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第十八話

 時は少し遡り。ガルド王国宰相のルシャードはアルマの執務室へと続く廊下を進んでいた。厄介事の気配を前にその表情は硬く険しい。ある意味、いつも通りとも言える。


 だが一方で喜ばしい誤算も存在した。例えば、目下最大の懸念であった主君の新婚生活。大方の予想を裏切ってアルマは己が花婿と良好な関係を築いていた。


 アルマの婿選びは無論国政を第一としたものであったが──幼き頃より知る少女のため、せめて真っ当な相手を選んでやりたいという思いが無かったと言えば嘘になる。


 その点シグナスは家柄・容姿・気質・教養、どれをとっても申し分ない男であった。…まあ顔の良さなどアルマにとっては何の足しにもならぬであろうが。昔から宝石より剣、ドレスより鎧、舞踏会より試合を好む質なのだ。さもありなん。


 ルナリアがあれ程の秀才を手放したのは、ひとえに皇帝・コルバスとの不仲ゆえであろう。


 ルナリアにとってガルドは邪魔な政敵を追いやるにぴったりな田舎の小国という訳だ。癪な話である。それでも大陸の覇者たるルナリアとの婚姻は考え得る限り最良の結果と言えよう。


 何より、アルマはこの結婚を──と言うより、シグナスという人間を大いに気に入ったらしく。最近は仲を深めようとあくせく勤しんでいるようで。まったく、誕生日でもない相手に贈り物とは…。


 知らぬ間に緩みかけた口元をルシャードはそっと引き締めた。指先で眼鏡の位置を正し僅かに歩調を速めれば、目当ての部屋はすぐそこで。


 敬礼する衛兵を一瞥し戸を叩くべく手を持ち上げた、その瞬間。


『◎△$♪×¥○&%#!!!!!!』


 扉越しに怒声が響き、ルシャードは咄嗟に身を退いた。今のはアルマの声に違いない。元来激しい気性の持ち主だがそれにしても随分な荒れ様である。


「中には誰が?」

「はっ。陛下とシグナス様、それにレオン閣下がいらっしゃいます」

「シグナス殿が? 珍しい」


 聞けばアルマの為に手ずから焼いた菓子を持ってきたという。陛下の事だ、きっと鼻の下を伸ばして喜んだに違いない。それが一体なぜこうもお怒りなのやら。


 火種となり得るのはむしろ人の神経を逆撫ですることに長けた近衛騎士団長様の方だが──あの男を叱責した所で徒労に終わることくらい、アルマも分かっていように。


 その間にも時折アルマの怒号が戸を揺らし。口論の内容こそ分からぬが、声からしてアルマが一方的にまくし立てているに違いない。


 やがて怒鳴り声は収まった。しかし、妙だ。アルマがこれほど早く怒りを鎮めるとは。言い知れぬ不安に駆られルシャードは反射的に戸を叩いた。


 コンコンコン!


「陛下。ルシャードです。陛下? 陛下! 入りますよ、陛下!」


 いくら声を掛けど返事は無く、仕方なしに戸を開けば、部屋の中はなんとも形容しがたい空気に満ちていた。


 アルマとシグナスはどうにも気まずい様子で俯き、その傍らでレオンが我関せずとばかりに突っ立っている。だが奇妙な事に修羅場めいた緊張感はまるでなく。むしろ、何というか…いや、やめておこう。嫌な予感がする。


「陛下、一体何を怒っていらっしゃるのです。廊下にまで声が響いておりましたが」

「ん、ああ、うむ…」


 あの凄まじい剣幕はどこへやら、アルマは無断で部屋に踏み入ったルシャードを咎めることもせずただ歯切れの悪い返事を繰り返すばかり。やはり、妙だ。


「俺が陛下のクッキーを食べてしまってな。それで腹を立ててる」


 元凶とは思えぬ呑気さでそう告げた男を、ルシャードは呆れ交じりに睨《ね》め付けた。恐らくは話の要点を端折っているに違いない。いつもの事である。


「いえ、私が悪いのです。陛下へ正直に申し上げればよかったものを、つまらぬ見栄を張ったばかりに…」

「そうメソメソするな。お前に悪意がなかったことくらい、陛下も分かってるに決まってる」

「レオン…」


 この二人はいつの間に打ち解けたのやら。つくづく人を誑かすのが得意な男である、まったく。


 二人のやり取りを冷ややかに眺めていたルシャードであったが、ふとアルマの方へ目を遣ると──そこには盛大に眉をひそめ、口角を滝の如く下げた主の姿があった。誰がどう見ても「不機嫌」そのものといった顔である。


 …まさかな。いや、だが。


 思い返せば、昔アルマが大層可愛がっていた蛙がレオンの手に飛び乗りケロケロと歌い出した時も、今と同じような顔をしていた。それ以来虫や動物を飼わなくなったあたり、よほど悔しかったのだろう。


 蛙だけではない。剣も、木馬も、おもちゃの硝子玉だってそうだ。アルマは自分が気に入った物を、自分だけの物にしたがる子供だった。みだりに他人が手を触れると決まって不機嫌になるものだから、そんな彼女を宥めるのもまたルシャードの仕事で。


 それでも。それでも、夫が臣下と気安く言葉を交わした程度で嫉妬するほど幼稚ではないと信じたい、のだが。ああくそ、頭が痛くなってきた…。


「陛下。レオン…はともかく、シグナス殿もこのように深く反省しております。どうかお許しを」


 一刻も早く立ち去りたい気分だが、何にせよ宰相としてこの場を収めねばなるまい。ルシャードが取りなすとアルマは露骨に顔をしかめたが、すぐさま何かを思い出したように俯き、そして。


「う、うむ…我も少々頭に血が上っておってな。つい、思ってもないことを口にした。許せ」

「いえ、そんな…私の方こそ、陛下のお気持ちを顧みず浅はかな真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」


 アルマとシグナスは向き合いながらも、視線を合わそうとはしなかった。だが。妙にもじもじと、互いの様子を窺っている。馬鹿馬鹿しい。


「そうだ、ルシャード──」

「お二人とも気持ちの整理がついたようで何より。それではこれにて失礼いたします。レオン、話があるなら外でなさい」

「別にここでも──」

「行きますよ!」


 結局アルマが何故ああも怒っていたのか、その理由は分からずじまいである。しかしもはやそんな事はどうでもよかった。すべて世は事も無し。




「おい、ルシャード。待て。待てと言ってるだろう。お前、とうとう耳まで悪くなったのか?」


 勢いよく執務室を飛び出し、そのまま長い廊下を突き進み、角を二つ曲がったところでようやくルシャードは我に返った。そう言えばこの男、話があるのだったか。それに…ああそうだ、陛下にお伝えすることがあるのをすっかり忘れていた。ええい仕方あるまい、戻らねば。


「一体何の用です?」


 ルシャードが単刀直入にそう問えば、レオンは制服のポケットに手を突っ込み中から小さな紙包みを取り出した。開いた口から中を覗くと──。


「…何ですか、これは」

「何って、クッキーだ」

「クッキー? これが?」

「ああ」


 どう見ても、ハート型の木炭としか言いようのないこれが?


「お前にやろうと思ってな。シグナスに貰ったのを取っておいた」


 ルシャードはふと執務室でのことを思い出す。その時も確かクッキーがどうのこうの言っていた。もしや陛下はこんな焦げクズ欲しさに駄々をこねていたのか?


「これを、私に?」

「ああ」

「…嫌がらせのつもりですか?」


 ルシャードがそう問えば、レオンは酷く不思議そうな顔でこちらを見上げる。何だ、その理解に苦しむ変人を見るような目は。そっくりそのまま返してやりたい。


「お前好きだったろ、焦げたクッキー」

「はあ? 焦げたクッキーを好んで食べる馬鹿がいるとでも?」

「昔はよく、俺が食ってた焦げたクッキーを欲しがったろ」


 一体いつの話をしている。確かにこの男が宮廷に上がる前、ベルトラム家の侍従騎士であった頃は弟と共に焼いたというクッキーを強請ったこともあったが。…別にあれは、「焦げた」クッキーが欲しかったわけではない。


 書類の書き方などいくら説明してもすぐに忘れてしまうのに、何だってこんなどうでもいい事ばかり覚えているのか。自分と二つしか違わないくせに、変な所で年上ぶるのはやめろ。昔からそうだ、この男はいつもいつも…。


 文句はいくらでも思いつくのに。

 気付けば、差し出されたクッキーは、口の中にあって。


 …苦い。マズい。吐き出したい。


 ああ全く、こんな物を欲しがるなんてどうかしている──陛下も、自分も。

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