第36話:もぬけの殻
一日目、来なかった。
二日目も、来なかった。
三日目の朝、猟師が険しい顔で小屋から出てきた。
「……妙だな。三日に一度は来てた男が、こんなに空くのは初めてだ」
「心当たりは」
「ねえ。だが――昨日の晩、見慣れねえ男が二人、谷の下の道を通った。猟師には見えなかった」
私とヴァンは、目を合わせた。答えは、口にするまでもなかった。
「歩き方が違ったんですね」
「ああ。荷物の背負い方も、山慣れした奴の担ぎ方じゃなかった。剣呑な気配だけは、こういう商売柄、嫌でも分かる」
猟師に道を教わり、谷筋をさらに奥へ進む。道なき道は、昨日までの山歩きより、さらに険しかった。倒木を跨ぎ、苔むした岩を越え、半刻ほど歩いたところに、朽ちかけた炭焼き小屋があった。人の住んだ形跡はある。灰はまだ温かい。だが、人はいなかった。
私は、戸口に立ったまま、しばらく動かなかった。焦って踏み込めば、残された痕跡を踏み荒らしてしまう。
「……先を越されたか」
ヴァンが、低く呟いた。小屋の中を検めると、寝床は乱れ、鍋は転がったままだった。争った跡ではないが、急いで出ていった跡だった。
「ケイン氏の早馬が届いてから、五日。動くには十分な時間です」
「じゃあ、あいつは――」
「分かりません。捕らえられたのか、自分から逃げたのか。どちらであっても、私たちの手がかりは、また一つ消えたことになります」
私は、努めて淡々と言った。だが、内心では分かっていた。これは、負けだ。証拠も、証人も、記録に残らないまま、また消された。
ヴァンが、拳で炭焼き小屋の柱を打った。木が軋んだ。
「……くそっ! また、間に合わなかった! 五年前も、今度も、俺は――」
彼の声が、初めて割れた。私は、何も言わずに、その背に手を置いた。慰めの言葉は、ここでは無意味だ。彼が欲しいのは、慰めではなく、次の一手だと知っていたから。
「ヴァンさん。一つ、確認させてください。あなたが五年前、間に合わなかったのは、あなたのせいですか」
「……分からねえよ、そんなもん」
「私には分かります。あなたは、当時、告発しました。握り潰したのは、王宮監査局です。今、ギデオン氏に間に合わなかったのも、あなたのせいではありません。先に手を回したのは、向こうです」
「……それでも、間に合わなかったのは事実だ」
「事実です。ですが、事実には二種類あります。あなたが遅れたという事実と、向こうが速かったという事実。同じ結果でも、責任の所在は別です」
ヴァンは、しばらく黙っていた。荒い息が、少しずつ落ち着いていく。それから、乱れた寝床の脇に落ちていた、小さな紙片に目を留めた。手に取り、広げる。
「……これ」
走り書きだった。急いで書かれたのか、文字は乱れている。だが、読み取れる部分があった。
『――もし白狼の者が訪ねてきたなら、伝えてくれ。あの日、俺は――』
文章は、そこで途切れていた。破られたのか、それとも書きかけで持ち出したのか。
ヴァンの指が、その文字をなぞった。震えていた。
「……白狼の者、ってのは」
「あなた宛です、ヴァンさん。ギデオン氏は、いつかあなたが訪ねてくると、信じていたのかもしれません」
「……続きが、どこかにあるかもしれません」
私は炭焼き小屋を、床板の一枚一枚まで検め始めた。ヴァンも、無言のまま、竈の灰を素手でかき分け始めた。灰まみれになった彼の手は、五年前、坑道の瓦礫を掘り返した時と、同じ手だったのかもしれない。私は、そう思いながら、自分の手も泥で汚していった。
窓の外は、いつの間にか、山の日が傾き始めていた。それでも、私たちは、手を止めなかった。
一足遅く、もぬけの殻でした。ですが、書きかけの走り書きを発見。「あの日、俺は――」の続きは、次話へ。
ヴァンの怒り、初めて表に出ました。彼にとって、これは五年前の再演です。
ブックマークと評価(☆☆☆☆☆)は、間に合わなかった悔しさごと、次話への燃料にいたします。




