第44話:埠頭の脅し
夜半、宿の裏手で物音がした。港町の夜は、山の町よりも騒がしい。だが、その物音は、風や酔漢の足音とは、明らかに質が違った。
ヴァンが先に気づき、音もなく起き上がった。私は懐中時計を確かめる。深夜二時十五分。この時刻の来客は、まず善意ではない。
「監査官さま……」
ミリィが、震える声で、押収した帳簿の写しを詰めた鞄を抱きしめた。私は彼女に、動かないよう手で合図する。
裏口の戸が、荒々しく開けられた。三人の男。ヴィンセルの配下だと、体格と歩き方で分かった。
「監査官さんよ。夜分に失礼するぜ。……その鞄、預からせてもらいてえんだが」
「お断りします。それは監査院の押収資料の写しです。持ち出しは、正式な手続きを経ていただきます」
「手続きなんぞ、こっちは知らねえよ」
「知らなくても、無視はできません。あなた方も、後で困ることになります」
一人が踏み出した瞬間、ヴァンが動いた。剣を抜かず、体一つで男の腕を捻り上げる。
「……荒事は苦手じゃねえが、殺しはやらねえ主義でな。あんたらも、それで済ませとけ」
残る二人が身構えたが、ヴァンの動きに一瞬怯んだ隙を、私は逃さなかった。
「現在時刻、深夜二時十七分。当院の押収資料に対する強奪未遂として、記録します。あなた方の名、そして雇い主の名も、この場で控えます」
私は手帳を掲げ、実際に記録する動作を見せた。それだけで、男たちの動きが目に見えて鈍った。記録されるということが、暴力よりも彼らを怯えさせる――この構造は、王都でも地方でも変わらない。
「言っておきますが、ここで私たちに危害を加えれば、雇い主――おそらくはヴィンセル氏でしょうが、その罪は今よりずっと重くなります。単なる不正会計から、監査官への傷害へ。あなた方が背負う分もです」
男たちは、互いに目配せし、捕まった仲間を残したまま、闇へ引き上げていった。
私は、鞄を抱えたまま震えているミリィの背に、そっと手を置いた。
「大丈夫です。書類は無事です。あなたも無事です」
「……はい。すみません、足が」
「謝る必要はありません。あなたが震えながらも鞄を離さなかったこと、それこそが今夜、一番重要な仕事でした」
捕らえた男から、翌朝までに簡単な聴取を行った。雇い主の名までは口を割らなかったが、「組合長からの指示で、監査官の資料を回収するよう言われた」という一言だけは引き出せた。私は、その供述を、日付と時刻を添えて丁寧に控えた。
「ヴァンさん、お手柄でした」
「……あんたらを守るのが、俺の仕事だ。それだけだ」
彼は、それだけ言って、剣の手入れを始めた。ミリィが、その背中を見て、小さく笑った。
「ヴァンさん、かっこよかったですっ」
「……茶化すな」
「茶化してませんっ、本気で言ってます!」
ヴァンは、それ以上何も言わず、剣を鞘に収めた。だが、耳が少し赤くなっていることに、私は気づいていた。
私は懐中時計の蓋を開けた。朝六時。事件は、また一つ、記録に残った。
「これで、ヴィンセル氏の関与は、より明確になりました。彼が本当に恐れているものが何か――それも、あと少しで見えてきます」
夜襲、無事撃退です。ヴァンさんの活躍と、ミリィさんの根性、どちらも見どころでした。雇い主の指示という証言も獲得。
次話、いよいよミリィさんの正体に繋がる大きな発見です。
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