る。


「我らは夫婦なのだぞ。夫婦が口づけを交わして何が悪い」

「…ふ、夫婦といえども節度は必要かと」

「そなたは愛する女の望みを断るというのか」

「ううっ…ア、アルマはお優しい方ですから、愛する私が多少の我がままを申し上げても、きっと許してくださるでしょう…?」


 …仰る通り、我がまま程度で愛想を尽かすようなら今日まで頭を抱えることもなかったわけで。まったく、惚れた弱みとはよくぞ言ったものである。だがまあ、慣れぬ大声を出しながら必死に抵抗する姿も中々…おほん!


「ではなんだ。我の齢を理由に口づけを断るというのであれば、つまり我が成人すればそれこそ口づけでもなんでも許してくれると、そう申すのか?」

「? はい、勿論です」


 断る理由が一体どこにありましょう、と言わんばかりにシグナスは躊躇いもなく頷いた。…くそっ、覚えておれ。その言葉いまに後悔させてやる。


 とはいえここで無理を強いてシグナスを困らせるのも本意ではなく。仕方あるまい、今日のところは引き下がるとしよう。あくまで、今日のところは。


「…分かった」


 アルマは不承不承頷きながらも先程自分を拒んだ右手を掴み上げ、その甲めがけて騎士の仕草で口づける。


「これで文句はあるまい」


 そう囁けばシグナスはみるみる顔を赤らめそのままピシリと固まった。あまりに初心な反応にアルマはたまらず目を細める。




 ああまったく、一体どうしてこの男に幻滅できようか。


 美貌の下の素顔を覗くたび──その全てが愛しく思えてならぬというのに。




 巡る迷いに終わりを告げて夜は静かに明日へと向かう。


 月の光が消えゆこうともほどけぬ熱をたずさえて。


 幾千万の星々がその背を優しく見守っていた。





 ひねくれ姫王は美貌の伴侶に幻滅したい ─完─

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