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第二十話

 その晩、アルマは一人シーツにくるまりながらぼんやりと天蓋を見上げていた。いつもなら傍にある筈の熱は未だ訪れぬままで。そのせいだろうか、使い慣れた寝台が今夜は妙に広く冷たいように感じられた。


 脳裏をよぎるのは昼間、執務室でのこと。ルシャードが告げたコルバスの来訪。次の瞬間、耳を衝いた金属音。見れば床に転がった銀盆をシグナスが身をかがめ拾い上げていた。


「申し訳ありません、粗相をいたしました。政務の話をなさるのでしたら私はこれにて失礼いたしますね。ご公務の最中に貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございました──陛(・)下(・)」


 男はいつも通り楚々と微笑みながら淀みなくそう告げると、くるりと踵を返し去って行った──アルマの言葉も待たずして。


 …何もなかったことにされている。震えるような眼差しも熱を孕んだ切ない声も。まるきり今朝と同じように。


 あの男は何を言わんとしていたのか。何が男を躊躇わせるのか。


『陛下。私はただ一人の人間として、陛下を──いえ、ア(・)ル(・)マ(・)。あなたを──』


 その先を恐れていた筈なのに。今は聞きたくて、知りたくてたまらなかった。


 けれど公務を終え夕食の席に着いてもシグナスは現れず。聞けばコルバスの来訪に備え家臣らと準備に追われているという。


「シグナス様より言伝を預かっております。『今夜は遅くなりますので陛下は先にお休みください』とのことです」


 今回の来訪はあくまで私的なものであり大仰な式典は不要と聞かされている。それでも相手が大国ルナリアの皇帝である以上、粗略に扱う訳にはいくまい。部屋の設えから卓上に置く花、供する茶や菓子に至るまで決めねばならぬ事が山程あるのだろう。


 シグナスであればその全てを完璧に取り仕切り、抜かりなく用意を整えるに違いない。そう、完璧に。


 どうにも味気ない夕食を淡々と口へ運びながらアルマはただじっと向かいの空白を見つめていた。食事を終え寝室に移りシーツの中で幾度となく寝返りを打つ。だが待てど暮らせど部屋の扉は開かれぬまま、ただ時間だけが過ぎてゆき。


 ちらりと柱時計に目をやれば時刻はとうに真夜中を過ぎている。まさかこんな時間まで準備に勤しんでいる訳ではあるまい。


 ──避けられている? だが何故?


 コルバスについてアルマが知っている事はさほど無かった。急逝した父の後を継ぎ若くして即位したルナリアの皇帝。貴族の手から帝国を奪い返した英傑にして、かつての栄光を取り戻さんと目論む野心家。どれも全て人づてに聞いた話ばかりだ。


 ただ二人の兄弟仲は決して良好とは言えぬらしい。兄の来訪を知ったシグナスが喜ぶでもなく足早に部屋を去って行ったことからも二人の確執が窺える。


 あの情深い男が誰かを、それも血のつながった肉親を厭うとは。ルナリアで余程の仕打ちを受けたに違いない。…どこまでもお人好しでいつだって穏やかに振る舞うものだから、故郷ではさぞ愛されて育ったに違いないと。人の悪意に触れたことなど一度もないに違いないと、そう信じて疑わなかった。これまでは。


 だが仮にシグナスが兄を嫌っていたとして。何故今、自分を遠ざけようとするのか。兄との再会を恐れているならそれこそ己に助けを求めればよいものを。あの男が一言救いを乞うたならば、例えいかなる苦難が立ちはだかろうと必ずやその全てを打ち砕き陰る心を灯してやるというのに──。


 …。


 ……。


 ………ああくそっ、また思考がよからぬ方へ向かっている。シグナスの事となると決まってこうだ。


 どうして自ら遠ざかってゆく男を気に掛ける必要がある? よいではないか、好きにさせてやれば。あの男がいなければ些細な言動にいちいち振り回されることもない。その微笑みを目にするたび言い知れぬ焦燥に駆られることもない。もっと心穏やかに過ごせる筈だ。



 そう思っていたのに。



 今ようやく掴んだ孤独の中で、アルマの心は嵐を漂う木の葉のように揺れていた。


 瞼を閉じれば男のひたむきな眼差しが、穏やかな弧を描く唇が、やわらかに溶け行く声が、慈愛に満ちた微笑みが。その全てが水泡のように浮かんでは消え、また浮かび上がる。


 遂にアルマは観念して、シーツを払い寝台を降りた。胸騒ぎに押しやられるまま明かりの落ちた廊下へと踏み出す。


 あの男が今どこに居るかなど知る由もない。


 けれど何故だか、その足は自然と一つの方角に向かっていた。かつては母の部屋であり、今ではシグナスのものとなったあの部屋へ。


 シグナスが身を隠すならきっとそこに違いない、と。理由なき直感が囁くままに歩を進める。


 ふと窓の向こうに目をやれば、行き場のない風が家を探して吹き荒れていた。





 目当ての部屋へ辿り着きドアノブへ手を伸ばす。その瞬間、己の指先がひどく強張っていることに気付いた。それでも。心に湧き上がるありとあらゆる雑音を振り払いアルマはそっと扉を押し開けた。


 淡い月明かりの中に微かに揺れる影が一つ。男はあてどない迷子のようにひっそりと窓辺に佇んでいた。物音に気が付いたのか、人影はゆるりとこちらを振り返る。


「陛下…」


 戸惑いか、それとも諦めゆえか。その声は上ずり僅かな震えを帯びていた。


「起きておられたのですね」


 月光が男の横顔を縁取る。いつもは夜闇にあってなお眩しく映る微笑みが今日ばかりは霞んで見えた。


「眠れぬのか」


 ふと脳裏をよぎるのは、二人で迎えた最初の夜。あの時もシグナスはただ静かに窓の向こうを眺めていた。月明かりに撫でられた横顔が、ひどく寂しげに見えて。気付けば、その名を口にしていた。


 あれから幾度も夜を共にしてきた筈なのに。


 月光の中で微笑む男はあの夜よりもずっと寂しげで、孤独に見えた。


「申し訳ありません、要らぬ心配をお掛けしたようで…この部屋は大変居心地がよいものですから時も忘れて思考に耽っておりました。もう間もなく寝室に戻りますので、陛下は先にお休みください」


 シグナスはたちまちいつもの調子を取り戻し常と変わらぬ朗らかな口調でそう告げる。だがその眼差しはどこか遠く、アルマを飛び越え遥か彼方を見つめていた。まるで月明かりさえ届かぬ過去を覗き込むように。


 それはルナリアでの日々か。あるいは今なお燻り続ける苦悶の影か。


「兄が嫌いか」


 そう切り出せば途端男は息を呑んでたじろいだ。笑みを張り付けた顔が俄かに強張り視線が床を流れる。


「いえ、そんな…」

「何を隠す必要がある。どんな聖人であっても苦手とする相手はいるものだ。いかに優しいそなたとて例外ではないだろう」


 知りたいと願わずにはいられない。己を遠ざけるその理由を。過去に閉ざされた痛みの在り処を。その目を陰らせるもの、その笑みを曇らせるもの、その心を縛るもの。その何もかもが憎らしく歯がゆさが胸を焼く。


「私は…」


 アルマはひたすら次の言葉を待ちわびた。神託を乞う聖者のように。慈雨を願う荒野のように。


 シグナスは暫し俯いたまま、月明かりに沈む影をただじっと物憂げに見つめていた。伏せられたまつ毛が月光を遮り儚い瞳に影を落とす。たおやかな両の手は互いを縛りつけるかのように腰元で固く握りしめられていた。


 長い沈黙だった。今や風の音さえ聞こえなかった。二つの一人ぼっちな鼓動を置き去りに夜だけが静寂の中を駆けてゆく。


 どれ程の時が流れただろう。やがてシグナスは意を決したかのように垂れていた首をゆっくりと持ち上げる。


 男の双眸が徐々にこちらを捉えるにつれ、アルマの胸は否応なしに高鳴った。


 ようやく。


 ようやくその心に触れることを許されたのだ。逡巡の末ようやくこの男は妻を信じ、頼り、縋る気になったのだ。


 思わず一歩男の方へ足を踏み出す。


 ああ、これまで人の泣き言を欲したことなど一度たりとて無かったというのに。この男には求めてしまう。この男にだけは許してしまう。


 聞かせてほしい、その胸の全てを。分けてほしい、その痛みの全てを。


 その微笑みの下に隠した傷を、恐れを、弱さを。今こそ自分に委ねてほしい。

 

 そんな願いが、祈りが、目の前の男に届いたのだと。


 そう信じて疑わなかった。


 


 けれど。




 二つの視線が重なったその瞬間。


 見えたのは助けを乞う者の顔ではなかった。


 そこにあったのはもはや己が罪から逃げ切れぬことを悟り、天より課せられし運命を受け入れたものが浮かべる──深い諦念に満ちた乾いた微笑み。


 色を失い温もりさえ枯れ果てた相貌の中で、ただその瞳だけが痛ましいほどの決意に燃えていた。


「…陛下の、仰る通り」


 たちまち消え入りそうなか細い声に解放への喜びは微塵もなく。


「確かに私は兄を、コルバス皇帝を恐れております。あの方の眼差しを思い出すだけで、体の震えが止まらない」


 ただひたすらに胸を裂くかの如き悲痛な響きを帯びていた。


 もしや。


 この男を守ってやりたい。救ってやりたい。


 己が胸に抱いた願いはただの独りよがりにすぎぬのではないか。


 もしや。


 この男が真に恐れているのは、コルバスではなく──。


 呆然と立ち尽くすアルマを前にシグナスは雪崩のごとき勢いで思いの丈を吐き出した。


「ですが陛下、あなたには…決して、知られたくなかった。臆病な私を知られたくなかった。私は、私は完璧な人間でありたいのです。求められたい。必要とされたい。良き夫でありたい。あなたの支えとなれる男でありたい。…あなたに、嫌われたく、ない」




「陛下、私は、わたしは──」


「──あ(・)な(・)た(・)に(・)幻(・)滅(・)さ(・)れ(・)る(・)こ(・)と(・)が、何より恐ろしくてたまらないのです」




 孤独に濡れた慟哭は悲しく夜を揺るがして、星のしじまへ消え去った。




=====================================




 言葉が尽きて


 残されたのは痛いほどの静寂。


 男は再び窓の向こうに目を向け


 今夜は、今夜だけは一人星を眺めていたいのだと


 どうか自分の我儘を許してくれまいかと


 いつも通りの何でもない声で囁いた。


 その背に掛ける言葉もなく


 「そうか」と告げるのがやっとで。


 一人無様に部屋を去り。


 耳の奥で繰り返し男の声が木霊する。


 そんなことはないと。それはただの杞憂に過ぎぬと。


 慰めてやりたかった。囁いてやりたかった。抱きしめてやりたかった。


 だがどうして己にそんな真似ができよう。


 ずっと願っていたではないか。


 その微笑みを剥がしてやりたいと。


 その下に眠る弱さを、歪みを、欠落を暴いてやりたいと。


 それも全て己が心の安寧のため。


 取るに足らぬ見栄のため。


 何を悲しむことがある? 


 こうして願いは叶ったのだ──シグナスの安寧と引き換えに。


 祝え。喜べ。己が勝利に酔い痴れるがいい。


 求めし世界がすぐそこにあるのだから。

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