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第十七話

 その日の午後。書類の山を粗方片づけたアルマが一息つくべくペンを置こうとした瞬間、遠慮がちに部屋の扉が叩かれた。


 コン、コンコン。


 耳馴染みのない控えめなノック。たったそれだけの音で、扉の向こうに立つ人影が容易に想像できてしまい。アルマは反射的に背を正し咳払いで喉の調子を整える。


『陛下、失礼いたします。クッキーと紅茶をお持ちしました』

「ご苦労。入れ」


 静かに開かれた扉の先、そこに立っていたのは予想に違わぬ人物で。皿と茶器を載せた銀盆を手に、シグナスはゆったりとした足取りでこちらにやって来た。


「陛下のお口に合うとよいのですが」


 照れ臭そうに微笑みながら、シグナスは物音ひとつ立てぬようそっと机に皿とカップを並べてゆく。これまで給仕をした経験などあるまいに、つくづく器用な男である。


 目の前に置かれた皿を見れば、大きさも焼き色も均一に整った小ぶりなクッキーが行儀よく並べられていた。…面白味はないが、この男らしい出来栄えと言えよう。


「ど、どうか形はお気になさらず。その型が一番抜きやすかったものですから…」


 シグナスはどこか気まずい様子でそう述べるも、ハート形に抜かれたクッキーは完璧な左右対称を保ち、表面に凹凸やひび割れは見当たらない。厚みも程よく、焼き色も申し分なかった。


「なんだ、よく焼けておるではないか」

「そ、それならよいのですが」


 まったく、何故そうも自己評価が低いのやら。安堵の笑みを浮かべる男を尻目に、アルマは皿の上から適当な一枚を選ぶとそのままひょいと頬張った。


 口に入れた瞬間、バターの香りがふわりと漂う。さくり、と軽い音。次いで優しい甘さが口いっぱいに広がり、ほろほろと崩れながらたちまち喉を通り抜けてしまった。


 もっとその味わいを感じたくて、気付けば二枚目、三枚目に手が伸び。四枚目のクッキーに手を──伸ばしかけたところで、ようやくシグナスがこちらの様子を窺っている事に気付いたアルマは、慌てて右手を引っ込めた。


「まあ、何だ、その…中々、悪くない」


 殊更平静を装ってそう告げるも、それがただの強がりであることは誰の目にも明らかで。シグナスは嬉しくてたまらないとばかりに頬を緩めながらも、律儀に頭を垂れてみせた。


「ふふ、ありがとうございます。よろしければ、もっと召し上がってください」

「…うむ」


 気まずさを誤魔化すべくちらと壁際の柱時計に目をやれば、公務の終了時刻にはまだ遠く。一度休憩を取るついでにシグナスの相手をしてやろうと。


「シグナス、よければそなたも──」


 アルマが口を開いた、その時であった。


 ──ガチャ。


 不意に部屋の扉が開かれ。


「あ」


 ──ガチャ。


 次の瞬間、即座に閉められ。


 ──コンコン。


「入るぞ」


 ──ガチャ。


 そして再び開かれた。…主の返事を待たずして。


 呆れ交じりの視線を物ともせず部屋の中へと入ってきた男に、アルマは思わず溜め息を漏らした。


「はあ…レオン、まったくお前という奴は相も変わらず…」


 もはや何も言う気になれず、言葉は再び溜め息へと変わる。対するレオンは悪びれた様子も無くケロリとした顔で書類を差し出すのだからたまらない。


「悪かった。次からは気を付ける」


 分かっている。この男は決してアルマを侮っている訳ではないのだ。ただ戦闘以外の物事にとんと無頓着で、礼節や規律を守ることは己の役割ではないと割り切っているだけで。


 アルマは今日何度目かも分からぬ溜め息を零しながら、受け取った書類へ不承不承目を通す。普段の素行からは想像もつかぬ程丁寧な字で書かれたそれは──案の定、一行目から誤字が飛び出し。後でルシャードに確認を任せるべく、そっと脇へ押しやった。


 ふと視線を感じ顔を上げると、レオンがじっとアルマの手元──そこに置かれた皿を見つめている事に気付いた。


 ふふん。どうだ、羨ましいか。まあシグナス曰く、我は「優しく」「寛大」な君主であるからして?お前がどうしてもと言うのであれば、一つくらいくれてやっても構わんが。


 などとアルマが得意気にほくそ笑んでいると。


「レオン、先程はありがとうございました」




 ──レ(・)オ(・)ン(・)?




 突如シグナスが発したその言葉を、アルマは一拍遅れて理解した。


 シグナスという男が、下働きの者達すら「殿」をつけて呼ぶ男がこうも親し気に、他者の名前を呼び捨てにするところなど初めて見た。いつの間にそれ程打ち解けたのか。ま、まあ仲のよい友人が出来たという事は、それだけこの城に馴染んできた証であり。妻としてそれは、当然歓迎すべき、はずの事で。 


 い、いや、だが、その。臣下を呼び捨てにする前に、まず妻である我の事を名前で呼ぶべきではないか? まさか我の名を「陛下」と勘違いしている訳ではあるまいな?


「気にするな。昔は焦げたクッキーばかり食べてたからな」

「そう、なのですか?」

「ああ。弟と一緒にクッキーを焼くと、焦げたやつは全部俺が食う羽目になるんだ」

「ふふ…お優しいのですね、レオンは」

「今度は上手く焼けたのか」

「はい、おかげ様で陛下にも喜んでいただけました」


「…待て。先程から何の話をしている」


 自分を差し置いて会話を続ける二人に、アルマはたまらず口を挟んだ。


「実を申しますと…」


 決まりが悪いのか、シグナスは苦い笑みを浮かべながらアルマの方へ向き直る。


「陛下にお出ししたクッキーは作り直した物なのです。初めに焼いたクッキーは火にかけ過ぎたせいで、その、真っ黒に焦げてしまいまして…。捨てるのも忍びなく、後で私が食べようと思っていたのですが、偶然通りがかったレオンが全て引き取ってくださったのです」

「あの時はちょうど腹も減ってたしな。食えれば何でもよかっただけだ」


 ──。


 ────。


 ──────。


 ────────先に、食べた?


 自分より先にシグナスの焼いたクッキーを食べた者がいるという事実に、アルマは暫し呆然と空を見つめる他無かった。己の頭蓋の内側で砲弾がさく裂したかと錯覚するほどの衝撃に、視界がぐにゃりと歪む。


「お…おかっ…」


 だがしかし。アルマはここで泣く泣く引き下がる程やわな女ではなかった。頭蓋を揺らした衝撃はたちまち怒りとなって吹き上がり。


「…へい、か?」


「おかしぃだろぅがっ…!!!!!!」


 アルマは逆巻く憤怒を拳に込めて力一杯振り下ろす。ダンッ! 突然の仕打ちに執務机が悲鳴を上げるも、アルマはお構いなしに捲し立て。


「シグナス、そなた…我より先にレオンへ菓子をやるとはどういう了見だ!」

「へっ…!?」

「どうした、急に怒り出して。そんなに焦げたクッキーが欲しいならルシャードに取っておいた分を──」

「違う! この世のどこに焦げたクッキーを欲しがる馬鹿がおるのだ! お前は少し黙っていろ、レオン!」


 妻であるアルマの方がレオンより絶対、ぜったい、ぜーーーったいシグナスを気に掛けているというのに、何故このような扱いを受けなければならないのか。アルマは世の理不尽さに打ち震えながらなおも抗議を続けた。


「そなたは我を一体何だと思っておるのだ!」

「え、ええと…陛下は、女神ラーンの名のもとこの地を治める全ガルドの守護者にしていと尊き──」

「そういう事を言っておるのではない! 第一に我は!そなたの!妻であろうが!」

「そ、それは勿論存じております」


 言っておくが、これは断じて嫉妬ではない。アルマはただ、この男に夫婦の在り方を問うているだけなのだ。


「夫であるそなたが作った菓子ならば!まず!真っ先に!妻である我へ!差し出すのが筋であろう!!!」

「陛下の仰る通りです。申し訳ありませんでした。ですがその、初めに焼いたものは本当に、真っ黒に焦げてしまいまして…」


 言い訳じみたシグナスの言葉に、アルマの怒りはとうとう頂点に達した。



「我がそんな事を気にすると思うてか!? そなたが作った物であれば、焦げていようが不味かろうが構わぬ! 全て我に差し出せ!!!」



 先走った感情が喉をつたって溢れた瞬間──アルマはふと我に返った。そして気付いた。己が著しく言葉の選択を間違えたことに。


 いや待て。これではまた要らぬ誤解をまね「本当に、申し訳ありません…へい、陛下が、そのように仰ってくださるとは、夢にも思わず…」あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝! 違う! そうではない!


 先程までアルマの言葉に恐縮するばかりであった男の顔は今や夕映えにも似た紅が差し、その声には隠しきれぬ戸惑いと恥じらいが滲んでいた。あたかも今しがた永遠の愛を告げられた乙女の如き反応である。


 くそっ! とにもかくにも誤解を正さねば。部屋中を漂う妙な雰囲気を一刻も早くぶち壊すべくアルマが策を練っていると。


「ん、ああ、そうか」


 あまりに場違いな呑気さでレオンが頷き。


「陛下は焦げたクッキーというより、シグナスが作った菓子そのものが好きなんだな。なるほど、よく分かった」


 ……。


 …………。


「………………だからっ!お前はっっ!!黙っていろっっっ!!!」

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